1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Alexander Scriabin: Le Poème de l'extase. op.54
Chicago Symphony Orchestra / Pierre Boulez
(Rec. November 1995, Medinah Temple, Chicago)
◈Alexander Scriabin: Concerto for Piano and Orchestra in F sharp minor, op.20
Anatol Ugorski (Pf)
Chicago Symphony Orchestra / Pierre Boulez
(Rec. December 1996, Orchestra Hall, Chicago)
◈Alexander Scriabin: Prométhée, Le Poème du feu. op.54
Anatol Ugolski (Pf)
Chicago Symphony Chorus (Chorus master: Duain Wolfe)
Chicago Symphony Orchestra / Pierre Boulez
Chicago Symphony Chorus (Chorus master: Duain Wolfe)
Chicago Symphony Orchestra / Pierre Boulez
(Rec. December 1996, Orchestra Hall, Chicago)
アレクサンドル・スクリャービン(Alexander Scriabin, 1872-1915)は、ロシアのピアニスト兼作曲家です。モスクワの軍人貴族の家に生まれましたが、外交官だった父はほとんど家に帰らず、アントン・ルビンシテイン門下のピアノ奏者だった母もスクリャービンを生んだ後に産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまったため、叔母の養育を受けました。音楽の才能が顕著だったため、10歳でモスクワ音楽院の授業を受けることが許され、セルゲイ・タネーエフに作曲、ニコライ・ズヴェーレフにピアノを学びました。16歳の時に正式に音楽院に入学し、アントン・アレンスキーに作曲、ヴァシリー・サフォノフにピアノをそれぞれ師事し、ピアノの名手として将来を嘱望されるようにまりました。当時の学友には、セルゲイ・ラフマニノフやヨーゼフ・レヴィン等がいました。ラフマニノフとは音楽的にライヴァル関係にあり、音楽院のピアノの卒業試験ではラフマニノフが1位、スクリャービンが2位という成績でした。さらにレヴィンとは難曲をどれだけレパートリーに入れられるかで競い合い、スクリャービンは無理をして右手首を故障してしまいました。そこで、左手を鍛えるべく、左手優位のピアノ曲をたくさん書き、彼のピアノ音楽における左手の用法は「左手のコサック」と呼ばれるほどに難易度の高いものになりました。20世紀に入った頃から、フリードリヒ・ニーチェの思想に傾倒し、さらにヘレナ・ブラヴァツキーの神智学にも影響されるようになってから、神秘主義的な音楽を目指すようになりました。晩年は、人間の五感を総動員するような芸術作品の制作を構想し、「神秘劇」と称してこれを作ろうとしましたが、唇の虫刺されから敗血症を起こしてモスクワで急逝しています。
本CDに収録されている《法悦の詩》(1908年作)と《プロメテ - 火の詩》(1910年)は、神智学経由で神秘思想に取り憑かれたスクリャービンの心境の複雑さを反映した、カルトな作品になっています。
スクリャービンにとって第4番目の交響曲となる《法悦の詩》の目的は、とどのつまり、性交渉のオーガズムを音楽で表現するとどうなるかということに尽き、敢えて単一楽章で構成されています。まるで仏門密教の立川流の儀式をそのまま音楽に転写したような作品で、オーケストラが脈動し、度々オルガズムへの到達をフル・オーケストラの表現で示唆します。その性的表現の音楽化というスタンスが、ヨーロッパ諸国ではアンチ・モラルと見做されてしまい、音楽としての評価が遅れてしまったきらいがあります。
《プロメテ - 火の詩》(1910年作)は、スクリャービンが仕上げた最後の交響曲で、第5番に数えられます。これは、天界から英知の象徴である火を盗んだプロメテウスを称えることでブラヴァツキーの神智学の理念に近づこうとした作品でした。
この作品においてスクリャービンは、色光ピアノなるものを使う計画を立てていました。この色光ピアノは、いわゆる照明切り替え装置で、上演の際に舞台から様々な色の光を放射し、演劇とは違った視覚の刺激も作曲の範疇に含めようとした野心が見えます。ただ、初演の際には、この装置が故障してしまったため使うことが出来ず、現在でも、この色光ピアノの使用は演奏側の任意になっています。
なにはともあれ、この作品のオリジナリティは、音色だけでなく、色彩もコントロールして作品を作り上げようとしたところにありますが、「神秘劇」を制作する頃には、嗅覚の刺激もコントロールしようとしており、「神秘劇」が完成していれば、この作品はそのトルソに位置づけられたかもしれません。
このように、晩年のスクリャービンは、音楽という枠内に表現衝動を嵌め込むことに満足せず、マルチ・メディアを駆使した表現形態を模索するようになりましたが、1898年の時点で作られたピアノ協奏曲は、ショパンのピアノ協奏曲をさらに湿っぽくしたような作品に仕上げています。
その作風には、後年のような調性の崩壊はなく、伝統的な3楽章構成をとり、大変メロディアスな作品に仕上げていますが、突拍子もなく疾走したり、気まぐれに高揚を求める音楽の流れに、後年の作品を予感させる不安定さがあります。スクリャービンは、その脆そうな構成を、作品の個性と考えていたらしく、オーケストレーションのデタラメさに驚いたニコライ・リムスキー=コルサコフがオーケストレーションの改訂を申し出たのに対し、すげなく断り、ほとんど手直しをしませんでした。
本CDの演奏は、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925-)指揮するシカゴ交響楽団(Chicago Symphony Orchestra)が行っており、ピアノ協奏曲と《プロメテ》ではアナトール・ウゴルスキ(Anatol Ugorski, 1942-)がピアノのパートを弾いています。《プロメテ》の終盤で現れる合唱は、シカゴ交響楽団附属の合唱団(合唱指揮はドゥエイン・ウォルフェ(Duain Wolfe, 1945-))です。
ブーレーズ(ブーレーズの名前について、彼自身は「前の長音は後ろの長音の半分の長さ」と語っているので、「ブゥレーズ」と書くと、彼の主張に近い発音が得られるのではと思いますが、この表記は人口に膾炙していないので、慣用の「ブーレーズ」を使います。)は、フランスのモンブリソンに生まれた音楽家。本職は作曲家で、パリ音楽院に入学してアンドレ・ヴォラブールとオリヴィエ・メシアンに音楽理論を学び、1945年にプルミエ・プリを取得。また並行してルネ・レイボヴィッツの門を叩き、音列技法を体得しました。初期は音列技法の信奉者でしたが、その信奉を捨てて後衛的な作曲家の作品に一瞥を送るようになりました。一方でダルムシュタット夏季現代音楽講習会でジョン・ケージと出会って「偶然性」の概念を知ってからは、その概念に手を加えて「管理された偶然性」を提唱したり、1970年にフランス国立音響音楽研究所(IRCAM: Institut de Recherche et Coordination Acoustique/Musique)を設立して電子音楽の表現の探求と普及に血道を上げたりもしており、作曲家としてはバランスの良いアヴァンギャルドであったといえます。指揮者としてのブーレーズは、おそらくレイボヴィッツの下で指揮法も学んだと思われますが、彼は誰に指揮法を学んだかは公言していません。指揮活動は、1946年にマリニー劇団の音楽監督を任された頃から行っており、この劇団の小劇場の音楽会を1955年にドメーヌ・ミュジカルと改称した辺りから、指揮者として注目されるようになりました。1961年には自作を引っ提げてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に登場し、1963年にはパリ・オペラ座でのアルバン・ベルクの《ヴォツェック》のフランス初演を指揮して成功するなどの手柄を上げています。1967年にはパリ音楽院管弦楽団を解散させた当時の文化大臣のアンドレ・マルローの施策に反発してアメリカに行き、ジョージ・セルに招かれてクリーヴランド管弦楽団に客演しました。セルと意気投合したブーレーズは、事後を託されて1971年まで音楽顧問としてクリーヴランド管弦楽団を支え、1971年から1975年までBBC交響楽団の首席指揮者を歴任。以後しばらくはIRCAMでの仕事に専念し、IRCAMの下部組織としてアンサンブル・アンテルコンタンポランを創設して1978年まで音楽監督を務めました。1991年にIRCAMの所長を退任した後は、フリーランスの立場で指揮や作曲を行い、ドイツ・グラモフォン・レーベルに自分のレパートリーを録音していくようになりました。
指揮者としてのブーレーズのレパートリーは、まず自作を核とし、自分が無視できない範疇の作曲家の作品が選ばれます。19世紀西洋ロマンティーク以前の音楽は、お付き合い的小遣い稼ぎの一環で演奏するにとどまりましたが、スクリャービンの音楽はロマンティークの中では鬼子のような存在なので、ブーレーズとしても解析しがいのある音楽だったのでしょう。
ここでは、スクリャービンの作品を徹底的に解剖し、作品のテクスチュアを明晰にすることに意を注いでいます。シカゴ交響楽団をオーケストラに選んだのは、このオーケストラのアンサンブル能力の明快さを鑑みてのことでしょう。
ただ、あまりに明晰すぎて、スクリャービンの神秘主義的な香りがかなり飛ばされてしまっており、妖しげな音楽のカタチを目の当たりにするというよりも、ドビュッシーの音楽をさらにアグレッシブにした音楽としてのスクリャービンの作風の正体を暴きだす感じの仕上がりになっています。音楽分析を得意とする知性派のブーレーズにスクリャービンの音楽の演奏を任せるのであれば、スクリャービンの魑魅魍魎的な側面が削ぎ落とされるのは当然の帰結でしょう。
ウゴルスキは、旧ソ連のシベリア出身のピアノ奏者で、レニングラード音楽院でナデジダ・ゴルボフスカヤに師事しています。旧ソ連国内でアルノルト・シェーンベルクのピアノ曲を紹介し、ブーレーズの作品などにも食しを動かす近現代音楽の熱烈な支持者でしたが、そうした近現代音楽の擁護と家系がユダヤ系であるという理由で政治当局の監視下に置かれていました。旧ソ連下では満足な演奏活動ができなかったので、1990年に旧東ドイツに亡命してピアノ奏者として再出発し、ドイツ・グラモフォンと専属契約を結んで世界的な名声を手にしました。
ウゴルスキのピアノ演奏は、一言で言えば存在感の薄い演奏です。スクリャービンのピアノ協奏曲は、ピアノを海苔網、オーケストラをその海苔網にひっつく海苔という構図で捉えられるような、行きあたりばったりな音楽ですが、この演奏では、むしろブーレーズが海苔網となり、ウゴルスキがその周りに海苔として絡みつくような仕上がりになっています。まるでオーケストラのパートの一つのように溶け合おうとするピアノと、ピアノとランデヴーを演じる気のないオーケストラの掛け合いは、アンサンブル的な面では瑕疵こそないものの、どこかチグハグな印象になります。ブーレーズとしても大きな成果はなく、お付き合い程度の演奏に留まっています。
《プロメテ》でのウゴルスキは、シカゴ交響楽団の団員として潜入するのに成功したという程度の演奏です。ウゴルスキの名前を削られていたとしても、さほど気になりません。むしろ、カオスへと向かう音響をテキパキと整理して、スクリャービンの音楽のからくりを見切ったような冷静な演奏を提示するブーレーズの分析家根性を称えるべき録音です。
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