1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Gustav Mahler (arr. Arnold Schoenberg & Rainer Riehn): Das Lied von der Erde
Birgit Remmert (A), Hans Peter Blochwitz (T)
Ensemble Musique Oblique / Philippe Herreweghe
Ensemble Musique Oblique / Philippe Herreweghe
(Rec. April 1993, Grande Salle de l'Arsenal de Mets)
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860-1911)は、オーストリアの作曲家です。
合計10曲の交響曲を書き上げ、11曲目の交響曲を未完成のまま世を去りました。
マーラーは、9曲の交響曲を書き上げると寿命が縮むなどというジンクスを信じており、9曲目の交響曲にあたるこの曲に通し番号を与えず、1908年に、ただ《大地の歌》とだけ銘打って作品を出版しました。
第9番(本当は第10番)の交響曲を書き上げたとき、マーラーはジンクスを克服したと大喜びしていたそうです。
ただ、第10番(本当は第11番)の交響曲を書きかけたときにマーラーは世を去ってしまったことから、番号を誤魔化した報いを受けてしまったのかもしれません。
《大地の歌》は、ドイツの詩人ハンス・ベートゲが出版した『中国の笛』(Die chinesische Flöte)に収められていた漢詩の翻訳をテキストにした作品です。とはいえ、ベートゲのテキストは、二次翻訳であり、マーラーがさらに歌詞に手を加えているので、元々の詩が何であったかよく分かっていないものもあるようです。
全部で6つの楽章からなり、奇数楽章をテノール歌手が歌い、偶数楽章をアルト歌手(またはバリトン歌手)が歌うという構成をとっています。
第1楽章は「大地の哀愁に寄せる酒の歌」と題し、李白の「悲歌行」が元ネタだと確認されています。
宴の楽しみも、大地のときの流れに比べればほんの一時に過ぎないことを綴った詩で、どうせ今を楽しく生きたって、どうせ死んでしまうんだと歌っています。こんな歌を酒宴というシチュエーションで歌ってしまうというペシミズムが、マーラーの死生観と共鳴したのでしょう。「生も暗く、死も暗い」という一節に、この曲の観念が凝集されています。
第2楽章は「秋に寂しき者」と題しています。この第2楽章の歌詞については、銭起の「效古秋夜長」が原詩ではないかとされてきましたが、原詩の趣とベートゲの詩の内容が異なることから、原作を銭起ではないとする意見もあります。宴が終わって人影のなくなった場所のような静けさを思わせる前奏を受けて、歌手が深々とした声で孤独の寂しさを切々と歌います。
第3楽章は「青春について」と題され、李白の「宴陶家亭子」が歌詞の元ネタであることが判明しています。
ここで曲はがらりと雰囲気を変え、春の日差しのような陽気な音楽を奏でます。テノール歌手にはウィットに富んだ歌唱が求められます。
第4楽章は「美について」と題され、李白の「採蓮曲」が元ネタとされています。
乙女が花を摘みながら戯れる様を眺める音楽で、第3楽章に引き続く雰囲気を備えています。
若者の若々しさを歌い上げながら、それを見る眼差しがどこか憂いを含んでいるところが、このテキストの隠し味であり、マーラーもそこに敏感に反応しています。
第5楽章の「春に酔えるもの」は、李白の「春日酔起言志」が元ネタだとされています。
第1楽章で声を張り上げた絶望のコンセプトがここで戻ってきており、春の美しさや若さが一体何になるのかという、ペシミズムが曲全体を覆っています。
第6楽章は「告別」と題され、孟浩然の「宿業師山房期丁大不至」と王維の「告別」が元ネタとして指摘されています。
諦念の感はいよいよ深くなり、この世の美しいもの全ての別れの挨拶を交わします。まるで死の床に体を横たえるような厳粛な感覚と、現世への未練がブレンドされ、漆黒の闇へと消えていくようなネガティヴな美しさが十二分に描かれています。
本CDで収録されているのは、マーラーのオリジナルではなく、ライナー・リーン(Rainer Riehn, 1941-)というドイツの作曲家が室内オーケストラ用に編成を縮小したバージョンを使用しています。
こうした編成の縮小という企画は、アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg, 1874-1951)の考案で、楽曲の分析研究の一環として弟子達と一緒にやっていた作業だそうです。ブラームスのピアノ四重奏曲を室内オーケストラ版にしてみたり、ヘンデルの合奏協奏曲を弦楽四重奏とオーケストラの曲に仕立て直したりと、色々やっていますが、この《大地の歌》の編曲は、企画までされながら最後まで貫徹できなかったようです。それをリーンが拾い上げ、1983年に発表し、演奏会のレパートリーとして使われるようになってきたのでした。
このシェーンベルク&リーンの編曲版による演奏の中でも、とりわけ有名なのが、フィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe, 1947-)指揮するアンサンブル・ミュジック・オブリクによる演奏です。
テノール独唱はハンス・ペーター・ブロコヴィッツ(Hans Peter Blochwitz. 1949-)、アルト独唱はビルギット・レンメルト(Birgit Remmert)が担当しています。
ヘレヴェッヘ指揮するアンサンブル・ミュジック・オブリクの面々は、大変趣味のいい音色で、過不足なく《大地の歌》の世界を彫琢しています。ブロコヴィッツの歌唱も、第1楽章ではヤケッパチにならず、第3楽章では爽やかにに歌いこなし、第5楽章では深い詠嘆をしっかりと滲ませています。
一方のレンメルトは、やや表情付けがぎこちなく、曲の内面と齟齬をきたしている感があります。第2楽章における物寂しい雰囲気がどうも漂ってこず、第4楽章でもいまひとつ味わいが深まりません。曲とシンクロできずに論難しているような演奏だといえるでしょう。第6楽章では、オーケストラがかなり善戦して、深い沈黙の世界へと聴き手をいざないますが、レンメルトの気質と曲想が合わなかったような印象を受けます。
ブロコヴィッツの歌唱がしっかりしているだけに、レンメルトの粗が余計に気になる結果になっているというのが、なんとも皮肉なことです。
合計10曲の交響曲を書き上げ、11曲目の交響曲を未完成のまま世を去りました。
マーラーは、9曲の交響曲を書き上げると寿命が縮むなどというジンクスを信じており、9曲目の交響曲にあたるこの曲に通し番号を与えず、1908年に、ただ《大地の歌》とだけ銘打って作品を出版しました。
第9番(本当は第10番)の交響曲を書き上げたとき、マーラーはジンクスを克服したと大喜びしていたそうです。
ただ、第10番(本当は第11番)の交響曲を書きかけたときにマーラーは世を去ってしまったことから、番号を誤魔化した報いを受けてしまったのかもしれません。
《大地の歌》は、ドイツの詩人ハンス・ベートゲが出版した『中国の笛』(Die chinesische Flöte)に収められていた漢詩の翻訳をテキストにした作品です。とはいえ、ベートゲのテキストは、二次翻訳であり、マーラーがさらに歌詞に手を加えているので、元々の詩が何であったかよく分かっていないものもあるようです。
全部で6つの楽章からなり、奇数楽章をテノール歌手が歌い、偶数楽章をアルト歌手(またはバリトン歌手)が歌うという構成をとっています。
第1楽章は「大地の哀愁に寄せる酒の歌」と題し、李白の「悲歌行」が元ネタだと確認されています。
宴の楽しみも、大地のときの流れに比べればほんの一時に過ぎないことを綴った詩で、どうせ今を楽しく生きたって、どうせ死んでしまうんだと歌っています。こんな歌を酒宴というシチュエーションで歌ってしまうというペシミズムが、マーラーの死生観と共鳴したのでしょう。「生も暗く、死も暗い」という一節に、この曲の観念が凝集されています。
第2楽章は「秋に寂しき者」と題しています。この第2楽章の歌詞については、銭起の「效古秋夜長」が原詩ではないかとされてきましたが、原詩の趣とベートゲの詩の内容が異なることから、原作を銭起ではないとする意見もあります。宴が終わって人影のなくなった場所のような静けさを思わせる前奏を受けて、歌手が深々とした声で孤独の寂しさを切々と歌います。
第3楽章は「青春について」と題され、李白の「宴陶家亭子」が歌詞の元ネタであることが判明しています。
ここで曲はがらりと雰囲気を変え、春の日差しのような陽気な音楽を奏でます。テノール歌手にはウィットに富んだ歌唱が求められます。
第4楽章は「美について」と題され、李白の「採蓮曲」が元ネタとされています。
乙女が花を摘みながら戯れる様を眺める音楽で、第3楽章に引き続く雰囲気を備えています。
若者の若々しさを歌い上げながら、それを見る眼差しがどこか憂いを含んでいるところが、このテキストの隠し味であり、マーラーもそこに敏感に反応しています。
第5楽章の「春に酔えるもの」は、李白の「春日酔起言志」が元ネタだとされています。
第1楽章で声を張り上げた絶望のコンセプトがここで戻ってきており、春の美しさや若さが一体何になるのかという、ペシミズムが曲全体を覆っています。
第6楽章は「告別」と題され、孟浩然の「宿業師山房期丁大不至」と王維の「告別」が元ネタとして指摘されています。
諦念の感はいよいよ深くなり、この世の美しいもの全ての別れの挨拶を交わします。まるで死の床に体を横たえるような厳粛な感覚と、現世への未練がブレンドされ、漆黒の闇へと消えていくようなネガティヴな美しさが十二分に描かれています。
本CDで収録されているのは、マーラーのオリジナルではなく、ライナー・リーン(Rainer Riehn, 1941-)というドイツの作曲家が室内オーケストラ用に編成を縮小したバージョンを使用しています。
こうした編成の縮小という企画は、アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg, 1874-1951)の考案で、楽曲の分析研究の一環として弟子達と一緒にやっていた作業だそうです。ブラームスのピアノ四重奏曲を室内オーケストラ版にしてみたり、ヘンデルの合奏協奏曲を弦楽四重奏とオーケストラの曲に仕立て直したりと、色々やっていますが、この《大地の歌》の編曲は、企画までされながら最後まで貫徹できなかったようです。それをリーンが拾い上げ、1983年に発表し、演奏会のレパートリーとして使われるようになってきたのでした。
このシェーンベルク&リーンの編曲版による演奏の中でも、とりわけ有名なのが、フィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe, 1947-)指揮するアンサンブル・ミュジック・オブリクによる演奏です。
テノール独唱はハンス・ペーター・ブロコヴィッツ(Hans Peter Blochwitz. 1949-)、アルト独唱はビルギット・レンメルト(Birgit Remmert)が担当しています。
ヘレヴェッヘ指揮するアンサンブル・ミュジック・オブリクの面々は、大変趣味のいい音色で、過不足なく《大地の歌》の世界を彫琢しています。ブロコヴィッツの歌唱も、第1楽章ではヤケッパチにならず、第3楽章では爽やかにに歌いこなし、第5楽章では深い詠嘆をしっかりと滲ませています。
一方のレンメルトは、やや表情付けがぎこちなく、曲の内面と齟齬をきたしている感があります。第2楽章における物寂しい雰囲気がどうも漂ってこず、第4楽章でもいまひとつ味わいが深まりません。曲とシンクロできずに論難しているような演奏だといえるでしょう。第6楽章では、オーケストラがかなり善戦して、深い沈黙の世界へと聴き手をいざないますが、レンメルトの気質と曲想が合わなかったような印象を受けます。
ブロコヴィッツの歌唱がしっかりしているだけに、レンメルトの粗が余計に気になる結果になっているというのが、なんとも皮肉なことです。
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