1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Anton Bruckner: Symphony No.5 in B flat major
Sinfonie Orchester des Südwestfunk Baden-Baden / Hans Rosbaud
(Rec. 21 October 1953, Baden-Baden) Live Recording without Applause
アントン・ブルックナー(Anton Bruckner, 1824-1896)は、オーストリアの作曲家。
クラシック音楽の特設コーナーをちゃんと作っている、誠実なるレコード店には、必ずといっていいほどこの作曲家のコーナーがあります。
この作曲家の作る交響曲は、1楽章だけでも15分弱は当たり前で、一曲丸々聴くと1時間以上かかることは覚悟しなければいけません。
一曲2~3分で手際よく作られるポップスの世界からすれば、恐ろしく手際の悪い音楽なのですが、レコード店の店員さんに話を聞くと、意外とクラシック音楽を聴き始めた人がよくブルックナーの音楽を購入するそうです。
その店員さんの言うことには・・・
なのだそうです。ブルックナーというのは、クラシック音楽のメルクマールになっているということでしょうか。
しかし、「長大=退屈」という言葉の置き換えが成立している場合、ブルックナーの音楽は、クラシック音楽の退屈さに慣れるためのトレーニングなわけで、ブルックナーの音楽がビギナーにウケるという話は、素直に喜べる話ではないのかもしれません。
長大だけれど充実した音楽体験を約束してくれるブルックナー音楽の演奏こそが、理想的なブルックナーの音楽の演奏です。
ただ、何に充実を感じるかは、その人の美意識・価値観に左右される、きわめて個人的なものでもあります。
響きの明晰さに充足感を感じる人にとって、ハンス・ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895-1962)の名前は、とりわけ魅力的に響きます。
若い頃からベーラ・バルトークやアルノルト・シェーンベルクといった、当時の新奇な音楽の擁護者だったロスバウトは、楽譜の体をなしている作品であればなんでも取り上げるチャレンジャーでした。
1948年には、バーデン=バーデンを本拠に置く南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任し、この地を現代音楽のメッカにしてしまったのは、ロスバウトの功績であり、このコンビが1950年からドナウエッシンゲン音楽祭に参加して当時の前衛音楽をガンガン紹介し続けたことにより、この音楽祭は前衛音楽作曲家の登竜門として広く知られることになりました。
ヤニス・クセナキス、マウリシオ・カーゲル、ルイジ・ノーノやピエール・ブーレーズといった20世紀をリードした作曲家たちからロスバウトが尊敬された理由は、どんなに複雑な音楽もガッチリと造形してくれるからなんですネ。
核物理学や自然科学の方面でも、識者をうならせるほどの造詣を持っていたロスバウトは、一切の不明瞭さを排除し、論理的鉄筋で以って寸分狂いのない音楽を作り上げようとしたがゆえに、その音楽再現能力の高さが高く評価され、同時代の音楽家から信頼されていました。
ブルックナーは、19世紀の真っ只中、72年の生涯を全うした作曲家であり、この19世紀はヨーロッパにおいてロマン主義の時代と言われます。
このCDに収録されている交響曲第5番は、1875年から3年かけてコツコツと作曲された交響曲で、演奏時間はやはり70分は超えます。こうした音楽の規模の巨大化は、ロマン主義の時代における典型的現象の一つでもあります。
しかし、ロスバウトにとってみれば、ロマン主義の時代だろうが、古典時代の音楽だろうが、自分と同時代の音楽だろうが、何の分け隔てもありません。
どの時代の音楽であろうと、その音楽の論理構造を赤裸々に示すのがロスバウトの考える指揮者の使命であり、演奏することの意味なのでしょう。
ブルックナーが信仰の人であり、自分の書く音楽を全て神への捧げ物と位置づけたなどということは、ロスバウトにとって重要事項ではなく、書かれた音をどのように鳴らせば曲のフォルムが明快に描き出せるかということが重要なことなのです。(ゆえに、明快さを損なうとロスバウトが感じた楽譜上の指示は、作曲者の指示であっても時々オミットするそうです。)
音楽の音楽たる規則の枠組みを冷徹に見極め、それを表現することを潔しとしたロスバウトの演奏からは、祈りの言葉も聞こえてこなければ、神の存在も見えてきません。
現代音楽専門に特化したロスバウト&南西ドイツ放送交響楽団にとって、作曲者の曲への思い入れなどどうでもよく、この音楽からどういう音のビルディングを立てるかということのほうが大事なのです。
演奏者の思い入れが邪魔臭いと感じる人には、「思い入れを徹底して排除してやる!」というロスバウトの論理重視の演奏は、なるほど納得の演奏です。
でも、「思い入れを排除する」というスタンスも、ある種の思い入れだと思う人には・・・どうなんでしょう?
なお、この演奏では、初演時に使われたフランツ・シャルクの改訂版ではなく、ロベルト・ハースの校訂版が使われているそうです。
クラシック音楽の特設コーナーをちゃんと作っている、誠実なるレコード店には、必ずといっていいほどこの作曲家のコーナーがあります。
この作曲家の作る交響曲は、1楽章だけでも15分弱は当たり前で、一曲丸々聴くと1時間以上かかることは覚悟しなければいけません。
一曲2~3分で手際よく作られるポップスの世界からすれば、恐ろしく手際の悪い音楽なのですが、レコード店の店員さんに話を聞くと、意外とクラシック音楽を聴き始めた人がよくブルックナーの音楽を購入するそうです。
その店員さんの言うことには・・・
クラシック音楽は長大な音楽が多い
↓
ブルックナーの交響曲は長大である
↓
クラシック音楽の長大さに慣れる「教材」としてブルックナーが最適
↓
ブルックナーの交響曲は長大である
↓
クラシック音楽の長大さに慣れる「教材」としてブルックナーが最適
なのだそうです。ブルックナーというのは、クラシック音楽のメルクマールになっているということでしょうか。
しかし、「長大=退屈」という言葉の置き換えが成立している場合、ブルックナーの音楽は、クラシック音楽の退屈さに慣れるためのトレーニングなわけで、ブルックナーの音楽がビギナーにウケるという話は、素直に喜べる話ではないのかもしれません。
長大だけれど充実した音楽体験を約束してくれるブルックナー音楽の演奏こそが、理想的なブルックナーの音楽の演奏です。
ただ、何に充実を感じるかは、その人の美意識・価値観に左右される、きわめて個人的なものでもあります。
響きの明晰さに充足感を感じる人にとって、ハンス・ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895-1962)の名前は、とりわけ魅力的に響きます。
若い頃からベーラ・バルトークやアルノルト・シェーンベルクといった、当時の新奇な音楽の擁護者だったロスバウトは、楽譜の体をなしている作品であればなんでも取り上げるチャレンジャーでした。
1948年には、バーデン=バーデンを本拠に置く南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任し、この地を現代音楽のメッカにしてしまったのは、ロスバウトの功績であり、このコンビが1950年からドナウエッシンゲン音楽祭に参加して当時の前衛音楽をガンガン紹介し続けたことにより、この音楽祭は前衛音楽作曲家の登竜門として広く知られることになりました。
ヤニス・クセナキス、マウリシオ・カーゲル、ルイジ・ノーノやピエール・ブーレーズといった20世紀をリードした作曲家たちからロスバウトが尊敬された理由は、どんなに複雑な音楽もガッチリと造形してくれるからなんですネ。
核物理学や自然科学の方面でも、識者をうならせるほどの造詣を持っていたロスバウトは、一切の不明瞭さを排除し、論理的鉄筋で以って寸分狂いのない音楽を作り上げようとしたがゆえに、その音楽再現能力の高さが高く評価され、同時代の音楽家から信頼されていました。
ブルックナーは、19世紀の真っ只中、72年の生涯を全うした作曲家であり、この19世紀はヨーロッパにおいてロマン主義の時代と言われます。
このCDに収録されている交響曲第5番は、1875年から3年かけてコツコツと作曲された交響曲で、演奏時間はやはり70分は超えます。こうした音楽の規模の巨大化は、ロマン主義の時代における典型的現象の一つでもあります。
しかし、ロスバウトにとってみれば、ロマン主義の時代だろうが、古典時代の音楽だろうが、自分と同時代の音楽だろうが、何の分け隔てもありません。
どの時代の音楽であろうと、その音楽の論理構造を赤裸々に示すのがロスバウトの考える指揮者の使命であり、演奏することの意味なのでしょう。
ブルックナーが信仰の人であり、自分の書く音楽を全て神への捧げ物と位置づけたなどということは、ロスバウトにとって重要事項ではなく、書かれた音をどのように鳴らせば曲のフォルムが明快に描き出せるかということが重要なことなのです。(ゆえに、明快さを損なうとロスバウトが感じた楽譜上の指示は、作曲者の指示であっても時々オミットするそうです。)
音楽の音楽たる規則の枠組みを冷徹に見極め、それを表現することを潔しとしたロスバウトの演奏からは、祈りの言葉も聞こえてこなければ、神の存在も見えてきません。
現代音楽専門に特化したロスバウト&南西ドイツ放送交響楽団にとって、作曲者の曲への思い入れなどどうでもよく、この音楽からどういう音のビルディングを立てるかということのほうが大事なのです。
演奏者の思い入れが邪魔臭いと感じる人には、「思い入れを徹底して排除してやる!」というロスバウトの論理重視の演奏は、なるほど納得の演奏です。
でも、「思い入れを排除する」というスタンスも、ある種の思い入れだと思う人には・・・どうなんでしょう?
なお、この演奏では、初演時に使われたフランツ・シャルクの改訂版ではなく、ロベルト・ハースの校訂版が使われているそうです。
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