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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Wolfgang Amadeus Mozart: Piano Concerto No.21 in C major, K467
Géza Anda (Pf)
Toronto Symphony Orchestra / Karel Ančerl
(Rec. 4 March 1970) Live Recording with Applause
Johannes Brahms: Piano Concerto No.1 in D minor, op.15
Géza Anda (Pf)
Concertgebouw Orchestra of Amsterdam / Eugen Jochum
(Rec. 1 April 1967) Live Recording with Applause







ハンガリーは、日本語と同じように、名前の並び方が「姓・名」という並び方になりますが、欧米の慣習では「名・姓」という並び方になります。
ハンガリーはブダペスト出身のピアノ奏者であるゲーザ・アンダ(Géza Anda, 1941-1976)も、母国の文化を尊重するならばアンダ・ゲーサとなりますが、ここでは慣習に従っておこうと思います。
アンダは、少年時代にイムレ・ステファニアイ、イムレ・ケーリ=サーントー、エマヌエル・ヘギの各氏にピアノを学んだあと、エルネー・ドホナーニの門人となった名手。1939年にウィレム・メンゲルベルクの指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)のピアノ協奏曲第2番を弾いてデビューを飾りました。第二次世界大戦中はベルリンに留学していましたが、ドイツの選挙区の悪化に伴い、スイスに亡命し、そのままスイス国籍を取得しています。ピアノ奏者としては、同郷の作曲家であるベーラ・バルトークの作品を積極的に紹介して名を上げましたが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の作品解釈にも大変力を入れ、モーツァルトのピアノ協奏曲全集の世界初録音企画をドイツ・グラモフォンにぶち上げていました。尤も、後発発進のCBSレーベルによるリリ・クラウスによるモーツァルトのピアノ協奏曲全集の録音の方が手早く録音を済ませてしまったので、アンダの全集は「世界初」のモーツァルトのピアノ協奏曲全集セットになりませんでしたが…。
ここで聴くアンダの演奏は、カレル・アンチェル(Karel Ančerl, 1908-1973)指揮するトロント交響楽団の伴奏によるモーツァルトのピアノ協奏曲第21番(K467)と、オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum, 1902-1987)指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の伴奏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番です。

モーツァルトは神聖ローマ帝国の大司教領区だったザルツブルク出身の作曲家。モーツァルトについては、過去の記事で言及しています。
モーツァルトのピアノ協奏曲第21番はモーツァルト自身の予約演奏会用に1785年に作られた作品。モーツァルトのピアノ協奏曲は通し番号で第27番までありますが、第1番から第4番までが他人のピアノ・ソナタをピアノ協奏曲に仕立てたもので、第5番から第10番(ピアノ2台用)までが生地ザルツブルクで活動していた頃の作品でした。第11番以降がウィーンを本拠に定め、予約演奏会を開いて活動した時期のピアノ協奏曲になりますが、第20番以降から聴衆の好みを度外視して自分の作曲家としての表現の可能性を追求した作品を書くようになりました。第20番はニ短調の調性を取り、宮廷音楽的好みから外れたドラマティックな音楽を書きましたが、第21番ではハ長調の調性で華やかな作品に仕上げています。しかし10番台のピアノ協奏曲に立ち戻ったわけではなく、自由自在に転調して短調の風合いを効果的に混ぜているあたり、単なる陽気では済まさないモーツァルトの音楽表現の深まりが感じられるでしょう。第二楽章の三連符の伴奏に乗せて優雅なメロディを奏でるあたりは、スロー・ロックのバラードを先取りしたような音楽です。

ブラームスは、ドイツ連邦の自由ハンザ都市ハンブルク出身の作曲家。詳しくは過去の記事に書いてあります。ブラームスの使命的課題は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの業績に比肩し得る交響曲を仕上げること。これは音楽的恩人のロベルト・シューマンが積み残した課題でもありました。1855年から1876年までブラームスは交響曲第1番の作曲に取り掛かりましたが、その作曲の直接的な引き金になったのは、ここに聴くピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノ協奏曲第1番は、1854年から1857年にかけて作曲された、ブラームスの若かりし頃の作品です。シューマンが精神的に変調をきたして精神病院に収容された1854年3月頃、ブラームスはピアノ2台用のソナタを構想し、7月には作品を仕上げて高名なるピアノ奏者だったシューマン夫人クララのところに持っていきました。クララと試奏したところ、楽想が交響曲向きだという事に気づいたブラームスは、これを交響曲に改作しようとしました。これが交響曲第1番の基本構想になりましたが、この改作を進めるうちに、やはりピアノの音も欲しくなり、いったん交響曲にするのをやめて3楽章構成のピアノ協奏曲の作曲に方針転換しています。曲が完成に近づいた1856年にシューマンが亡くなったことで、作り終えていた緩慢楽章を一から作り直し、元々第二楽章だったものは、素材に分解して後年作曲することになるドイツ・レクイエムに再利用されました。この第2楽章にはシューマンへの哀悼の気持ちと未亡人となったクララへの慰めの気持ちが込められています。1857年に作品を最後まで書き終えた後も、手直しを続け、1859年1月22日にハノーファーで作曲者本人のピアノとヨーゼフ・ヨアヒムの指揮で初演されました。ただ、この初演は無条件に成功とは言えず、数日後にライプツィヒで演奏された時には野次まで飛ばされました。当時の聴衆は、名技牲を前面に出した独奏協奏曲に慣れており、オーケストラのパートまで徹底的に作り込まれた作品を失敗作と見做しました。しかし、ブラームスの美学ではそういう名技性偏重の作品づくりが性に合わず、ライプツィヒでの演奏の後、ヨアヒムに「僕はわが道を行くのみ」と手紙を書き送っています。尤も「なんて野次が多かったこと!」と詠嘆もしており、1879年にライプツィヒでブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演することになったときには、この時の経験を思い出して後ずさりもしています。
ブラームスの作品としては、若書きという事もあって、オーケストレーションも響きのブレンドにまで気が回っていませんが、第一楽章の管弦楽による主題提示部の拍を刻むティンパニの扱い方や、ピアノ独奏ばかりに美味しいところを持っていかせないモチーフの割り振り方などに交響曲第1番への萌芽を覗かせます。ブラームスとしても、この作品には特別の思い入れがあり、未熟な作品として処分することはありませんでした。また、この作品から協奏曲を書く際には、従来的な独奏者中心ではない、オーケストラと拮抗する形の協奏曲作りに執心しました。軽い気持ちで独奏者が曲を取り上げたら、その独奏者は曲に返り討ちにされてしまうでしょう。両手で和音をわしづかみにしながらフォルテッシモでトリルを奏で続けられるほどに鍛錬を積まなければ、オーケストラの奔流に飲み込まれ、ピアノは何をしているのかわからなくなります。

モーツァルトのピアノ協奏曲は、ドイツ・グラモフォンで録音した時にはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団を弾き振りするほど自家薬籠中のレパートリーでしたが、ここでのアンダは、カレル・アンチェル(Karel Ančerl, 1908-1973)指揮するトロント交響楽団と競演しています。
アンチェルは、オーストリア=ハンガリー領だった南ボヘミアのトゥカピ出身の指揮者。アロイス・ハーバに作曲も学んでおり、指揮者としては同時代を積極的に取り上げる進取気質の人でした。指揮法はヴァーツラフ・ターリヒとヘルマン・シェルヘンに学んでおり、1933年にプラハ交響楽団の首席指揮者としてキャリアをスタートさせました。しかし、ナチスの台頭により、1939年にユダヤ系だったことでプラハ交響楽団のポストを解任させられたうえ、一族全員でテレジン強制収容所を経てアウシュビッツ強制収容所に送られたうえ、自分以外の一族がすべて殺害されるという悲劇を味わっています。第二次世界大戦後は、プラハ歌劇場やプラハ放送交響楽団の首席指揮者を経て1950年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任し、ターリヒの時代以来のこのオーケストラの黄金時代を築き上げました。しかし、1968年のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのアメリカ大陸への演奏旅行の最中にチェコがソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍の軍事介入を受けた報を聞き、帰国を断念してチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を辞任したうえでカナダに亡命し、トロントを終の棲家としました。カナダでは小澤征爾の後を受けてトロント交響楽団の首席指揮者に就任し、このオーケストラの合奏能力を磨き上げました。トロント交響楽団の在任中には、余命幾許もないジョージ・セルからクリーヴランド管弦楽団の首席指揮者の引継ぎを望まれたこともありますが、アンチェルは糖尿病と肝臓病の持病で満身創痍だったため、内々にその話を断っています。
トロントに亡命後のアンチェルの録音は、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の時代と比べてとても少なく、この録音はカナダでのアンチェルの活動を知る上でも貴重なもの。アンチェル指揮科のトロント交響楽団は、アインザッツが少々雑だったり、低弦が少し出遅れたりと、技術的な瑕疵が散見されます。しかしその傷を広げることなく、響きを引き締めながらアンダに適切に寄り添えるように楽員たちの音楽を誘導していくアンチェルの手腕は確かなものです。
アンダの弾いているピアノは、一流のコンサート・ホールでメンテナンスされたピアノに比べるとガタピシしているようですが、アンダはそのピアノの特性をうまく利用して、フレーズの一つ一つに絶妙なニュアンスを加えることで、ピアノの弱点を克服しています。時には自由にテンポを揺らしてロマンティックな表情付けも辞さないアンダですが、軽やかな所作で諄さを軽減しつつ、アンチェルの確実なサポートをうまく利用して全体的な造形に破綻のないように演奏を纏めています。特に聴きどころは第二楽章でしょうか。右手のシングル・トーンをピアノの特性に合わせつつ、甘美な音で艶っぽく色揚げしています。ピアノの名人は、多少のピアノのコンディションの不備も味方に付けてしまうものです。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番では、ヨッフムの指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との共演。ヨッフムの経歴については、過去の記事を参照してください。
上述のアンチェルの演奏を聴くと、ヨッフムの伴奏は、かなりラフな伴奏のように聞こえます。ヨッフムは1961年から1964年まで、若きベルナルト・ハイティンクの後見役として共同名義のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者のポストを引き受けていたことがあり、その後も度々客演していましたが、ここでは勝手知ったる仲としての悪い面が出てしまったようです。元々アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、まろやかで豊かな響きを特徴とするオーケストラでしたが、ここでのブラームスの作品は若書きという事もあり、不器用で直情的です。これを勢いに任せて粗く演奏しすぎると荒野のような音楽になりますが、後年のブラームスの作品と同じような成熟した響きでマイルドに演奏すると、角を矯めて牛を殺すことになります。ヨッフムの伴奏は、この後者寄りの演奏で、どんよりした仕上がりになっています。
第1楽章では、アンダが瑞々しい美音で健闘しますが、オーケストラにいまひとつ緊張感が感じられず、雑然とした印象が拭えません。第2楽章ではしっとりとした味わいで聴き手を魅了させようとしますが、ムード音楽の域を出ないもどかしさが残ります。第3楽章ではピアノとオーケストラの丁々発止のやり取りが聴けるはずなのですが、オーケストラの音がどうも鳴りきらず、ここでも不完全燃焼気味。このスタンスでブラームスのピアノ協奏曲第2番を弾いてくれれば、もっと違った展開になる演奏だったでしょう。
アンダのピアノが凛としているだけに、オーケストラの全体的な士気の低さに首を傾げたくなる演奏でした。

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