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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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◈Nicolò Paganini: Violin Concerto No.1 in D major, op.6
Zino Francescatti (Vn)
The Philadelphia Orchestra / Eugene Ormandy
(Rec. 15 January 1950, Philadelphia)
◈Camille Saint-Saëns: Violin Concerto No.3 in B major, op.61
Zino Francescatti (Vn)
New York Philharmonic / Dimitri Mitropoulos
(Rec. 23 January 1950, New York)




18世紀末から19世紀前半にかけてニコロ・パガニーニ(Nicolò Paganini, 1782-1840)という超絶技巧のヴァイオリン弾きがいました。パガニーニの生涯については、一応解説した記事がありますので、暇なときにご確認ください。かいつまんで言いますと、パガニーニは、自分で編み出した超絶技巧の数々で一世を風靡した19世紀イタリアのヴァイオリン奏者兼作曲家です。ただ、その超絶技巧の秘密をなかなか開陳しようとしませんでした。その徹底した秘密主義と、教会への寄付金まで渋る吝嗇気質の所為で、生前の評判は非常に悪いものでした。特に秘密主義に関しては、秘密を握られるのが怖いから弟子を取らないと陰口を叩かれていましたが、その反論として、パガニーニも弟子を取ったことがあります。その弟子というのがカミーロ・シヴォリです。
ここでシヴォリの話題に触れるのは、ここで紹介するCDでヴァイオリン独奏を担当しているジノ・フランチェスカッティ(Zino Francescatti, 1902-1991)(以下「フランチェスカッティ」)が、シヴォリの孫弟子に当たるからです。
シヴォリは、アントニオ・レスターノ、ジャコモ・コスタとアゴスティーノ・デル・ピアーネの下でヴァイオリンを学び、1823年から一年間パガニーニの下で腕を磨きました。パガニーニと師弟関係を結んだ期間は短かったものの、パガニーニ唯一の弟子という肩書きは、シヴォリの名声の確立に一役買ったのは確かなようです。そんなシヴォリは、パガニーニと違って後進の指導にも熱心に当たりましたが、その弟子の中に、ヴェローナ出身のフォルトゥナート・フランチェスカッティ(以下「フォルトゥナート」)がいました。彼は、マルセイユ音楽院でヴァイオリンを教えつつ、マルセイユ歌劇場のオーケストラのコンサートマスターを努めていたヴァイオリンの名手でした。この父フォルトゥナートは、1901年に17歳だった教え子のエルネスタ・フェルー(以下「エルネスタ」)と結婚(年の差はおよそ26歳です!)しました。結婚後、エルネスタは家庭に入り、2人の息子を儲けましたが、その長男のルネ=シャルル(René-Charles Francescatti)が「ジノ・フランチェスカッティ」を芸名にし、世界的に有名なヴァイオリン奏者に成長しました。しかし、フランチェスカッティは、ヴァイオリン奏者になるまで、順風満帆の音楽学生だったわけではありません。フォルトゥナートは、自身の勤務先であるマルセイユ音楽院でフランチェスカッティに和声法と対位法を学ばせ、自宅でヴァイオリンの手ほどきをしましたが、ヴァイオリン演奏を職業とするよりも、もっと手堅い職業として法曹界に進むことをフランチェスカッティに課しました。しかし、1923年にフォルトゥナートが亡くなり、エルネスタがヴァイオリン教師としてフランチェスカッティ家の屋台骨を支えることになりました。一家の一大事に、フランチェスカッティもヴァイオリン演奏で家計の足しにしようと動き出し、1924年にはパリでパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を弾いて成功を収めました。これがジャック・ティボーの目に止まったことで、ティボーの後援を受けるようになり、1927年にはティボーの計らいでパリ音楽院の学内コンサートに独奏者として出演。同年、エコール・ノルマル音楽院のヴァイオリン教師に召し抱えられ、ガストン・プーレの率いるコンセール・プーレのコンサートマスターを務めたり、コンセール・ストララムに参加したりしてフランスでの名声を高めました。1939年にはアメリカに活動の本拠を移し、世界的なヴァイオリンの名手としての名声を恣にしましたが、1976に引退を発表し、以後、亡くなるまでラ・シオタで隠遁生活を送りました。なお、フランチェスカッティの母エルネスタは、1982年まで長生きしました。

パガニーニの弟子がシヴォリであり、シヴォリの弟子がフォルトゥナートであり、フォルトゥナートの弟子がフランチェスカッティであるという弟子筋の関係から、フランチェスカッティは屡々パガニーニ直系の奏法の伝承者と見做されます。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番は、プロフェッショナルとしてパリでデビューを飾った勝負曲で、オーケストラと共演する際には度々演奏を所望されました。ここに聴くユージン・オーマンディ(Eugene Ormandy, 1899-1985)の指揮するフィラデルフィア管弦楽団の伴奏のものは、フランチェスカッティの代表的なパガニーニ作品の録音です。しかし、フランチェスカッティとしては、パガニーニの作品解釈に特化したヴァイオリン奏者としてラベリングされることを警戒したのか、公式な録音ではパガニーニの作品を系統立てて録音することはせず、ステレオ録音の方式に移行した後も、この曲を再録音しませんでした。
フィラデルフィア管弦楽団を指揮してフランチェスカッティをサポートするオーマンディは、本名をイェネー・ブラウ(Jenő Blau)といい、イェネー・フバイ門下のヴァイオリンの天才少年としてキャリアを出発させた音楽家です。ブダペストに生まれ、ブダペストに育ち、20歳で母校のブダペスト音楽院のヴァイオリン科教授になる程の早熟ぶりを示しましたが、22歳のときにアメリカに演奏旅行に行ったとき、マネージャーに騙されて無一文でアメリカに取り残されたのが縁となって、アメリカを演奏活動の本拠に定めました。当初はニューヨーク・キャピトル劇場のオーケストラに就職しましたが、持ち前の腕前の良さからすぐにコンサートマスターに昇格し、1924年に急病の指揮者の代役としてキャピトル劇場のオーケストラを指揮して成功を収めたことで、指揮者に転向することになりました。1931年にはアルトゥーロ・トスカニーニの代役としてフィラデルフィア管弦楽団に客演して、フィラデルフィア管弦楽団とコネクションを作り、ミネアポリス交響楽団の首席指揮者としてしばらくキャリアを積みました。1936年からレオポルト・ストコフスキーと共同でフィラデルフィア管弦楽団を指揮するようになり、1938年にはストコフスキーの退任により、1980年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を歴任しました。音楽監督を退任した後も、フィラデルフィア管弦楽団とは良好な関係を続け、1984年に体調を崩して引退するまで、このオーケストラに関わり続けました。

このオーマンディと共演したパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番の録音は、この録音がリリースされた当初から、この曲の代表的な名盤として誉の高かったものです。再発売も繰り返され、フランチェスカッティが再録音をしなかったので、疑似ステレオ効果を付加したバージョンも作られましたが、そちらは無理やり残響音をくっつけた結果、録音の印象が悪くなっています。
なにはともあれ、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番といえばアウグスト・ヴィルヘルミによる第1楽章のみを取り出して弄り回した版が幅を利かせていた時代において、フランチェスカッティの録音は、パガニーニ直系のオーソリティとして崇められました。しかし、例えばイェフディ・メニューインが若かりし頃にジョルジュ・エネスクの助言下でピエール・モントゥーの指揮するパリ交響楽団と共演した第二次世界大戦前の原典版による演奏と比べると、フランチェスカッティの演奏は、オーケストラの伴奏を中心に大胆なカットを入れているのがわかります。原典通りの演奏がパガニーニの協奏曲演奏として前提化しつつある今日では、フランチェスカッティの処置は旧弊的な演奏と見做されることになるでしょう。かつての名盤としてのフランチェスカッティの録音は、昔のパガニーニのヴァイオリン協奏曲の演奏習慣の一例として、歴史的価値から捉え直されることになります。
しかし、そうした時代的制約を演奏の出来栄えの減点対象としても、フランチェスカッティ演奏は魅力的です。第1楽章で大見得を切り、第2楽章で聴き手のテンションをクールダウンさせ、第3楽章を軽く仕上げて後味を引きずらないようにするという、聞き手を楽しませる効果に特化した合理的な解釈の設計もさることながら、その設計通りの演奏を余裕綽々で実現してしまうフランチェスカッティの技量は、他の演奏者たちの演奏のほうが、ごまかしが入っているのではないかと思うくらいに説得力があります。いや、イヴリー・ギトリスみたいなトリック・スター的な演奏と比べると、ちまちましたパッセージを明らかに簡略化しているのですが、迷いやふらつきの一切ない堂々たる弓さばきで、細かい音型まで豊麗かつ歌心たっぷりに鳴り響くフランチェスカッティのヴァイオリン独奏は、フィラデルフィア管弦楽団の面々すら一瞬聴き惚れて反応が遅れる(第1楽章の12分49秒あたり)ほど。この演奏を聴くと、思わず「これ以上の演奏はあるだろうか、いやない!」などと書きたくなってしまいます。これが正しい演奏だと思わせる貫禄が、フランチェスカッティの独奏には備わっています。
オーマンディの伴奏は、大胆に刈り込まれてオーケストラの見せ場がだいぶ削られているとはいえ、フランチェスカッティを支えるには十分な力感があります。単に和音を鳴らすだけでも、一音一音にどっしりとした重みがあります。しかし、その重みでフランチェスカッティの動きを鈍化させないように歯切れの良さも加えています。絶妙な間合いで独奏者がのびのび演奏できるようなフィールドを作る名人としてのオーマンディの伴奏にしては、ニュアンスの付け方が剛直な気がしないでもないですが、小細工抜きの正面突破でパガニーニをねじ伏せるようなフランチェスカッティの力感と痛快さには合致しており、フランチェスカッティの演奏設計に最適化した伴奏なのでしょう。勧善懲悪の剣劇のイメージで聴くと、楽しめる演奏です。

サン=サーンスは、フランスのパリ出身の作曲家で。1871年に国民音楽協会を設立して、フランス音楽の独自性を打ち出すのに貢献しました。彼の生涯については、既に解説した記事があるので、そちらを参照してください。サン=サーンスは、同業者に辛辣な人でしたが、自分が一流と認める人には気前よく作品を書くことがよくありました。例えば、スペイン人ヴァイオリン奏者のパブロ・デ・サラサーテとは若い頃から何度も共演して才能を認めあった仲であり、彼のために何曲か曲を提供しています。1879年から翌年にかけて書かれたこのヴァイオリン協奏曲第3番も、サラサーテに献呈するために作った作品です。作品を受け取ったサラサーテは、その年の内にハンブルクに行き、地元のフィルハーモニー協会の10月5日の演奏会に出演して、アドルフ・ゲオルク・ベーアの指揮で初演して大成功を収めました。曲は三楽章構成で、テンポ設定は伝統的な急-緩-急。調号のロ短調はニ長調の平行調であり、ヴァイオリンの鳴りが良いとされる調を取っています。第1楽章は管弦楽による主題提示を省略したソナタ形式。ラプソディックな節回しで渋く決める大人の音楽ですが、野暮ったさを回避するために再現部もコンパクトにしています。第2楽章は穏やかな舟歌で、峻厳な第1楽章と見事なコントラストを作っています。第3楽章も形式上はソナタ形式。第1楽章と同じような無頼漢風のヴァイオリン独奏で序奏を形成し、ロ短調の決然たる第一主題とニ長調の平明な第二主題を繰り出しますが、第二主題からコラール風の動機を編み出し、これを堂々たる終結の動機に使うという変則的な構成を取ります。楽式面では定石通りではないところが見受けられるとはいえ、演奏効果を視野に入れた換骨奪胎は、調性音楽の作曲法を知り尽くした人ならではの自由自在な筆致と言えるでしょう。
このCDで聴ける演奏は、フランチェスカッティの独奏と、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos, 1896-1960)の指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団(New York Philharmonic-Symphony Orchestra)の伴奏のものです。CDではニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)とクレジットされていますが、この名称を使い出したのは、ミトロプーロスの後任として音楽監督になったレナード・バーンスタインの時代に改められたものなので、厳密にはクロノロジー違反ということになります。
ミトロプーロスはギリシャのアテネ出身の指揮者。本名のファースト・ネームは、ディミトリス(Dimitris)です。地元の音楽院でルートヴィヒ・ヴァッセンホーフェンに学んだ後、ブリュッセルに行ってアルマン・マルシックに和声法と対位法、ポール・ギブソンに音楽理論を教わり、ベルリンでフェルッチョ・ブゾーニの薫陶も受けました。1921年からエーリヒ・クライバーのアシスタントを務めましたが、1925年に帰国してからはギリシャとドイツを行き来する形で活発な演奏活動を展開しました。1936年にボストン交響楽団に客演したのを期に、活動の本拠をアメリカに移すようになり、1937年からミネアポリス交響楽団(後のミネソタ管弦楽団)の首席指揮者を務めてアメリカでの名声を確立しました。1949年からニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の指揮者に転じ、1951年に同オーケストラ初の音楽監督に就任。1957年からバーンスタインと共同で首席指揮者となり、1958年に勇退しました。以後、次第にヨーロッパに活動の軸足を移していきましたが、ミラノのスカラ座でオーケストラに稽古をつけている最中に心臓発作を起こして急逝しています。
ミトロプーロスは、作曲もし、ピアノも弾く才人で、1930年にはピアノを弾きながらオーケストラを指揮する、いわゆる弾き振りを披露するほどでした。こうしたことから、協奏曲の伴奏を得意にしていたところがあります。また、指揮者としても細かな間違いすら漏らさず指摘出来る耳の良さを誇り、それがためにオーケストラからは「耳のお化け」と恐れられていました。さらに、どんな複雑な楽譜でも一度見ただけで記憶できる能力を持っており、この能力でグスタフ・マーラーの交響曲を演奏したり、同時代の作曲家の新作を積極的に取り上げたりしていました。尤も、同時代作品の擁護者としての傾向故に、後衛的な趣味のあるニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団では、ミトロプーロスは心臓を悪くするほどにストレスを溜め込んでしまうわけですが…。

そんなミトロプーロスの伴奏で、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲を聴くわけですが、ミトロプーロスにとって、サン=サーンスは音楽的恩人です。ミトロプーロスは、作曲家として1919年にオペラを書き上げたことがありましたが、このオペラを称揚し、ヨーロッパでの活動の道を開いてくれたのが、晩年のサン=サーンスでした。
ミトロプーロスの伴奏は、いつでもフルスロットルの力を出せる臨戦態勢のサウンドでフランチェスカッティを支えています。気まぐれに流れがちな音楽の流れを早めのテンポでテキパキと整理し、メリハリのついた爽快な音楽を作り上げています。総奏ではオーケストラから大鳴動を引き出しながら、フランチェスカッティが出てくると、サッと後ろに退く、軽重を巧みに使い分けた伴奏故に、フランチェスカッティがねっとり歌っても、味付けがしつこくなりません。惜しむらくは、ところどころでオーケストラの音色にフランスのオーケストラのような色彩感がないこと。ミトロプーロスが振るタイミングで音を出し、クレッシェンドやデクレッシェンド等をするのは当然のこととして、ちょっとしたメロディ・ラインの受け渡しでニュアンスを付ける場面があっても良かったのではないかとも思います。
なにはともあれ、フランチェスカッティは、ミトロプーロスの作り出す盤石な土台の上で、どんな細かな音も豊かに鳴らし、瑕疵のない演奏を堂々と展開しています。第2楽章がテノールの歌うイタリア・オペラのアリアのように聴こえるのは、フランチェスカッティならではの至芸でしょう。整理整頓された伴奏の上で大スターが華麗な技巧を振りまきながら朗々と歌う、紛うことなき名演奏の構図を地で行く演奏といえますが、大きな苦難を様々な方策を尽くして乗り越えていく成長物語のようなスリルが欲しい向きには、万事がうまく行き過ぎて物足りなく感じるかもしれません。

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