1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Giacinto Scelsi: Triphon
◈Giacinto Scersi: Dithome
◈Giacinto Scelsi: Ygghur
Arne Deforce (Vc)
(Rec. 16-17 December 2006)
ジャチント・シェルシ(Giacinto Scelsi, 1905-1988)は、イタリアの作曲家です。
シェルシは、元々十二音技法を会得した作曲家でしたが、この技法のシステムと自らの個性とのそりが合わず、精神病を患い、ひとつの音に固執してとことん聴き込むという作業を通して、自己の作曲技法を確立し、自由に発展させました。
彼は、自らが写真の被写体になることを拒み、一本線の上に円形を描いたものを、自分のプロフィール写真として使っていたことでも知られています。
このCDで収録されている3作品は、無伴奏チェロのための3部作です。
最初の作品である《三和音》(Triphon)は、1956年の作品で、〈青春〉(Jeunesse)、〈エネルギー〉(Energie)、〈ドラマ〉(Drame)の3つからなります。
この作品は、1950年代までのシェルシの自伝を音楽で表現したもののようです。
金属製の弱音器をつけたチェロで演奏されるため、チェロがギコギコ音を鳴らすと、それに比してジジジ…というノイズが入ります。
〈青春〉は、暴力的にのた打ち回る音楽で、荒れた反抗期のようでもあります。
〈エネルギー〉では、金属製の弱音器が外され、〈青春〉で放出された暴力性が、トランペットのファンファーレを模した音形の引用でカリカチュアにされます。
〈ドラマ〉では再び弱音器がつけられ、〈青春〉で表現された暴力性を超絶技巧で再現しつつ、協和音を織り込んでいくことで洗練味を加えていきます。
2つ目の作品である《二分》(Dithome)は、《三和音》を受けて1956年から翌年にかけて作られた作品で、《三和音》が青年期の表現だったのに対し、この作品では成人期の自分を投影しています。
この音楽は、神韻と慟哭の両面がせめぎあい、紆余曲折を経て調和を見い出していく過程が描かれています。
17分の長丁場をひたすらチェロが奮闘しますが、静と動の間を揺れ動きながら、静寂の世界へと立ち戻っていくドラマ性は、とても聴き応えがあります。
3つ目の作品である《イグール》(Ygghur)は、1961年に作曲され、1965年に譜面化された作品です。タイトルは、サンスクリット語で「浄化」を意味する言葉であり、前2作品を受けて、老年期の自分(といっても、この作品を書いたときシェルシは50代)を表現しようとしたものです。
この作品は、3つの楽章からなり、それぞれに〈老い〉(Vieillesse)、〈思い出〉(Souvenir)、〈カタルシス/解放〉(Catharsis-Libélation)という題がつけられています。
〈老い〉では、次第に音の動きがなくなり、同音反復に固執しはじめます。〈思い出〉に至ると、同音反復の傾向はますます強まります。弓でこする音を中心に、リズミカルにピチカートが重ねられます。
〈カタルシスと解放〉では、弓でこする音の音程の切れ目がいよいよ不明瞭になり、リズミカルな躍動性もなくなります。隣接する音との間を弱弱しく揺らめきながら、チェロの音が静寂の闇へと消えていくあたりは、何か解脱したような感覚にとらわれることでしょう。
演奏は、ベルギー出身のアルン・デフォルス(Arne Deforce, 1962-)が担当しています。
デフォルスは作曲もするという、マルチな音楽家ですが、シェルシの音の感性にピッタリと寄り添い、豊かな音色でシェルシの音楽を再現しています。
《三和音》から《ニ分》に至るまでは、パワフルな演奏で聴き手を驚嘆させますが、《イグール》の〈カタルシスと解放〉では、デリケートな音の移ろいを、細い糸でも紡ぐように演奏しています。
表現の細やかさと大胆さが同居したデフォルスのソロによって、これらの作品がより多くの人の心をぐっとつかむものになることを願っています。
シェルシは、元々十二音技法を会得した作曲家でしたが、この技法のシステムと自らの個性とのそりが合わず、精神病を患い、ひとつの音に固執してとことん聴き込むという作業を通して、自己の作曲技法を確立し、自由に発展させました。
彼は、自らが写真の被写体になることを拒み、一本線の上に円形を描いたものを、自分のプロフィール写真として使っていたことでも知られています。
このCDで収録されている3作品は、無伴奏チェロのための3部作です。
最初の作品である《三和音》(Triphon)は、1956年の作品で、〈青春〉(Jeunesse)、〈エネルギー〉(Energie)、〈ドラマ〉(Drame)の3つからなります。
この作品は、1950年代までのシェルシの自伝を音楽で表現したもののようです。
金属製の弱音器をつけたチェロで演奏されるため、チェロがギコギコ音を鳴らすと、それに比してジジジ…というノイズが入ります。
〈青春〉は、暴力的にのた打ち回る音楽で、荒れた反抗期のようでもあります。
〈エネルギー〉では、金属製の弱音器が外され、〈青春〉で放出された暴力性が、トランペットのファンファーレを模した音形の引用でカリカチュアにされます。
〈ドラマ〉では再び弱音器がつけられ、〈青春〉で表現された暴力性を超絶技巧で再現しつつ、協和音を織り込んでいくことで洗練味を加えていきます。
2つ目の作品である《二分》(Dithome)は、《三和音》を受けて1956年から翌年にかけて作られた作品で、《三和音》が青年期の表現だったのに対し、この作品では成人期の自分を投影しています。
この音楽は、神韻と慟哭の両面がせめぎあい、紆余曲折を経て調和を見い出していく過程が描かれています。
17分の長丁場をひたすらチェロが奮闘しますが、静と動の間を揺れ動きながら、静寂の世界へと立ち戻っていくドラマ性は、とても聴き応えがあります。
3つ目の作品である《イグール》(Ygghur)は、1961年に作曲され、1965年に譜面化された作品です。タイトルは、サンスクリット語で「浄化」を意味する言葉であり、前2作品を受けて、老年期の自分(といっても、この作品を書いたときシェルシは50代)を表現しようとしたものです。
この作品は、3つの楽章からなり、それぞれに〈老い〉(Vieillesse)、〈思い出〉(Souvenir)、〈カタルシス/解放〉(Catharsis-Libélation)という題がつけられています。
〈老い〉では、次第に音の動きがなくなり、同音反復に固執しはじめます。〈思い出〉に至ると、同音反復の傾向はますます強まります。弓でこする音を中心に、リズミカルにピチカートが重ねられます。
〈カタルシスと解放〉では、弓でこする音の音程の切れ目がいよいよ不明瞭になり、リズミカルな躍動性もなくなります。隣接する音との間を弱弱しく揺らめきながら、チェロの音が静寂の闇へと消えていくあたりは、何か解脱したような感覚にとらわれることでしょう。
演奏は、ベルギー出身のアルン・デフォルス(Arne Deforce, 1962-)が担当しています。
デフォルスは作曲もするという、マルチな音楽家ですが、シェルシの音の感性にピッタリと寄り添い、豊かな音色でシェルシの音楽を再現しています。
《三和音》から《ニ分》に至るまでは、パワフルな演奏で聴き手を驚嘆させますが、《イグール》の〈カタルシスと解放〉では、デリケートな音の移ろいを、細い糸でも紡ぐように演奏しています。
表現の細やかさと大胆さが同居したデフォルスのソロによって、これらの作品がより多くの人の心をぐっとつかむものになることを願っています。
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