1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Felix Mendelssohn: Symphony No.3 in A minor "Scottish", op.56
◈Felix Mendelssohn: Symphony No.4 in A major "Italian", op.90
Orchestre du Théâtre de la Fenice / Ettore Gracis
(Rec. 14-15 March 1959, Théâtre de la Fenice, Venice)
イタリアの指揮者であるエットーレ・グラチス(Ettore Gracis, 1915-1992)による、フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn, 1809-1847)の交響曲第3番と第4番です。
メンデルスゾーンは、本名をヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディといいますが、バルトルディという名前は、銀行家の父親がユダヤ教からキリスト教に改宗したときに記念につけた名前で、メンデルスゾーン自身はその名前をあまり気に入っておらず、自分からバルトルディを名乗ることはなかったそうです。
メンデルスゾーンは音楽の英才教育を受けて、天才少年作曲家として知られるようになり、11歳の時には自分で筋書きを書いてオペラを作っています。
その後も、自分の家の私設オーケストラのための作品を矢継ぎ早に作って作曲の腕に磨きをかけました。
そんなメンデルスゾーンが21歳から23歳のときに書き上げたのが、《イタリア》というタイトルをつけた交響曲第4番です。
この曲は、メンデルスゾーンがイタリア旅行中に作曲をはじめたために《イタリア》という名前がつけられましたが、第4楽章にイタリア舞曲のサルタレロが用いられてるほかは、これといってイタリアを連想させるものはありません。
メンデルスゾーンは、作曲当初はこの曲を大変気に入っていましたが、もっといじれば曲がもっとよくなるのではないかと思い始め、生涯jこの曲の改訂に取り組んだといいます。
1838年までに、一応改訂作業は終えたものの、その後も手を加え続け、最終的な改訂が完成せぬまま、メンデルスゾーンは忽然と世を去ってしまいました。
《スコットランド》のタイトルがつけられた交響曲第3番は、実は第4番より後に出来上がった交響曲です。
着想は1829年にイギリスに旅行したときですが、その後イタリア旅行に行って《イタリア》交響曲につきっきりになり、さらにライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長になるなどの多忙が続き、完成したのは着想してから13年後のことでした。
この曲も、表題のルーツになるようなものはありませんが、メンデルスゾーンにしてみれば、スコットランド地方を訪れたときの印象を音化したということで、ネーミングは必然だったのかもしれません。
たびたびイギリスを訪れたメンデルスゾーンは、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王に謁見し、この曲を献呈する約束をしています。
グラチス指揮するフェニーチェ劇場管弦楽団の演奏は、世界のトップ・クラスのオーケストラに比べると、浮き足立った演奏になっています。
元々歌劇場のオーケストラ・ピットで演奏しているオーケストラのはずなので、こうした交響曲などの演奏は、そうたびたび演奏するものでもないのでしょう。
一音一音確かめながら音を鳴らしているといった感じで、その音がどういう効果を持つ音なのかといったところまでは踏み込めていません。
《スコットランド》交響曲では、そのためクライマックスが腰砕けになり、第4楽章のコーダもしどろもどろしながらなんとか演奏し果せているような演奏になっています。
ただし、《イタリア》交響曲では、自分の国がタイトルにクレジットされているだけあって、オーケストラ団員の誇りに火をつけたのか、《スコットランド》よりも気合の入った音楽を展開しています。
メンデルスゾーンは、本名をヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディといいますが、バルトルディという名前は、銀行家の父親がユダヤ教からキリスト教に改宗したときに記念につけた名前で、メンデルスゾーン自身はその名前をあまり気に入っておらず、自分からバルトルディを名乗ることはなかったそうです。
メンデルスゾーンは音楽の英才教育を受けて、天才少年作曲家として知られるようになり、11歳の時には自分で筋書きを書いてオペラを作っています。
その後も、自分の家の私設オーケストラのための作品を矢継ぎ早に作って作曲の腕に磨きをかけました。
そんなメンデルスゾーンが21歳から23歳のときに書き上げたのが、《イタリア》というタイトルをつけた交響曲第4番です。
この曲は、メンデルスゾーンがイタリア旅行中に作曲をはじめたために《イタリア》という名前がつけられましたが、第4楽章にイタリア舞曲のサルタレロが用いられてるほかは、これといってイタリアを連想させるものはありません。
メンデルスゾーンは、作曲当初はこの曲を大変気に入っていましたが、もっといじれば曲がもっとよくなるのではないかと思い始め、生涯jこの曲の改訂に取り組んだといいます。
1838年までに、一応改訂作業は終えたものの、その後も手を加え続け、最終的な改訂が完成せぬまま、メンデルスゾーンは忽然と世を去ってしまいました。
《スコットランド》のタイトルがつけられた交響曲第3番は、実は第4番より後に出来上がった交響曲です。
着想は1829年にイギリスに旅行したときですが、その後イタリア旅行に行って《イタリア》交響曲につきっきりになり、さらにライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長になるなどの多忙が続き、完成したのは着想してから13年後のことでした。
この曲も、表題のルーツになるようなものはありませんが、メンデルスゾーンにしてみれば、スコットランド地方を訪れたときの印象を音化したということで、ネーミングは必然だったのかもしれません。
たびたびイギリスを訪れたメンデルスゾーンは、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王に謁見し、この曲を献呈する約束をしています。
グラチス指揮するフェニーチェ劇場管弦楽団の演奏は、世界のトップ・クラスのオーケストラに比べると、浮き足立った演奏になっています。
元々歌劇場のオーケストラ・ピットで演奏しているオーケストラのはずなので、こうした交響曲などの演奏は、そうたびたび演奏するものでもないのでしょう。
一音一音確かめながら音を鳴らしているといった感じで、その音がどういう効果を持つ音なのかといったところまでは踏み込めていません。
《スコットランド》交響曲では、そのためクライマックスが腰砕けになり、第4楽章のコーダもしどろもどろしながらなんとか演奏し果せているような演奏になっています。
ただし、《イタリア》交響曲では、自分の国がタイトルにクレジットされているだけあって、オーケストラ団員の誇りに火をつけたのか、《スコットランド》よりも気合の入った音楽を展開しています。
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