1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
CD1:
◈Johann Sebastian Bach: Sonata No.1 in G minor, BWV1001
◈Johann Sebastian Bach: Partita No.2 in B major, BWV1002
◈Johann Sebastian Bach: Sonata No.2 in A minor, BWV1003
Paul Zukofsky (Vn)
(Rec. 1971-1972, Vanguard Studio at West 23rd Street, New York)
CD2:
◈Johann Sebastian Bach: Partita No.2 in D minor, BWV1004
◈Johann Sebastian Bach: Sonata No.3 in C major, BWV1005
◈Johann Sebastian Bach: Partita No.3 in E major, BWV1006
Paul Zukofsky (Vn)
(Rec. 1971-1972, Vanguard Studio at West 23rd Street, New York)
ポール・ズーコフスキー(Paul Zukofsky, 1943-)は、前衛詩人ルイス・ズーコフスキーの息子として生まれ、7歳の頃からイヴァン・ガラミアンの門下生として腕を磨いてきたヴァイオリニストです。13歳でカーネギー・ホールでデビューした後もガラミアンの元で研鑽を重ね、1965年のニューヨーク青少年コンサート国際オーディションで入賞を果たして、ヴァイオリニストとしての名声を確立しました。
ズーコフスキーは、ヤッシャ・ハイフェッツの後継者とされる程のテクニシャンでしたが、現代音楽の作品演奏に情熱を注ぎ、現代音楽におけるヴァイオリン演奏のスペシャリストと言われるようになりました。
ジョン・ケージやジョージ・クラムら、アメリカの作曲家の作品を初演して、作曲家たちの篤い信頼を勝ち得たズーコフスキーですが、無類のテクニシャンとして、ニコロ・パガニーニの24のカプリースを録音しています。
本CDは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ集を、ヴァンガード・レーベルに全曲録音したもので、同時代の作曲家の作品を録音することの多いズーコフスキーにとっては、パガニーニの録音同様、かなり珍しい録音レパートリーとなります。
本来は、ヴァンガード・レーベルからCDとして復刻されるはずのところを、ズーコフスキーが自らのレーベルで監修し、リマスタリングを施して発売しています。
ズーコフスキーは、パガニーニのカプリース集の録音のときもそうでしたが、当時入手できた信頼性の高い楽譜のほかに、作曲家の自筆譜のファクシミリも参照し、作曲者の欲した弓捌きを探求しています。
主観性を極力廃し、なるべく客観的に作曲家の意図に迫ろうとするズーコフスキーのアプローチは、モダン楽器を使用しているものの、今日の古楽器演奏のアプローチにつながるものがあります。
ヴィブラートを極力排除することで、ズーコフスキーの演奏はストイックな印象を醸し出しますが、彼の演奏は、ヨーゼフ・シゲティのような当為論的なアプローチではなく、存在論的なアプローチを取っているように思えます。すなわち、シゲティが、かくあるべしというバッハ像を描き出しているのに対し、ズーコフスキーの場合は、作品のあるがままの姿を投影しようとした演奏だということです。勿論、あるがままの姿を認識し投影しようとしているズーコフスキーの脳味噌の中には、何かかくあるべしというようなバッハ像がないとは言い切れませんが、脳味噌の中にあるバッハ像から楽譜を読みこなすのではなく、楽譜の様々な検討を通して、楽譜からバッハ像に迫ろうとするような読み方で、この音楽と対峙しています。ズーコフスキーは、ストイシズムを強要したり、ご高説をたれるような印象はなく、聴き手を誘惑せず、ただたたずんでいるだけのJ.S.バッハの音楽像を構築しているのかもしれません。
ズーコフスキーのアプローチは、作品自体に作品を語らせ、シンプルな味付けの演奏を目指しています。
一番シンプルな味付けにするならば、例えば、パルティータ第2番のシャコンヌをコンピュータで棒読みさせればよいということになるかもしれません。しかし、そうした意味でのシンプルさは、J.S.バッハの音楽を、ただの音の羅列にするというだけの話で、作品自体に作品の魅力を語ってもらうことにはなりません。
ズーコフスキーという生身の人間が演奏する以上、個々の楽章自体が放つ何かを掬い上げるのが必要になってきます。その何かをデフォルメさせるのではなく、聴き手に悟らせるような形で提示するところに、コンピュータの演奏ではなく人間が演奏するところの意義と難しさがあるのでしょう。
ズーコフスキーは、作品の内面を抉り出すのではなく、滲み出させる演奏を行います。技術的な限界を語り口でカバーするのではなく、徹底的に限界と戦います。例えば、ソナタ第1番の第4楽章のプレストなど、まさしく文字通りの「プレスト」であり、容赦のない早弾きを披露しています。しかし、こうした早弾きは、楽譜の指示に忠実に従った結果であって、早く弾けることを自慢するためにやっているアプローチではありません。その快速さ自体のすごさ以上に、刺々しさのない、洗練された滑らかさがあり、技術的なギリギリ感がありません。
ズーコフスキーの演奏は、演奏側の苦労を微塵もかんじさせないほどの鍛錬を持って、ひたすら楽譜の要求する音楽に忠実であろうとした、ひとつの成果です。
ズーコフスキーは、ヤッシャ・ハイフェッツの後継者とされる程のテクニシャンでしたが、現代音楽の作品演奏に情熱を注ぎ、現代音楽におけるヴァイオリン演奏のスペシャリストと言われるようになりました。
ジョン・ケージやジョージ・クラムら、アメリカの作曲家の作品を初演して、作曲家たちの篤い信頼を勝ち得たズーコフスキーですが、無類のテクニシャンとして、ニコロ・パガニーニの24のカプリースを録音しています。
本CDは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ集を、ヴァンガード・レーベルに全曲録音したもので、同時代の作曲家の作品を録音することの多いズーコフスキーにとっては、パガニーニの録音同様、かなり珍しい録音レパートリーとなります。
本来は、ヴァンガード・レーベルからCDとして復刻されるはずのところを、ズーコフスキーが自らのレーベルで監修し、リマスタリングを施して発売しています。
ズーコフスキーは、パガニーニのカプリース集の録音のときもそうでしたが、当時入手できた信頼性の高い楽譜のほかに、作曲家の自筆譜のファクシミリも参照し、作曲者の欲した弓捌きを探求しています。
主観性を極力廃し、なるべく客観的に作曲家の意図に迫ろうとするズーコフスキーのアプローチは、モダン楽器を使用しているものの、今日の古楽器演奏のアプローチにつながるものがあります。
ヴィブラートを極力排除することで、ズーコフスキーの演奏はストイックな印象を醸し出しますが、彼の演奏は、ヨーゼフ・シゲティのような当為論的なアプローチではなく、存在論的なアプローチを取っているように思えます。すなわち、シゲティが、かくあるべしというバッハ像を描き出しているのに対し、ズーコフスキーの場合は、作品のあるがままの姿を投影しようとした演奏だということです。勿論、あるがままの姿を認識し投影しようとしているズーコフスキーの脳味噌の中には、何かかくあるべしというようなバッハ像がないとは言い切れませんが、脳味噌の中にあるバッハ像から楽譜を読みこなすのではなく、楽譜の様々な検討を通して、楽譜からバッハ像に迫ろうとするような読み方で、この音楽と対峙しています。ズーコフスキーは、ストイシズムを強要したり、ご高説をたれるような印象はなく、聴き手を誘惑せず、ただたたずんでいるだけのJ.S.バッハの音楽像を構築しているのかもしれません。
ズーコフスキーのアプローチは、作品自体に作品を語らせ、シンプルな味付けの演奏を目指しています。
一番シンプルな味付けにするならば、例えば、パルティータ第2番のシャコンヌをコンピュータで棒読みさせればよいということになるかもしれません。しかし、そうした意味でのシンプルさは、J.S.バッハの音楽を、ただの音の羅列にするというだけの話で、作品自体に作品の魅力を語ってもらうことにはなりません。
ズーコフスキーという生身の人間が演奏する以上、個々の楽章自体が放つ何かを掬い上げるのが必要になってきます。その何かをデフォルメさせるのではなく、聴き手に悟らせるような形で提示するところに、コンピュータの演奏ではなく人間が演奏するところの意義と難しさがあるのでしょう。
ズーコフスキーは、作品の内面を抉り出すのではなく、滲み出させる演奏を行います。技術的な限界を語り口でカバーするのではなく、徹底的に限界と戦います。例えば、ソナタ第1番の第4楽章のプレストなど、まさしく文字通りの「プレスト」であり、容赦のない早弾きを披露しています。しかし、こうした早弾きは、楽譜の指示に忠実に従った結果であって、早く弾けることを自慢するためにやっているアプローチではありません。その快速さ自体のすごさ以上に、刺々しさのない、洗練された滑らかさがあり、技術的なギリギリ感がありません。
ズーコフスキーの演奏は、演奏側の苦労を微塵もかんじさせないほどの鍛錬を持って、ひたすら楽譜の要求する音楽に忠実であろうとした、ひとつの成果です。
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