1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Franz Berwald: Sinfonie sérieuse in G minor
Swedish Radio Symphony Orchestra / Sixten Ehrling
(Rec. 5 & 6 May 1970, Nacka Aula, Stockholm)
◈Franz Berwald: Estrella de Soria Overture◈Franz Berwald: The Bayadère Feast
◈Franz Berwald: Queen of Golconda Overture
◈Franz Berwald: Memories from the Norwegian Alps
◈Franz Berwald: Fairy Dance
Swedish Radio Symphony Orchestra / Sixten Ehrling
(Rec. 10 & 11 May 1966, Royal Academy of Music, Stockholm)
フランツ・ベルヴァルド(Franz Berwald, 1796-1868)の作品集です。
彼の名前は、「ベルワルド」と表記されることも少なくありませんが、「ベールヴァルド」が現地の発音に近いとのことです。よって、折衷的に「ベルヴァルド」という表記を用いることにします。
本CDで収録されているベルヴァルド作品の曲目は、
・《真面目な交響曲》(1842年作)
・歌劇《エストレッラのソリア》序曲(1841年作)
・《バヤデール祭》(1842年作)
・歌劇《ゴルコンダの女王》序曲(1864年作)
・《ノルウェーの山々の物語》(1842年作)
・《妖精の踊り》(1841年作)
の6曲です。
スウェーデンの作曲家であるベルヴァルドは、その作品について、生前はあまり本国では認められませんでした。
音楽教育は、王立歌劇場のオーケストラ団員だった父親にヴァイオリンを習い、スイス出身の作曲家であるエドゥアール・デュ・ピュイに音楽理論を習った程度でした。ベルヴァルド自身は、音楽院で学びたいと思っていたらしく、ドイツに留学すべく、奨学金に応募し続けていましたが、何度も不採用になっています。
そこで、ベルヴァルドは奨学金なしでドイツに行き、外科医として働いてお金を貯めています。
1841年になって、ウィーンに転居してから本腰を入れて作曲活動を展開し、本CDに収録されているような作品を矢継ぎ早に発表していきました。
《真面目な交響曲》は、スウェーデン本国で、1843年にベルヴァルドの従兄弟の指揮で初演されましたが、スウェーデン本国では全く評価されなかったようです。
《エストレッラとソリア》にせよ《妖精の踊り》にせよ、発表する作品は、特にスウェーデン本国では、ほぼ無視されており、本国よりもドイツやオーストリアなどでそれなりの評価を受けていました。
晩年には、その不屈の音楽活動が讃えられ、ストックホルム音楽院の作曲科教授になりましたが、死後しばらくは顧みられることがなく、ヴィルヘルム・ステンハンマルやカール・ニールセンといった20世紀に活躍した作曲家たちの再評価によって、19世紀スウェーデンを代表する作曲家として讃えられるようになりました。
本CDは、シクステン・エールリンク(Sixten Ehrling, 1918-2005)指揮するスウェーデン放送交響楽団が演奏しています。
エールリンクは、20世紀スウェーデンを代表する名指揮者で、18世紀の音楽から同世代の音楽まで幅広くこなしていました。
ベルヴァルドのやや気まぐれな音楽の勘所をしっかりと押さえた演奏は、まるでフェリックス・メンデルスゾーンの交響曲群のような造形性を現出させています。エールリンクの手腕の見事さと、エールリンクの要求にしっかりと応えるスウェーデン放送交響楽団のしっかりとした演奏は、ベルヴァルドを高く評価しない人が聴いても、魅力の底上げに成功していると感じるほどに聴き応えがあります。
彼の名前は、「ベルワルド」と表記されることも少なくありませんが、「ベールヴァルド」が現地の発音に近いとのことです。よって、折衷的に「ベルヴァルド」という表記を用いることにします。
本CDで収録されているベルヴァルド作品の曲目は、
・《真面目な交響曲》(1842年作)
・歌劇《エストレッラのソリア》序曲(1841年作)
・《バヤデール祭》(1842年作)
・歌劇《ゴルコンダの女王》序曲(1864年作)
・《ノルウェーの山々の物語》(1842年作)
・《妖精の踊り》(1841年作)
の6曲です。
スウェーデンの作曲家であるベルヴァルドは、その作品について、生前はあまり本国では認められませんでした。
音楽教育は、王立歌劇場のオーケストラ団員だった父親にヴァイオリンを習い、スイス出身の作曲家であるエドゥアール・デュ・ピュイに音楽理論を習った程度でした。ベルヴァルド自身は、音楽院で学びたいと思っていたらしく、ドイツに留学すべく、奨学金に応募し続けていましたが、何度も不採用になっています。
そこで、ベルヴァルドは奨学金なしでドイツに行き、外科医として働いてお金を貯めています。
1841年になって、ウィーンに転居してから本腰を入れて作曲活動を展開し、本CDに収録されているような作品を矢継ぎ早に発表していきました。
《真面目な交響曲》は、スウェーデン本国で、1843年にベルヴァルドの従兄弟の指揮で初演されましたが、スウェーデン本国では全く評価されなかったようです。
《エストレッラとソリア》にせよ《妖精の踊り》にせよ、発表する作品は、特にスウェーデン本国では、ほぼ無視されており、本国よりもドイツやオーストリアなどでそれなりの評価を受けていました。
晩年には、その不屈の音楽活動が讃えられ、ストックホルム音楽院の作曲科教授になりましたが、死後しばらくは顧みられることがなく、ヴィルヘルム・ステンハンマルやカール・ニールセンといった20世紀に活躍した作曲家たちの再評価によって、19世紀スウェーデンを代表する作曲家として讃えられるようになりました。
本CDは、シクステン・エールリンク(Sixten Ehrling, 1918-2005)指揮するスウェーデン放送交響楽団が演奏しています。
エールリンクは、20世紀スウェーデンを代表する名指揮者で、18世紀の音楽から同世代の音楽まで幅広くこなしていました。
ベルヴァルドのやや気まぐれな音楽の勘所をしっかりと押さえた演奏は、まるでフェリックス・メンデルスゾーンの交響曲群のような造形性を現出させています。エールリンクの手腕の見事さと、エールリンクの要求にしっかりと応えるスウェーデン放送交響楽団のしっかりとした演奏は、ベルヴァルドを高く評価しない人が聴いても、魅力の底上げに成功していると感じるほどに聴き応えがあります。
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