1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Richard Strauss: Symphonia Domestica, op.53
The Cleveland Orchestra / George Szell
(Rec. 10 January 1964 Severance Hall, Cleveland)
◈Richard Strauss: Horn Concerto No.1 in E flat major, op.11Myron Bloom (Hrn)
The Cleveland Orchestra / George Szell
(Rec. 27 October 1961 Severance Hall, Cleveland)
◈Richard Strauss: Don Juan, op.20The Cleveland Orchestra / George Szell
(Rec. Rec. 29 & 30 March 1957 Severance Hall, Cleveland)
ドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)の家庭交響曲(1902-1903年作)と、ホルン協奏曲第1番(1882-1883年作)、交響詩《ドン・ファン》(1887-1888年作)を収録したCD。
演奏は、ジョージ・セル(George Szell, 1897-1970)指揮するクリーヴランド交響楽団で、ホルン協奏曲での独奏を務めるマイロン・ブルーム(Myron Bloom, 1926-)は、このオーケストラの首席奏者でした。
R.シュトラウスは、オーケストレーションの達人であり、哲学だろうと物語だろうと風景画だろうと、どんな題材でも音楽で表現できると豪語するほどの人でした。
なんでも音楽に出来ると豪語したR.シュトラウスがオーケストラ曲のお題に選んだのが、自らの家庭事情。
1897年に生まれたばかりの息子フランツと、自分の妻のパウリーネとの生活をネタに、交響詩に挑戦しました。
しかし、いざ書き上げてみると、演奏時間に40分以上かかる大作になってしまったので、「家庭交響曲」というタイトルをつけ、切れ目なしに続く4つの部分からなる交響曲として作品登録したのでした。
出来上がった曲は、無論、妻と息子に献呈しています。
この交響曲の4つの部分は、以下に示すとおりになっています。
第1部は、この交響曲の登場人物の紹介で、作曲者自身とその妻がまず登場し、この主題が混ぜ合わされて息子の主題が出来上がります。さらにそれぞれの主題が展開されて、作曲者側の叔母と、妻側の叔父も登場します。
第2部では息子が遊びまわる場面が表現され、次第に遊び疲れ、母親の子守唄を聞きながら寝てしまいます。
第3部は大人の時間。息子が寝静まった後の夜の営みを、作曲者は対位法の限りを尽くして情熱的に表現しています。
第4部では、夜が開け、息子が起き出し、騒がしい日常が活写されます。夫婦喧嘩と仲直りの場面も盛り込まれ、自分の家庭が幸せであることが強調されます。
R.シュトラウスは、この曲の前に、《英雄の生涯》という交響詩で、自分のプロフィールと人生設計を音楽にしていたので、R.シュトラウスの私事ネタ第二弾にあたる作品になります。
しかし、実際の生活は、夫婦仲良く暮らしていたわけではなく、常に妻からいびり倒され、お小遣いもケチられていました。R.シュトラウスは、よく客演先のオーケストラでポーカーをして、団員からお金をせしめていましたが、これはなけなしのお小遣いを膨らませる意味も込められていたということです。
ホルン協奏曲第1番は、父親の還暦祝いに作曲した作品。
父親のフランツは、ホルンのヴィルトゥオーゾとして知られた人で、19世紀ドイツの大指揮者であるハンス・フォン・ビューローからは「ホルン界のヨアヒム」と称えられたほどの人でした。
犬猿の仲だったヴァーグナーも、フランツのホルンの妙技は認めていて「ヤツが稀代のホルニストでなかったら、とっにぶちのめしているところだ!」という言葉を残しています。
この父親から、R.シュトラウスは徹底的な早期教育を受け、豪華絢爛にオーケストラを彩れる管弦楽法の達人としての地歩を固めることが出来たのでした。
作曲家として駆け出しだった頃のR.シュトラウスは、まだ父親の影響下にあり、この曲に関しても、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやフェリックス・メンデルスゾーンなどの作曲家の影響が指摘されています。
しかし、オーケストレーションは豪華絢爛で、後々の交響詩の傑作を想起させる豊かな響きを聞き取ることが出来るでしょう。
なお、献呈された父親は、この曲を公式の場では演奏せず、ピアノ伴奏での初演は、父親のホルンの一番弟子だったブルーノ・ホイヤーが担当し、R.シュトラウス自身がピアノを弾いています。
曲を受け取った父親は、公式の場でこそ演奏しませんでしたが、自分の友人たちに、曲を吹いて息子の作った曲だと自慢して回っていたそうです。
オーケストラ伴奏での初演は、1885年3月4日に、父と親交のあったビューローが指揮するマイニンゲン宮廷のオーケストラで行われ、このオーケストラの首席奏者だったグスタフ・ラインホスが独奏を担当しました。
なお、このオーケストラ譜は、ドレスデンのホルン演奏の大家であるオスカー・フランツへの献辞が書き込まれています。
《ドン・ファン》を書き上げた頃には、R.シュトラウスは父親の影響からはなれ、ヴァーグナーに心酔するようになっていました。また、シューペンハウエルの哲学にも興味を示していたR.シュトラウスは、女性遍歴を重ねて身を持ち崩すドン・ファンの生涯に興味を覚え、ニコラウス・レーナウのドン・ファンに関する劇詩をモチーフにして、この曲を書き上げたのでした。
意欲満々で勢いよく始まる冒頭の主題がドン・ファンの出で立ちを表現し、次から次へと女に手を出して官能に浸りますが、次第に官能の刹那的なことに絶望し、放蕩生活に溺れ、最後は貴族の娘をたぶらかしたときに殺してしまった娘の父親の亡霊に地獄へと連れ去られてしまいます。
本CDで指揮しているセルは、ベルリンの宮廷歌劇場で働いていたR.シュトラウスのアシスタントを務めていたことがあり、セルにとって、R.シュトラウスは師匠にあたる人になります。
セルは、ことあるごとにR.シュトラウスの作品を演奏し、師匠の作品の普及に大きく貢献しました。
家庭交響曲やドン・ファンでは、オーケストラが室内楽のように緊密なアンサンブルで隙のない演奏を展開しており、非の打ち所がありません。ともすると贅肉質になってしまい、退屈してしまうこともあるR.シュトラウスの音楽が、キリッと引き締まり、緩むことがないというのは驚異的だと思います。
ホルン協奏曲では、ブルームのホルンが溌剌としており、とても勢いのある独奏を聴かせてくれます。セルの演奏も、家庭交響曲やドン・ファンで聞かせてくれているものと同様の、芽の摘んだアンサンブルで、ホルン独奏が自由に振舞える磐石の土台を作り上げています。
演奏は、ジョージ・セル(George Szell, 1897-1970)指揮するクリーヴランド交響楽団で、ホルン協奏曲での独奏を務めるマイロン・ブルーム(Myron Bloom, 1926-)は、このオーケストラの首席奏者でした。
R.シュトラウスは、オーケストレーションの達人であり、哲学だろうと物語だろうと風景画だろうと、どんな題材でも音楽で表現できると豪語するほどの人でした。
なんでも音楽に出来ると豪語したR.シュトラウスがオーケストラ曲のお題に選んだのが、自らの家庭事情。
1897年に生まれたばかりの息子フランツと、自分の妻のパウリーネとの生活をネタに、交響詩に挑戦しました。
しかし、いざ書き上げてみると、演奏時間に40分以上かかる大作になってしまったので、「家庭交響曲」というタイトルをつけ、切れ目なしに続く4つの部分からなる交響曲として作品登録したのでした。
出来上がった曲は、無論、妻と息子に献呈しています。
この交響曲の4つの部分は、以下に示すとおりになっています。
第1部は、この交響曲の登場人物の紹介で、作曲者自身とその妻がまず登場し、この主題が混ぜ合わされて息子の主題が出来上がります。さらにそれぞれの主題が展開されて、作曲者側の叔母と、妻側の叔父も登場します。
第2部では息子が遊びまわる場面が表現され、次第に遊び疲れ、母親の子守唄を聞きながら寝てしまいます。
第3部は大人の時間。息子が寝静まった後の夜の営みを、作曲者は対位法の限りを尽くして情熱的に表現しています。
第4部では、夜が開け、息子が起き出し、騒がしい日常が活写されます。夫婦喧嘩と仲直りの場面も盛り込まれ、自分の家庭が幸せであることが強調されます。
R.シュトラウスは、この曲の前に、《英雄の生涯》という交響詩で、自分のプロフィールと人生設計を音楽にしていたので、R.シュトラウスの私事ネタ第二弾にあたる作品になります。
しかし、実際の生活は、夫婦仲良く暮らしていたわけではなく、常に妻からいびり倒され、お小遣いもケチられていました。R.シュトラウスは、よく客演先のオーケストラでポーカーをして、団員からお金をせしめていましたが、これはなけなしのお小遣いを膨らませる意味も込められていたということです。
ホルン協奏曲第1番は、父親の還暦祝いに作曲した作品。
父親のフランツは、ホルンのヴィルトゥオーゾとして知られた人で、19世紀ドイツの大指揮者であるハンス・フォン・ビューローからは「ホルン界のヨアヒム」と称えられたほどの人でした。
犬猿の仲だったヴァーグナーも、フランツのホルンの妙技は認めていて「ヤツが稀代のホルニストでなかったら、とっにぶちのめしているところだ!」という言葉を残しています。
この父親から、R.シュトラウスは徹底的な早期教育を受け、豪華絢爛にオーケストラを彩れる管弦楽法の達人としての地歩を固めることが出来たのでした。
作曲家として駆け出しだった頃のR.シュトラウスは、まだ父親の影響下にあり、この曲に関しても、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやフェリックス・メンデルスゾーンなどの作曲家の影響が指摘されています。
しかし、オーケストレーションは豪華絢爛で、後々の交響詩の傑作を想起させる豊かな響きを聞き取ることが出来るでしょう。
なお、献呈された父親は、この曲を公式の場では演奏せず、ピアノ伴奏での初演は、父親のホルンの一番弟子だったブルーノ・ホイヤーが担当し、R.シュトラウス自身がピアノを弾いています。
曲を受け取った父親は、公式の場でこそ演奏しませんでしたが、自分の友人たちに、曲を吹いて息子の作った曲だと自慢して回っていたそうです。
オーケストラ伴奏での初演は、1885年3月4日に、父と親交のあったビューローが指揮するマイニンゲン宮廷のオーケストラで行われ、このオーケストラの首席奏者だったグスタフ・ラインホスが独奏を担当しました。
なお、このオーケストラ譜は、ドレスデンのホルン演奏の大家であるオスカー・フランツへの献辞が書き込まれています。
《ドン・ファン》を書き上げた頃には、R.シュトラウスは父親の影響からはなれ、ヴァーグナーに心酔するようになっていました。また、シューペンハウエルの哲学にも興味を示していたR.シュトラウスは、女性遍歴を重ねて身を持ち崩すドン・ファンの生涯に興味を覚え、ニコラウス・レーナウのドン・ファンに関する劇詩をモチーフにして、この曲を書き上げたのでした。
意欲満々で勢いよく始まる冒頭の主題がドン・ファンの出で立ちを表現し、次から次へと女に手を出して官能に浸りますが、次第に官能の刹那的なことに絶望し、放蕩生活に溺れ、最後は貴族の娘をたぶらかしたときに殺してしまった娘の父親の亡霊に地獄へと連れ去られてしまいます。
本CDで指揮しているセルは、ベルリンの宮廷歌劇場で働いていたR.シュトラウスのアシスタントを務めていたことがあり、セルにとって、R.シュトラウスは師匠にあたる人になります。
セルは、ことあるごとにR.シュトラウスの作品を演奏し、師匠の作品の普及に大きく貢献しました。
家庭交響曲やドン・ファンでは、オーケストラが室内楽のように緊密なアンサンブルで隙のない演奏を展開しており、非の打ち所がありません。ともすると贅肉質になってしまい、退屈してしまうこともあるR.シュトラウスの音楽が、キリッと引き締まり、緩むことがないというのは驚異的だと思います。
ホルン協奏曲では、ブルームのホルンが溌剌としており、とても勢いのある独奏を聴かせてくれます。セルの演奏も、家庭交響曲やドン・ファンで聞かせてくれているものと同様の、芽の摘んだアンサンブルで、ホルン独奏が自由に振舞える磐石の土台を作り上げています。
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