1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Modest Mussorgsky (arr. Maurice Ravel): Pictures at an Exhibition
日本フィルハーモニー管弦楽団 / 山田一雄
(Rec. 7 July 1968, 杉並公会堂)
◈Joseph Haydn: Symphony No.101 in D major, Hob.I-101 "The Clock"日本フィルハーモニー管弦楽団 / 山田一雄
(Rec. 15 July 1968, 杉並公会堂)
◈Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Slavonic March, op.31日本フィルハーモニー管弦楽団 / 山田一雄
(Rec. 21 June 1968, 杉並公会堂)
19世紀半ばから終わりごろのロシアに、「五人組」という作曲家集団がありました。5人の音楽好きが集まったので「五人組」と呼ばれています。この5人の内訳は、ミリー・バラキレフを筆頭に、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー(Modest Mussorgsky, 1839-1881)、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、アレクサンドル・ボロディンの五人です。
このうち、本職の音楽家だったのは、ミハイル・グリンカ門下のバラキレフくらいで、そのバラキレフにしても、音楽理論に精通していたとはいえ、本職はピアニストでした。
ちなみに、キュイは堡塁建築の専門家として知られた陸軍将校、リムスキー=コルサコフは海軍士官、ボロディンは科学者が本職で、みんなバラキレフの下で作曲の勉強をしていた人たちでした。
ムソルグスキーも、実家が大地主で、陸軍将校のエリート・コースを歩んでおり、音楽好きが高じてバラキレフと知り合って作曲のノウハウを習っていました。
しかし、1861年の農奴解放の改革のあおりを受けてムソルグスキー一族は没落してしまい、ムソルグスキー本人も陸軍を辞めて地方の下級役人に転職せざるを得なくなりました。
こうしたことも影響して、バラキレフから音楽のレッスンが受けられなくなり、独学で作曲を学び、独自の作風を確立するに至りました。
1871年に、ムソルグスキーは、「五人組」の後見人であるヴラディミール・スターソフの紹介で、ヴィクトル・ハルトマンという建築家と知り合いました。ムソルグスキーの音楽に理解を示したハルトマンは、すぐにムソルグスキーと親友になりましたが、1873年に急逝してしまい、ムソルグスキーに大きなショックを与えています。
その翌年、ムソルグスキーは、ペテルブルグの芸術アカデミーで開かれたハルトマンの回顧展に出かけ、そこで見た絵からインスピレーションを受け、わずか2~3週間でピアノ用の組曲《展覧会の絵》を完成させました。
ただし、この作品は、ムソルグスキーの生前は演奏も出版もされず、ムソルグスキーの没後5年ほど経ってから、リムスキー=コルサコフが校訂を施して出版しています。
この作品は、多くの作曲家に編曲の意欲を掻き立ててきましたが、モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)が1922年に手がけた編曲が特によく知られています。
このラヴェルの編曲は、ロシア出身の指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーから依頼されて作ったもので、長らくクーセヴィツキーの専売特許とされていました。
ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn, 1732-1809)は、オーストリアの作曲家で、日本では勝手に「交響曲の父」と渾名されています。ハイドンは、生涯に104曲もの交響曲を量産し、交響曲という様式の定着に重要な役割を担ったと見做されています。ハイドンは、1791年と1794年にイギリスに演奏旅行に出かけ、合計12曲の新作交響曲を作曲しています。これらは、イギリスで活躍していた音楽興行主のヨハン・ペーター・ザロモンの企画に乗った作品であり、「ロンドン・セット」と呼ばれています。
《時計》交響曲は、そうした「ロンドン・セット」の中の一曲で、1794年のイギリス訪問時に発表されました。
第二楽章の音楽的特徴や、第三楽章のメヌエットが音楽時計に使われたとかの理由で、勝手にニックネームが策定されましたが、このニックネームが使われたのはハイドンが亡くなってから後のことです。
本CDの最後に収録されているのは、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky, 1840-1893)の《スラヴ行進曲》です。チャイコフスキーは、前述の「五人組」の後輩格に当たりますが、「五人組」には敢えて与しませんでした。
「五人組」が、ロシアの民族性を強調しようと腐心していたのに対して、チャイコフスキー自身は、あくまで西洋音楽の流儀に則った作曲を心がけようとしていました。つまり、帰属意識の違いが「五人組」とチャイコフスキーの溝の一つとなっています。
また、チャイコフスキー自身は、どうやら個人的に「五人組」の人たちに通底する、いわゆるアマチュアリズムに嫌気がさしていたようでもあります。
そんなチャイコフスキーですが、ロシアの民族性を意識しないようにしていたわけではなく、民族色を前面に出した作品もしっかりと書いています。この《スラヴ行進曲》は、民族色を前面に打ち出した典型例と言えるでしょう。
この作品を発表した1876年は、セルビア公国がオスマン帝国に宣戦布告をした年でした。
この作品が書かれる前の年には、ボスニアでキリスト教徒の小作農がオスマン帝国に反乱を起こし、政情が不安定になっていました。このボスニアでの騒動に便乗する形でセルビア公国はオスマン帝国に宣戦布告をしたものの、オスマン帝国の返り討ちにされていました。これを見ていたロシアが戦争に介入し、1877年には露土戦争に発展したわけですが、ロシア本国では国威発揚のためのコンサートが企画されることになり、チャイコフスキーは、この《スラヴ行進曲》でコンサートに参加したのでした。
初演当初に「セルビア=ロシア行進曲」と名付けられていたように、《太陽は明るく輝かない》と《懐かしいセルビアの戸口》というセルビア民謡が用いられ、ロシア帝国国歌を高らかに歌い上げて音楽を盛り上げています。
セルビアもロシアも同じスラヴ民族ということで、セルビアの人たちをロシアの同胞と見做して支援するという意図が強く反映された音楽といえるでしょう。
本CDの全演目は、山田一雄(Kazuo Yamada, 1912-1991)が日本フィルハーモニー管弦楽団(Nippon Philharmonic Orchestra)を振って録音しています。山田は、指揮棒を振りながら舞台から落ちてもなお指揮を続けたという逸話を持つ熱血漢でしたが、教材用に録音したと思われる本録音では、なかなか折り目正しく演奏しています。
《展覧会の絵》では、ヒート・アップしそうになる自分を極力抑えているため、最後の〈バーバ・ヤガー〉から〈キエフの大門〉にかけてのクライマックスにいささか物足りなさを感じるものの、《スラヴ行進曲》では、思わず箍が外れています。
自重した山田の芸風がぴったりと作風にはまっているのはハイドンの交響曲で、かっちりとしたアンサンブルで隙のない音楽を作り上げています。厳格な演奏ではあるものの、何故か退屈せず引き込まれていくのは、山田の演奏のアイデンティティなのかもしれません。
このうち、本職の音楽家だったのは、ミハイル・グリンカ門下のバラキレフくらいで、そのバラキレフにしても、音楽理論に精通していたとはいえ、本職はピアニストでした。
ちなみに、キュイは堡塁建築の専門家として知られた陸軍将校、リムスキー=コルサコフは海軍士官、ボロディンは科学者が本職で、みんなバラキレフの下で作曲の勉強をしていた人たちでした。
ムソルグスキーも、実家が大地主で、陸軍将校のエリート・コースを歩んでおり、音楽好きが高じてバラキレフと知り合って作曲のノウハウを習っていました。
しかし、1861年の農奴解放の改革のあおりを受けてムソルグスキー一族は没落してしまい、ムソルグスキー本人も陸軍を辞めて地方の下級役人に転職せざるを得なくなりました。
こうしたことも影響して、バラキレフから音楽のレッスンが受けられなくなり、独学で作曲を学び、独自の作風を確立するに至りました。
1871年に、ムソルグスキーは、「五人組」の後見人であるヴラディミール・スターソフの紹介で、ヴィクトル・ハルトマンという建築家と知り合いました。ムソルグスキーの音楽に理解を示したハルトマンは、すぐにムソルグスキーと親友になりましたが、1873年に急逝してしまい、ムソルグスキーに大きなショックを与えています。
その翌年、ムソルグスキーは、ペテルブルグの芸術アカデミーで開かれたハルトマンの回顧展に出かけ、そこで見た絵からインスピレーションを受け、わずか2~3週間でピアノ用の組曲《展覧会の絵》を完成させました。
ただし、この作品は、ムソルグスキーの生前は演奏も出版もされず、ムソルグスキーの没後5年ほど経ってから、リムスキー=コルサコフが校訂を施して出版しています。
この作品は、多くの作曲家に編曲の意欲を掻き立ててきましたが、モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)が1922年に手がけた編曲が特によく知られています。
このラヴェルの編曲は、ロシア出身の指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーから依頼されて作ったもので、長らくクーセヴィツキーの専売特許とされていました。
ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn, 1732-1809)は、オーストリアの作曲家で、日本では勝手に「交響曲の父」と渾名されています。ハイドンは、生涯に104曲もの交響曲を量産し、交響曲という様式の定着に重要な役割を担ったと見做されています。ハイドンは、1791年と1794年にイギリスに演奏旅行に出かけ、合計12曲の新作交響曲を作曲しています。これらは、イギリスで活躍していた音楽興行主のヨハン・ペーター・ザロモンの企画に乗った作品であり、「ロンドン・セット」と呼ばれています。
《時計》交響曲は、そうした「ロンドン・セット」の中の一曲で、1794年のイギリス訪問時に発表されました。
第二楽章の音楽的特徴や、第三楽章のメヌエットが音楽時計に使われたとかの理由で、勝手にニックネームが策定されましたが、このニックネームが使われたのはハイドンが亡くなってから後のことです。
本CDの最後に収録されているのは、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky, 1840-1893)の《スラヴ行進曲》です。チャイコフスキーは、前述の「五人組」の後輩格に当たりますが、「五人組」には敢えて与しませんでした。
「五人組」が、ロシアの民族性を強調しようと腐心していたのに対して、チャイコフスキー自身は、あくまで西洋音楽の流儀に則った作曲を心がけようとしていました。つまり、帰属意識の違いが「五人組」とチャイコフスキーの溝の一つとなっています。
また、チャイコフスキー自身は、どうやら個人的に「五人組」の人たちに通底する、いわゆるアマチュアリズムに嫌気がさしていたようでもあります。
そんなチャイコフスキーですが、ロシアの民族性を意識しないようにしていたわけではなく、民族色を前面に出した作品もしっかりと書いています。この《スラヴ行進曲》は、民族色を前面に打ち出した典型例と言えるでしょう。
この作品を発表した1876年は、セルビア公国がオスマン帝国に宣戦布告をした年でした。
この作品が書かれる前の年には、ボスニアでキリスト教徒の小作農がオスマン帝国に反乱を起こし、政情が不安定になっていました。このボスニアでの騒動に便乗する形でセルビア公国はオスマン帝国に宣戦布告をしたものの、オスマン帝国の返り討ちにされていました。これを見ていたロシアが戦争に介入し、1877年には露土戦争に発展したわけですが、ロシア本国では国威発揚のためのコンサートが企画されることになり、チャイコフスキーは、この《スラヴ行進曲》でコンサートに参加したのでした。
初演当初に「セルビア=ロシア行進曲」と名付けられていたように、《太陽は明るく輝かない》と《懐かしいセルビアの戸口》というセルビア民謡が用いられ、ロシア帝国国歌を高らかに歌い上げて音楽を盛り上げています。
セルビアもロシアも同じスラヴ民族ということで、セルビアの人たちをロシアの同胞と見做して支援するという意図が強く反映された音楽といえるでしょう。
本CDの全演目は、山田一雄(Kazuo Yamada, 1912-1991)が日本フィルハーモニー管弦楽団(Nippon Philharmonic Orchestra)を振って録音しています。山田は、指揮棒を振りながら舞台から落ちてもなお指揮を続けたという逸話を持つ熱血漢でしたが、教材用に録音したと思われる本録音では、なかなか折り目正しく演奏しています。
《展覧会の絵》では、ヒート・アップしそうになる自分を極力抑えているため、最後の〈バーバ・ヤガー〉から〈キエフの大門〉にかけてのクライマックスにいささか物足りなさを感じるものの、《スラヴ行進曲》では、思わず箍が外れています。
自重した山田の芸風がぴったりと作風にはまっているのはハイドンの交響曲で、かっちりとしたアンサンブルで隙のない音楽を作り上げています。厳格な演奏ではあるものの、何故か退屈せず引き込まれていくのは、山田の演奏のアイデンティティなのかもしれません。
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