1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
CD1:
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Piano Concerto No.20 in D minor, K466 |
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Mitja Nikisch (Pf)
Berliner Philharmonisches Orchester / Rudolf Schulz-Dornburg
Berliner Philharmonisches Orchester / Rudolf Schulz-Dornburg
(Rec. 8 March 1934)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Les Petit Rien, K299b |
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Orchestre Municipal de Winterthur / Hermann Scherchen
(Rec. 1941, Zurich)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.39 in D major, K543 |
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Berliner Philharmonisches Orchester / Leopold Ludwig
(Rec. 17 & 19 March 1941)
CD2:
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Horn Concerto No.2 in E flat major, K417 |
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Dennis Brain (Hrn)
NDR Sinfonieorchester / Hans Schmidt-Isserstedt
NDR Sinfonieorchester / Hans Schmidt-Isserstedt
(Rec. 7 May 1954)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Divertimento No.11 in D major, K251 |
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NDR Sinfonieorhester / Hans Schmidt-Isserstedt
(Rec. 2 November 1954)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.38 in D major, K504 "Prague" |
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Orchestre National de France / Hans Rosbaud
(Rec. 6 December 1954, Théâtre des Champs-Elysées)
CD3:
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Synfonia concertante in E flat major, K364 |
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Arthur Grumiaux (Vn)
William Primrose (Vla)
Kölner Rundfunk-Sinfonieorchester / Otto Ackermann
William Primrose (Vla)
Kölner Rundfunk-Sinfonieorchester / Otto Ackermann
(Rec. 22 January 1955, Großer Sendersaal)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Serenade No.6 in D major, K239 "Serenata notturna" |
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Toronto Symphony Orhestra / Hermann Scherchen
(Rec. 5 December 1965, Studio Albert, Paris)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.41 in C major, K551 "Jupiter" |
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Toronto Symphony Orchestra / Karel Ančerl
(Rec. 9 September 1970)
CD4:
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Oratorio "La betulia liberata", K118 |
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Cesare Valletti (T: Ozias)
Myriam Pirazzini (Ms: Giuditta)
Elisabeth Schwarzkopf (S: Amital)
Boris Christoff (Br: Achior)
Luigia Vicenti (S: Cabri / Carmi)
Chœur de la RAI Torino (Chorus master: Ruggero Maghini)
Orchestre de la RAI Torino / Mario Rossi
Myriam Pirazzini (Ms: Giuditta)
Elisabeth Schwarzkopf (S: Amital)
Boris Christoff (Br: Achior)
Luigia Vicenti (S: Cabri / Carmi)
Chœur de la RAI Torino (Chorus master: Ruggero Maghini)
Orchestre de la RAI Torino / Mario Rossi
(Rec. 30 May 1952, Conservatorio Giuseppe Verdi, Turin)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の作品の希少録音集としてフランスのTahraレーベルがリリースした4枚組のCDです。
それぞれ1枚ずつ見てみましょう。
1枚目に収録されている録音は、以下の通り。
★ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K417
ミーチャ・ニキシュ (Pf)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/ルドルフ・シュルツ=ドルンブルク
★バレエ音楽《レ・プティ・リアン》 K299
ヴィンタートゥール市立管弦楽団/ヘルマン・シェルヘン
★交響曲 第39番 変ホ長調 K543
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/レオポルド・ルートヴィヒ
ピアノ協奏曲第20番は、1785年2月10日に完成させ、翌日にメールグルーベというウィーンの集会所ホールでモーツァルト自身のピアノで初演されました。初演直前に完成した曲にもかかわらず、当日足を運んだ皇帝ヨーゼフ2世や父レオポルト、そしてハイドンまでもが感動するほどの仕上がりを見せたとのこと。この曲では第1楽章冒頭から不穏な雰囲気を作り出し、まるで憤怒するかのような音楽になっています。平穏なはずの第2楽章でも突然嵐が吹き荒れるようなエピソードが挟まれています。全曲通して聴けば、うっぷんを晴らすような爽快感がありますが、作曲された当時は、安穏で美しい音楽を期待した貴族たちをびっくりさせたことでしょう。
このピアノ協奏曲でピアノ独奏を務めているニキシュ(Mitja Nikisch, 1899-1936)は、ドイツで活躍した指揮者のアルトゥル・ニキシュの子息にあたる人。ライプツィヒに生まれ、13歳の時に地元の音楽院に入学し、ロベルト・タイヒミュラーとヨゼフ・ペンバウアーにピアノ、シュテファン・クレールに音楽理論を学びました。1919年にピアノ奏者としてデビューを飾りましたが、ビッグバンド・ジャズに傾倒するようになり、1925年には自分の名前を冠したジャズ・オーケストラを作って有名になりました。しかし、ナチスが台頭すると自分で結成したジャズ・オーケストラを解散せざるを得なくなり、亡命先のヴェネチアで自らの命を絶ちました。
生前のニキシュは、父の威光もあって、自らのジャズ・オーケストラとの録音がありましたが、現在入手不能です。ピアノ奏者としてデビューしたての頃にピアノ・ロールも残しましたが、これもなかなか聴く機会がありません。今日ニキシュの録音で聴くことができるのは、これのみとなります。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmonisches Orchester)を振ってニキシュの伴奏をしているシュルツ=ドルンブルク(Rudolf Schulz-Dornburg, 1891-1949)は、ヴュルツブルク生まれの指揮者です。ケルン音楽院でオットー・ナイツェルに学んだシュルツ・ドルンブルクは、ケルンで合唱指揮者としてキャリアをはじめました。ケルンの歌劇場の指揮者を皮切りに、マンハイム、ミュンスターやエッセン等の歌劇場を渡り歩き、1919年にはボーフム交響楽団を立ち上げて初代の首席指揮者に就任しています。1934年にはベルリン放送交響楽団の首席指揮者になり、1942年にはベルリン放送局の音楽総監督を務めています。戦後はリューベックの歌劇場の指揮をしていましたが、グムント・アム・テーゲルンゼーで亡くなりました。
この協奏曲の演奏は、録音年代相応の演奏スタイルとして、テンポの自在な揺らしを基調にしていますが、ニキシュの揺らし方に独特の粘り気があり、ちょっとした分散和音も意味深なルバートをかけて聴き手の気を逸らさないような工夫があります。左手も殊の外雄弁に鳴らされており、場面によっては叩きつけるような音でオーケストラを牽制するようなそぶりも見せます。カデンツァはブルーノ・ヴァルターが弾き振りをするときに使っていたカール・ライネッケのものを使っておりますが、ヴァルターの演奏よりも起伏のある独奏を聴かせます。オーケストラは、録音の加減から少々ダイナミクスに不満が残りますが、ニキシュ見得の切り方にピタッと合わせており、歌劇場を渡り歩いたシュルツ=ドルンブルクの棒さばきの確かさを確認できます。
第2楽章も一筋縄ではいかない演奏です。フレーズの一つ一つの意味を咀嚼するように弾いたかと思うと、素っ気なく弾き進めます。その分、オーケストラは濃厚にメロディを歌いあげています。第3楽章は勢いに任せず、第1楽章同様に周到なテンポの揺らしで適度なスピード感を演出しています。テンポを落としたところでも微妙なルバートをかけているため、ピアノが聴き手に何かを訴えかけているような効果が生まれています。この時代の解釈であれば、両端楽章と中間楽章の緩急の差を際立たせるのが常套的なはずですが、ニキシュは自在なテンポの揺らし方の語法の統一を図ることに重きを置いており、全楽章の緊密な結びつきを模索しているような気配が感じられます。
この演奏で得られる訴求力は、ただ単に譜面上のオタマジャクシを並べただけでは得られないもので、譜面に書かれた音のつながりを音楽全体の文脈の中で読み取り、その全体の枠組みを壊さないように緩急をつけるセンスが問われます。シュルツ=ドルンブルクの伴奏も、ニキシュのピアノの動きを模倣するのではなく、必要に応じてテンポの伸縮をしないようにすることによって、音楽が枝葉末節にこだわり過ぎないようになるように調節しています。録音こそ古いものの、この曲にドラマティックな解釈を施す際のヒントが散りばめられています。
《レ・プティ・リアン》は、パリ・オペラ座の首席ダンサーだったジャン・ジョルジュ・ノヴェールから依頼を受けて1778年の5月から6月ごろに作ったバレエ音楽です。この作品は、他の作曲家の作品と混ぜ合わされており、モーツァルト自身は12曲提供したと、父レオポルトへの手紙で認めています。作品はぞんざいに扱われ、楽譜は散逸したものと思われていましたが、1872年にパリ・オペラ座の古文書の中で発見され、演奏されるようになりました。作品は全21曲で、当初は13曲がモーツァルトの作品だと見積もられていましたが、後に序曲、第9-12曲、第15、第16、第18曲の8曲がモーツァルトの真作だと認定されています。ここでは、その認定された8曲を選んで演奏しています。
演奏するのは、シェルヘン(Hermann Scherchen, 1891-1966)の指揮するヴィンタートゥール市立管弦楽団(Orchestre Municipal de Winterthur)です。
シェルヘンはベルリンに生まれた指揮者です。地元の高等音楽院でヴィオラを専攻し、ブリュートナー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、クロール・オーパーなどをヴィオラ奏者として渡り歩きましたが、家計が苦しく、ナイト・クラブでも演奏していました。指揮法はオーケストラでの演奏を経て実地的に独学し、1912年にアルノルト・シェーンベルクの知己を得て彼の《月に憑かれたピエロ》の初演で指揮者デビューを果たしました。その後、ロシアのリガ交響楽団の指揮者として赴任したところ、第一次世界大戦が勃発して身柄をロシア側に拘束されています。1918年にベルリンに戻ってからは、ヨーロッパ各地のオーケストラに客演する傍らで、ドイツの労働者のための合唱団づくりに奔走し、またシェーンベルク以後の新しい音楽の潮流を擁護するための雑誌を発刊するなど、八面六臂の活躍を見せました。1933年にナチス政権が樹立されると、それに抗議してスイスに移住しています。第二次世界大戦後は、南米、カナダやトルコなどに客演に出かけ、ウェストミンスター・レーベルの設立に参画して数多くの録音を残しました。1954年にはスイスのグラヴェザーノに電子音楽スタジオを作って新進気鋭の作曲家たちを支援しましたが、フィレンツェでジャン・フランチェスコ・マリピエロのオペラ《オルフェオ》を上演中に心臓発作を起こして亡くなりました。なお、このTahraレーベルの副社長であるミリアム・シェルヘンは、彼の愛娘です。
この録音は、第二次世界大戦中ということで、活動をスイス国内に制限していた時のものです。後年のウェストミンスター・レーベルでの録音を思わせる強固なリーダーシップでオーケストラを引っ張っていくような演奏で、作品の求める優雅さからは遠い仕上がりです。録音の保存状態も良くなく、高音部ではビリつき、いかにも蔵出し音源といった風情ですが、シェルヘンの表現意欲の強さが劣悪な音響からも感じ取ることができます。
交響曲第39番は、1788年6月26日に完成したとされる作品。モーツァルトは、新しい作品を書いて初演した時には父に宛てて手紙を書いていましたが、その父も亡くなっており、いつこの曲が初演され、どのような評判だったのかが判明していません。そのため、かつてはこの曲の演奏を聴くことなくモーツァルトは亡くなったのではないかといわれていましたが、近年の研究では、モーツァルトが演奏機会度外視で曲を作ることがあり得なかったことや、彼の作品の演奏記録から、モーツァルトが生前にこの曲を演奏または聴いていた可能性のあることが指摘されています。第38番の交響曲では三楽章構成でしたが、この曲では四楽章構成に戻っています。
本CDの演奏でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しているルートヴィヒ(Leopold Ludwig, 1908-1979)は、モラヴィア地方のヴィトコヴィツ生まれの指揮者です。ルートヴィヒはウィーン音楽院でエミール・フォン・パウアーにピアノを学び、フランツ・シュミットに作曲等を師事しています。1931年にオパヴァの歌劇場で指揮者としてデビューし、ヤブロネツ・ナド・ニソウやテプリツェなどボヘミア圏の歌劇場で研鑽を積みました。1939年から1943年までウィーン国立歌劇場、1942年からベルリン市立歌劇場の指揮者を務め、ナチス政権下のドイツでは中堅指揮者として活躍しましたが、戦後はナチスとの関わりからイギリス軍の軍事裁判で罰金と執行猶予付きの懲役1年半の刑を受けています。その後しばらく特定のポストに就けなかったため、ベルリン市立歌劇場への客演でしのぎ、1951年から1970年までハンブルク国立歌劇場の音楽監督になりました。1950年代からイギリスや南米に客演して国際的な名声を高め、1970年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場に登場してリヒャルト・ヴァーグナーの《パルシファル》を指揮しています。その後はリューネブルクで隠遁し、その地で亡くなりました。
このモーツァルトの交響曲を演奏していた頃のルートヴィヒは、1937年からナチスに加入してメキメキと出世していた頃のものです。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの薫陶を受けて第一級の演奏能力を保持しており、先のシェルヘンとヴィンタートゥールのオーケストラと比べると、その機動力に格段の差があります。ルートヴィヒ指揮は、第一楽章の出だしこそ、トランペットにフライングを許していますが、そのあとは順当な音運びで無難な演奏を展開しています。ただ、ルートヴィヒの演奏は、オーケストラの能力の高さに満足してしまったところがあり、第2楽章の典雅さに含まれる憂いの表情を素通りしてしまっています。これがフルトヴェングラーの指揮であったなら、緊張感の高いドラマティックな音楽に仕上がったことでしょう。
2枚目のCDに収録されているのは以下の通りです。
★ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 K417
デニス・ブレイン (Hrn)
北ドイツ放送交響楽団/ハンス・シュミット=イッセルシュテット
★ディヴェルティメント 第11番 K251
北ドイツ放送交響楽団/ハンス・シュミット=イッセルシュテット
★交響曲 第38番
フランス国立管弦楽団/ハンス・ロスバウト
ホルン協奏曲第2番の伴奏とディヴェルティメント第11番で演奏するオーケストラは、このCDに表記では北ドイツ放送交響楽団(NDR Sinfonieorchester)になっていますが、このオーケストラがその名称を正式に使いだしたのは1956年になってからのこと。この録音が行われた1951年当時は北西ドイツ放送交響楽団(NWDR Sinfonieorchester)を名乗っていました。当時は運営母体がハンブルクの北西ドイツ放送局(NWDR)で、1956年に同系列のケルン放送局が西ドイツ放送(WDR)として分離独立したのを機に、北ドイツ放送交響楽団の名称を使いだしたものです。北西ドイツ放送交響楽団の創設を発案したのは、進駐していたイギリス軍で、軍の将校がシュミット=イッセルシュテット(Hans Schmidt-Isserstedt, 1900-1973)にオーケストラの創設を依頼したのが発端になっています。
シュミット=イッセルシュテットは戦争で散り散りになっていた音楽家たちを訪ね歩いてオーケストラのメンバーに揃え、1945年にオーケストラが発足した時には初代の首席指揮者に就任しています。シュミット=イッセルシュテットとこのオーケストラは固い絆で結ばれ、シュミット=イッセルシュテットの在任期間は25年に及びました。
第2番のホルン協奏曲は、モーツァルトの自筆で「驢馬、牝牛で馬鹿なロイトゲープに憐れんで」というおふざけの献呈文が添えられていた作品で、1783年ごろの作品と考えられています。被献呈者のヨゼフ・ロイトゲープは、モーツァルトがザルツブルクにいた時の先輩音楽家で、この献呈文に見られるように、お互いふざけ合えるほどのくだけた友達付き合いをしていました。
この曲のホルンの表現技巧の水準の高さから、非常に優れたホルン奏者だったことが推察されます。
このCDでは、イギリスのブレイン(Dennis Brain, 1921-1957)がホルン独奏を受け持っています。ブレイン家は、イギリスで有数の音楽家一族で、彼の師である父オーブリーもイギリスを代表するホルン奏者でした。その父を凌駕するほどの抜群なテクニックを誇ったブレインは、イギリス国内のみならず、ヨーロッパ諸国から客演のオファーがひっきりなしに来るほどの売れっ子ホルン奏者でした。この演奏はロンドン近郊のハットフィールドで自動車事故を起こして亡くなる3年ほど前に北西ドイツ放送交響楽団に来演した時の記録です。
ブレインの吹くモーツァルトのホルン協奏曲と言えば、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮するフィルハーモニア管弦楽団との全4曲の録音が広く知られていますが、その録音に比べると、ブレインのホルンが一層生々しく捉えられ、この演奏のほうが少しモチベーションが高いように聴こえます。オーケストラの響きも厚手ながら重苦しくならない絶妙の按配で、中庸を心得たシュミット=イッセルシュテットのテンポ設定も見事です。独奏のブレインに余計なプレッシャーをかけず、滔々たる音楽の流れを作ることで、ブレインの独奏を一層映えるものにしています。
ディヴェルティメント第11番は1776年の6月、まだモーツァルトがザルツブルクにいるころに書かれた六楽章構成の作品。姉のマリア・アンナ(通称ナンネル)の霊名の祝日のために急いで作ったもので、ちょっとフランス風の趣向を出すためにオーボエを重用しています。
シュミット=イッセルシュテットの指揮する北西ドイツ放送交響楽団の演奏は、豊かで程よく引き締まった響きで、まるで交響曲のよう。少々茶目っ気が欲しいところですが、このコンビの実直さをよく表した演奏ともいえます。
交響曲第38番は1786年末頃に作られた作品。当時の交響曲の様式としては珍しい三楽章形式を採用しています。この年に書かれたオペラ《フィガロの結婚》は、ウィーンで発表された時にはモーツァルトが期待したほどの成功にはなりませんでしたが、年末にプラハで演奏された時には熱狂的な成功を収めました。プラハの人たちはモーツァルトをプラハに招待し、モーツァルト自身の指揮で《フィガロの結婚》を観劇することにしました。喜び勇んでやってきたモーツァルトが手土産に持ってきた交響曲が、この第38番だったというわけです。曲は《フィガロの結婚》のモチーフを混ぜ込んで当該オペラの人気に合わせる一方で、しばしば短調に傾斜し、ただ耳になじみやすいだけではない複雑な風味を効かせています。宮廷音楽由来のメヌエットを省いて三楽章にした理由は詳らかにされていませんが、ウィーンの貴族連中のための曲ではなく、プラハ市民のための曲だというアピールだったのでしょうか。今日では「プラハ」というニックネームで親しまれています。
このCDでは、ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895-1962)タクトをとっています。オーケストラはフランス国立管弦楽団(Orchestre National de France)ということになっていますが、この名称は、1934年創立のフランス国立放送局管弦楽団(Orchestre National de la Radiodiffusion Française)が1975年にフランス国営放送のラジオ・フランスの管轄になってから用いるようになった名称です。余談ながら、フランス国立放送局管弦楽団は、1964年にスポンサーのフランス国営放送(Radiodiffusion-Télévision Française)がフランス放送協会(Office de Radiodiffusion Télévision Française)に社名変更したため、その年から1975年までフランス国立放送管弦楽団(Orchestre National de l'ORTF)と名乗りました。日本のレコード会社では、1934年から1964年までのこのオーケストラの期間の名称を「フランス国立放送管弦楽団」と表記して厳密な区別はしていません。
以上のことから、録音時期を鑑みて、「フランス国立放送管弦楽団」あるいはより厳密に「フランス国立放送局管弦楽団」と表記するのがクロノロジーとして正しいといえます。
ロスバウトはグラーツの生まれで、ピアノ奏者だった幼少期より音楽の手ほどきを受けています。その後、フランクフルトのホーホ音楽院ベルンハルト・ゼクレスに作曲、アルフレッド・ヘーンにピアノを学び、ピアノ奏者としてキャリアを始めましたが、1921年にマインツ市の音楽院の院長に就任してから指揮者として活動するようになりました。1929年にはフランクフルト放送交響楽団(現:hr交響楽団)の初代首席指揮者となり、同時代の作品を積極的に紹介しましたが、ドイツでナチス政権が誕生すると、1937年に辞任させられ、ミュンスターやストラスブールで戦争終結を待つことになりました。戦後の1945年から3年にわたってミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者として再建に尽力した後、南西ドイツ放送交響楽団の初代首席指揮者に就任し、このオーケストラを同時代の音楽に強いオーケストラに育て上げました。1957年からチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者を兼任しましたが、ルガノで急逝しています。
ロスバウトは、同時代の作曲家の作品を積極的に擁護し、初演魔だったという点では先述のシェルヘンと双璧を成しましたが、18世紀当たりの音楽にも深い造詣を持っていた点でもシェルヘンに似ているところがあります。特にモーツァルトの作品は得意としており、フランスのエクサン=プロヴァンス音楽祭に積極的に参加してモーツァルトのオペラ上演を行っていました。
ロスバウトの芸風がシェルヘンと違うところは、シェルヘンがオーケストラに気合を注入することで生気漲る演奏を展開したのに対し、楽譜に忠実であることをモットーに、虚飾や主観を徹底的に排除した点にあります。しかし、その虚飾の排除という意志が鋼鉄のような強靭な音色を生み出し、打ちっぱなしのコンクリート建築のような風合いを生み出しています。
3枚目のCDに収録されているのは以下の通りです。
★協奏交響曲 変ホ長調 K364
アルテュール・グリュミオー(Vn)
ウィリアム・プリムローズ(Vla)
ケルン放送交響楽団/オットー・アッカーマン
★セレナード 第6番 ニ長調 K239
トロント交響楽団/ヘルマン・シェルヘン
★交響曲 第41番 ハ長調 K551 《ジュピター》
トロント交響楽団/カレル・アンチェル
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲は、1779年の作品です。協奏交響曲は、カール・シュターミツをはじめとするマンハイム楽派の人たちが複数の独奏楽器とオーケストラを協奏させる目的で作っていた協奏曲の様式で、モーツァルトもその様式に興味を持ち、1778年に管楽器群を独奏に立てた協奏交響曲をパリ作った後、この曲をザルツブルクで書き上げました。
この曲に関しては、モーツァルトが自分で第1楽章と第2楽章のカデンツァの譜面を残しています。
この曲の独奏を務めるのは、ベルギーのヴァイオリン奏者のグリュミオー(Arthur Grumiaux, 1921-1986)と、イギリス出身のヴィオラ奏者あるプリムローズ(William Primrose, 1904-1982)です。
グリュミオーはワロン地域エノー州ヴィレ=ペルヴァンの生まれで、地元のシャルルロワ音楽院でフェルナン・キネに師事した後、ブリュッセル音楽院でアルフレッド・デュボワの門下生となり、パリでジョルジェ・エネスクの薫陶を受けています。1948年から師のデュボワの後を継いでブリュッセル音楽院の教授となり、ブリュッセルで亡くなるまでフランコ=ベルギー奏派の頭領と目されました。ちなみにグリュミオーは、ヴァイオリンだけでなくピアノも堪能で、シャルルロワ音楽院にいた時にはヴァイオリン科だけでなくピアノ科でも首席の成績を保持しており、祖父の意向でブリュッセル音楽院でデュボワにヴァイオリンを習い、ヴァイオリン奏者としての道を選ぶことになりました。
プリムローズはグラスゴーの生まれで、元々ギルドホール音楽学校でヴァイオリンを学んでいました。ベルギーに留学してウジェーヌ・イザイの指導を受けた時に勧められてヴィオラ奏者に転向しました。アメリカでアルトゥーロ・トスカニーニを指揮者に据えたNBC交響楽団が創設された時には、トスカニーニに懇請されて首席ヴィオラ奏者としてアメリカに渡っています。トスカニーニに「プリモローソ」と呼ばれて寵愛を受けたプリムローズですが、独奏者としても成功し、独奏楽器としてのヴィオラの地位向上に貢献しました。晩年は耳を悪化させながらも教育活動に熱心に取り組んでいました。アメリカのユタ州プローヴォで亡くなっています。
ケルン放送交響楽団(Kölner Rundfunk-Sinfonieorchester)を指揮して二人の伴奏を務めるアッカーマン(Otto Ackermann, 1909-1960)は、ルーマニアのブカレストの指揮者で、地元の音楽院を10代で卒業し、ブカレスト王立歌劇場の地方公演の指揮を15歳で任されたほど早熟の逸材でした。その後、ベルリン高等音楽院でジョージ・セルことゲオルク・セルに指揮法を教わり、1928年にデュッセルドルフ歌劇場の指揮者としてキャリアを始めました。その後、1932年にブルノ歌劇場、1935年からベルン市立歌劇場、1947年からアン・デア・ウィーン劇場、1953年からケルン歌劇場という風に、ヨーロッパの主要な歌劇場の指揮者を歴任して名声を固めています。1958年にチューリヒ歌劇場の音楽監督に就任したアッカーマンですが、ほどなくしてベルン近郊のヴァーベルンで心臓発作を起こして急逝してしまいました。
ケルン放送交響楽団は、1947年に北西ドイツ放送局のケルン局が開設された時にスイス人指揮者のジャン・メランを首席指揮者に擁立して発足したオーケストラです。ただ、メランは翌年退き、その後釜に首席指揮者に着任したブルガリア出身のリュボミール・ロマンスキーも1シーズンのみでいなくなってしまいました。1964年にクリストフ・フォン・ドホナーニが着任するまで首席指揮者の座は不在で、ヨゼフ・カイルベルト等を客演指揮者に招いて急場をしのいでいました。この録音が行われたころは、まだ北西ドイツ放送局の管理下にありましたが、この翌年にケルン局が西ドイツ放送局として分離独立したことで、北西ドイツ放送交響楽団の二番手というポジションから解放されることになりました。1999年からは「ケルンWDR交響楽団」(WDR Sinfonieorchester Köln)と名称変更し、ドイツ有数の名門オーケストラとして活動しています。
この録音の醍醐味は、グリュミオーとプリムローズの共演が聴けることです。というのも、グリュミオーはフィリップス・レーベルと録音の専属契約を結び、プリムローズはRCAレーベルとの専属契約を結んでいたからです。当時は日本映画の五社協定のように、専属のアーティストが専属外のアーティストと一緒に商業録音を行うことが全く出来ませんでした。放送局がそれらのアーティストを呼んで演奏してもらってそれを放送するのは大目に見てもらえたようですが、その音源を販売するとなると、レコード会社などの権利者からストップがかかることもありました。もっとも、こうした権利上の問題は、今でも音源を販売する側にとって足枷になっています。なにはともあれ、大手レコード・レーベルでグリュミオーとプリムローズの共演で録音するということは当時としては出来なかった話なので、こうして秘蔵音源の開陳という企画で聴くことができるのは、両者のファンにとっては非常にうれしいことです。
その演奏内容は、両者とも一歩も引かない堂々たるイニシアチブの取り合いをしています。グリュミオーが殊更麗しい音色楽器を歌わせれば、プリムローズは渋く黒光りのするような音色で自分の存在感を誇示します。一方が仕掛ければ、他方が瞬時に返し技を持ってくるようなスリルがあり、お互いに相手を出し抜こうとしているかのようです。この両者を相撲に例えるならば、アッカーマンはさしずめ行司といったところ。オペラの指揮者として豊富な経験を積んでいるので、要所要所で絶妙な合いの手を入れ、音楽が滞らないようにしています。独奏陣が白熱気味なので典雅な演奏というわけにはいきませんが、アッカーマンの二人を煽ったり宥めたりする駆け引きの妙も、この演奏の楽しみの一つと言えます。
セレナード第6番は1776年の作で、「セレナータ・ノットゥルナ」と呼ばれます。この作品は、2群のアンサンブルを掛け合わせる音楽で、片方のアンサンブルにはティンパニが付属します。ティンパニのつかないほうの群はヴァイオリン2挺とヴィオラ、ヴィオローネ(コントラバスで代用)1挺ずつという室内楽編成で、ティンパニのつくほうは弦五部にヴィオラのパートを加えた弦楽合奏という編成です。薄手の響きと厚手の響きの対比は18世紀以前の合奏協奏曲の様式に近いものの、モーツァルトが合奏協奏曲の様式にヒントを得ていたかどうかは分かりません。ちなみに、その後モーツァルトはオーケストラを複数の群に分けたセレナードをもう一曲作っています。第8番のセレナードがそれに当たり、4群のオーケストラの掛け合いで演奏されます。その第8番も「ノットゥルノ」というタイトルをつけており、モーツァルトの想定する「ノットゥルノ」が複数のアンサンブル群の掛け合いを意味していたことが窺えます。
このセレナータ・ノットゥルナの演奏は、シェルヘンが指揮するトロント交響楽団(Toronto Symphony Orchestra)です。トロント交響楽団は、オーストリア出身のルイジ・フォン・クニッツを初代首席指揮者に据えて1922年に創設されたカナダのオーケストラです。カナダ放送協会(CBC)とつながりが深く、しばしば放送オーケストラの役割も果たしているのだとか。この録音時は、ヴァルター・ジュスキントが首席指揮者の座を小澤征爾に譲ろうとしている頃でした。シェルヘンの晩年の録音ですが、わざわざカナダに出かけて行って指揮をする行動力は衰えていなかったのでしょう。
その演奏は、第1楽章前半こそ他流試合で反応の鈍いところがありますが、1分半くらいでシェルヘンの睨みがきき始め、メリハリのついた演奏に仕上がるようになります。第2楽章は音楽が止まってしまうのではないかと思うほどにスローなミヌエットです。息の詰まりそうになるようなピアニッシモや意表を突くようなスフォルツァンドなど、大仰な表情づけを駆使した聴き手を飽きさせない工夫が施されています。優雅ではありませんが、まるで踊りの振り付けを厳しくチェックしているような緊張感があります。終楽章は効果的にアッチェレランドと長めの休符を使ってスピード感を演出しています。モーツァルトの生前にこんな演奏は行われなかったと思いますが、モーツァルトが聴いたら面白がったことでしょう。
交響曲第41番は、1788年にモーツァルトが作曲した交響曲です。モーツァルトの会得していた作曲技法の集大成のような作品で、モーツァルトの生前から彼の代表作と見做されていました。「ジュピター」というニックネームがついていますが、これはモーツァルトと同時代を生き、
イギリスで活躍したヨハン・ペーター・ザロモンという興行師が名付けたものとのことです。
本CDで演奏するのは、アンチェル(Karel Ančerl, 1908-1973)の指揮するトロント交響楽団です。アンチェルはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者でしたが、1968年の演奏旅行中に祖国チェコがソ連主導のワルシャワ条約機構軍の軍事介入を受けたことで辞任し、旅行先のトロントい亡命しました。この頃、トロント交響楽団は小澤の首席指揮者の任期の満了が近づいており、客演に来ていたアンチェルに懇請して小澤の後任を引き受けてもらっていました。アンチェルは首席指揮者に就任してからトロント交響楽団を徹底的に鍛え直してアンサンブルを引き締め、このオーケストラの充実期をもたらしましたが、チェコからの亡命でレコード会社の専属契約を結んでおらず、そのためにこの時期のアンチェルの商業録音はほとんどありませんでした。Tahraレーベルは、カナダ現地に残っている音源を発掘して紹介していますが、これもそんな発掘音源の一つになります。
トロント交響楽団の響きは、アンチェルの前任だったチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に比べると酷ですが、着実に力をつけているオーケストラならではの士気の高さを感じさせてくれます。第1楽章冒頭で聴かせた気合の入った響きは終楽章まで持続し、その一生懸命な演奏っぷりにはアンチェルの類まれな統率力の影響が染み渡っています。出色の出来栄えは第3楽章で、程よく重厚なサウンドと小気味良いテンポ感が絶妙に合わさり、聴き応えのある音楽に仕上がっています。アンチェルがこの地でもっと長生きしていれば、このオーケストラはどんな成長を遂げていたでしょうか。
4枚目のCDい収録されている演目は以下の通りです。
★オラトリオ《救われたベトゥーリア》 K118
チェーザレ・ヴァレッティ (T)
ミリアム・ピラッツィーニ (Ms)
エリーザベト・シュヴァルツコップ (S)
ボリス・クリストフ (Br)
ルイジア・ヴィセンティ (S)
トリノ・イタリア放送合唱団 (合唱指揮:ルッジェロ・マグリーニ)
トリノ・イタリア放送管弦楽団/マリオ・ロッシ
オラトリオ《救われたベトゥーリア》は、モーツァルトが15歳のときに書いたシリアスな宗教音楽ですが、当時のザルツブルク近辺では、オラトリオは音楽劇としての性格も備えるようになっており、オペラに見立てて演出上演する試みも行われているのだとか。
話の出典は『ユディト記』で、それに従えば、イスラエルの町ベトゥーリアがアッシリア王のネブカドネザルの配下ホロフェルスに攻略され、陥落寸前のときに、さる未亡人ユディト(このオラトリオではジュディッタ)が一計を案じてホロフェルスを篭絡し、隙を突いてホロフェルスの首をちょん切ってしまうという話です。実際の歴史ではベトゥーリアという街は存在せず、ネブカドネザルもアッシリアではなくバビロニアの王だったので、この話の内容は架空とされていますが、カトリック派のキリスト教では旧約聖書に組み込み、プロテスタントでも聖書の外典の一つに位置付けているので、この話は、当時の有識者の間ではポピュラーな話だったのでしょう。
ただ、ユディト記をそのまま台本に採用したのでは、女が男の首を刎ねるだけの話になります。そこで、台本担当のピエトロ・メタスタジオ(Pietro Metastasio, 1698-1782)は一計を案じ、アキオールという無神論者のベトゥーリア住民の役を作り、「神様なんか信じないぞ」と駄々をこねさせています。オツィアをはじめとするベトゥーリアの大人たちは、アキオールに神の存在を教えようとしますが、アキオールは「神の奇蹟をこの目で見なければ、オレは納得しない」といいます。すると、ユディトが取ってきたばかりのホロフェルスの首を持ってきて、これが町の救済の奇蹟の証だと見せ付けます。生首を見せられたアキオールをはじめとする一同は、「神様はいたんだ!」という結論に至り、話は幕となります。
演奏の面々は、テノール歌手のヴァレッティ(Cesare Valletti, 1922-2000)とメゾ・ソプラノ歌手のピラッツィーニ(Miriam Pirazzini, 1918-, CD表記ではファースト・ネームはMyriam)、ソプラノ歌手のヴィセンティ(Luigia Vicenti)といった録音の地元イタリア勢を多数起用していますが、ブルガリア出身のクリストフ(Boris Christoff, 1914-1993)やシュヴァルツコップ(Elisabeth Schwarzkopf, 1915-2006)といったビッグ・ネームも登場させています。
ヴァレッティはローマの生まれで、ティト・スキーパの門下。1953年にアメリカに渡り、メトロポリタン歌劇場でモーツァルトのオペラの上演に参加して高評を集めました。1968年に引退し、ジェノヴァで亡くなっています。
ピラッツィーニはカステルフランコ・ヴェーネトに生まれた人で、ローマでルイジ・リッチに声楽を師事しました。1944年にローマでデビューを飾り、1950年代のマリア・カラスのパートナーの一人としてミラノ・スカラ座に出演していました。
クリストフはソフィア生まれの世界的なバス歌手です。1942年にイタリアのローマに留学し、リッカルド・ストラッチャーリに師事しました。第二次世界大戦後、ミラノ・スカラ座やコヴェントガーデン王立歌劇場等に出演し、1950年にはメトロポリタン歌劇場に招待されましたが、アメリカのマッカラン法に引っかかって入国を拒否され、以後入国できるようになってもメトロポリタン歌劇場にだけは出演しませんでした。1986年に引退後、ローマで亡くなっています。
シュヴァルツコップは、プロイセン王国領ヤロチン(現:ポーランド領)に生まれたソプラノ歌手。ベルリン高等音楽院でコントラルトとしての研鑽を積んでいましたが、マリア・イーヴォギュンに見い出されてソプラノに転向しています。ドイツ・リートの名歌手として知られ、1946年にウィーンでジョアッキーノ・ロッシーニの《セヴィリアの理髪師》のロジーナ役を歌ったシュヴァルツコップをレコーディング・プロデューサーのウォルター・レッグがスカウトしたところ、シュヴァルツコップがオーディションを要請したため、レッグがフーゴー・ヴォルフのイタリア歌曲集の中の〈誰がお前を呼んだのか〉を一時間以上様々な表情で歌わせたというエピソードがあります。このオーディションに居合わせたヘルベルト・フォン・カラヤンが途中でレッグに「貴方はなんとサディスティックなんだ!」と言い捨てて立ち去るほど苛烈なオーディションでしたが、レッグの想像を超える多彩な表情で歌い分けをし、レッグを驚愕させました。
伴奏のオーケストラは、トリノ・イタリア放送管弦楽団(Orchestre de la RAI Torino)と表記されていますが、当時トリノのイタリア放送局には1931年からトリノ・イタリア放送交響楽団(Orchestra Sinfonica della RAI Torino)があり、合唱団が併設されていたので、そのオーケストラが起用されたと思われます。なお、このCDで指揮をするロッシ(Mario Rossi, 1902-1992)は、1946年から1969年までこのオーケストラの首席指揮者を務めていました。ロッシはイタリアのビテットに生まれた人で、ローマ聖チェチーリア音楽院でオットリーノ・レスピーギに作曲、ジャコモ・セタッチョリに指揮法を学んでいます。1924年にベルアルディーノ・モリナーリの助手としてキャリアを開始したロッシは、1936年にフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督に抜擢され、ピエトロ・マスカーニやジャン・フランチェスコ・マリピエロといった同時代の作曲家のオペラを積極的に取り上げて名声を確立しました。また、クラウディオ・モンテヴェルディやニコロ・ピッチンニ等、忘れられた旧作のオペラの復興にも尽力しています。第二次世界大戦後、アルトゥーロ・トスカニーニがミラノ・スカラ座の音楽監督の座をロッシに用意しましたが、ロッシはそれを断り、トリノ・イタリア放送交響楽団の首席指揮者に収まりました。この座を勇退した後は悠々自適の生活を送り、ローマで長逝しています。
なお、合唱指導として、このCDではルッジェロ・マグリーニ(Ruggero Magrini)という名前がクレジットされていますが、これは正しくは、ルッジェロ・マジーニ(Ruggero Maghini, 1913-1977)です。マジーニは作曲を本職とするセスト・カレンデ生まれの音楽家ですが、1950年からおよそ20年間にわたってトリノ・イタリア放送合唱団の指導に携わり、トリノで亡くなりました。
ロッシの指揮は、オペラ指揮者として当世一流だっただけあって、硬軟巧みに使い分けた見事なもの。冒頭のシンフォニアこそゴツゴツした演奏ですが、歌手に寄り添うときにはとても柔軟な対応でぴったりと歌手の歌い口に寄り添っています。イタリア勢とゲストたちの歌い口の違いの面白さもさることながら、荒さと木目細やかさを併せ持ったロッシの対応の職人っぽさも聴き所です。
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