1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Niccolò Paganini: Violin Concerto No.3 in E major
Henryk Szeryng (Vn)
London Symphony Orchestra / Alexander Gibson
(Rec. 15-16 January 1971, Wembley Town Hall, London)
ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782-1840)は、19世紀前半に活躍したイタリアの作曲家です。
生前は作曲家というよりも、超絶技巧のヴァイオリニストとして、ヨーロッパ中を席巻した大スターでした。
彼は自分のコンサートのために作曲をし、自分の人気の秘密である超絶技巧を門外不出のものとすることで、その人気を保持しようとしました。
彼が作った曲について、出版社が出版を申し出ても、法外な報酬を吹っかけて追い払うのが常で、彼の生前に公式に出版されたものは、24曲から成るカプリース集のみです。
自分の技術が盗まれるのを警戒したパガニーニは、自分の作った協奏曲についても、独奏のパートとオーケストラのパートを別々に保管し、自分にだけ分かるように記譜に細工を施していました。そんな楽譜のほとんどは、パガニーニの遺族たちによって適当に処分されてしまい、かなりの作品が散逸することになりました。
本CDに収録されているパガニーニのヴァイオリン協奏曲第3番も、演奏した記録こそ残っているものの、紛失したと長らく思われていた作品のひとつです。
この作品は、ヘンリク・シェリング(Henryk Szeryng, 1918-1988)によって発掘されました。
シェリングは、ポーランドの出身で、ベルリンでカール・フレッシュの薫陶を受け、さらにパリ音楽院でガブリエル・ブイヨンに師事し、ジャック・ティボーに私淑したヴァイオリニストです。パウル・ユオンやナディア・ブーランジェにも学び、音楽理論家としても一家言を持っています。さらに、第二次世界大戦中は、ポーランドの亡命政府の外交官として世界中を飛び回り、戦後はメキシコに定住して音楽教育に取り組みました。
しかし、たまたまメキシコに演奏旅行に来ていたアルテュール・ルービンシュタインに見い出されて国際的なソリストとして第一線に復帰し、ヴァイオリニストとしての名声を不動のものとしました。
そんなシェリングの仕事の一つとしてとりわけ有名なのが、このパガニーニのヴァイオリン協奏曲の発掘でした。
シェリングは、RCAレーベルからフィリップス・レーベルに専属契約を移していましたが、そのフィリップス社の調査で、1920年代にパガニーニの子孫に当たるヴァイオリニストが、未発表のパガニーニのヴァイオリン協奏曲を断片的に演奏した記録が見つかりました。さらに、その子孫の存命と所在を突き止め、シェリングがその子孫とコンタクトをとりました。パガニーニの子孫の信頼を得たシェリングは、パガニーニ家に残るパガニーニの直筆の楽譜の束を見せてもらい、その束からヴァイオリン協奏曲一式を発見しました。
シェリングは、パガニーニの子孫と交渉して蘇演権を取得し、、アレクサンダー・ギブソン(Alexander Gibson, 1926-1995)指揮するロンドン交響楽団と1971年の10月10日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールで蘇演を行い、成功を収めました。
この録音は、初演に先立って、ロンドンのウェンブリー・タウン・ホールで行われたもので、公開蘇演より前に演奏された、正真正銘の蘇演の記録と言えます。
伴奏指揮を務めるギブソンは、イギリスはスコットランドの出身で、グラスゴーのスコットランド音楽学校を卒業後、ロンドンの王立音楽院で、リチャード・オースティンに指揮法を学んでいます。その後、ザルツブルグでイーゴリ・マルケヴィチ、シエナのキジアーナ音楽院でパウル・ファン・ケンペンの各氏から薫陶を受け、1951年の第1回ブザンソン国際指揮者コンクールで第2位に入賞しています。1957年にサドラーズ・ウェルズ・オペラの音楽監督の職を皮切りに、スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の芸術監督やアメリカのヒューストン交響楽団の首席客演指揮者などを務め、世界的に有名な指揮者として知られるようになりました。また、1964年にはスコティッシュ・オペラを自ら提唱して創設し、イギリスにおけるオペラの第一人者と目されています。
シェリングとギブソンの指揮するロンドン交響楽団による本録音は、フィリップス・レーベルにとって万全の人選であり、この曲の記念碑的な録音ということになりますが、その演奏内容は、必ずしも上出来ではありません。
最初に指摘されるのは、シェリングとギブソンのノリの違いです。
第1楽章の序奏や、随時挟まれるオーケストラの総奏部分では、ギブソンの溌剌とした音楽の流れに推進力を感じますが、シェリングの独奏部分では、その推進力が減退し、音楽の流れが淀み始めます。
シェリングの登場時間のほうがギブソンの総奏部分より遥かに長いため、本来聴き手をワクワクさせるに足るギブソンの総奏が浮いてしまっているように感じられてしまいます。
セッション録音ということで、おそらくオーケストラのみの部分とシェリングとの共演部分を別々に録った結果、こういう演奏になったと考えられますが、普通はソリストと指揮者の方でテンポ設定について話し合い、音楽の流れがギクシャクしないように配慮するものです。
パガニーニの作品の演奏としては、シェリングの演奏自体にも、詰めの甘さが感じられます。
第1楽章で仰々しく独奏を始めたものの、あまりテンポが上がらず、音符の密度が上がると、むしろテンポが下がってしまいます。細かいパッセージの一音一音を確認していると言えば聞こえはいいですが、パガニーニの作品演奏に特有の超絶技巧を征服するスリルがすっぽり抜け落ちており、音楽が全体的に弛緩してしまっています。
音色自体も、それほど魅力的とはいえず、第2楽章のメロディも表情が硬く、アリア風な音楽の特質を大きく損なっています。
第3楽章に至っては、ボウイングに力みが目立ち、伴奏が十分な弾力性を持っているにもかかわらず、シェリングの演奏に生気があまりありません。
最後まで弾ききることで、トップ・アスリートとしての意地を見せようと奮戦してはいるものの、望ましいような演奏効果は得られていないように思います。
生前は作曲家というよりも、超絶技巧のヴァイオリニストとして、ヨーロッパ中を席巻した大スターでした。
彼は自分のコンサートのために作曲をし、自分の人気の秘密である超絶技巧を門外不出のものとすることで、その人気を保持しようとしました。
彼が作った曲について、出版社が出版を申し出ても、法外な報酬を吹っかけて追い払うのが常で、彼の生前に公式に出版されたものは、24曲から成るカプリース集のみです。
自分の技術が盗まれるのを警戒したパガニーニは、自分の作った協奏曲についても、独奏のパートとオーケストラのパートを別々に保管し、自分にだけ分かるように記譜に細工を施していました。そんな楽譜のほとんどは、パガニーニの遺族たちによって適当に処分されてしまい、かなりの作品が散逸することになりました。
本CDに収録されているパガニーニのヴァイオリン協奏曲第3番も、演奏した記録こそ残っているものの、紛失したと長らく思われていた作品のひとつです。
この作品は、ヘンリク・シェリング(Henryk Szeryng, 1918-1988)によって発掘されました。
シェリングは、ポーランドの出身で、ベルリンでカール・フレッシュの薫陶を受け、さらにパリ音楽院でガブリエル・ブイヨンに師事し、ジャック・ティボーに私淑したヴァイオリニストです。パウル・ユオンやナディア・ブーランジェにも学び、音楽理論家としても一家言を持っています。さらに、第二次世界大戦中は、ポーランドの亡命政府の外交官として世界中を飛び回り、戦後はメキシコに定住して音楽教育に取り組みました。
しかし、たまたまメキシコに演奏旅行に来ていたアルテュール・ルービンシュタインに見い出されて国際的なソリストとして第一線に復帰し、ヴァイオリニストとしての名声を不動のものとしました。
そんなシェリングの仕事の一つとしてとりわけ有名なのが、このパガニーニのヴァイオリン協奏曲の発掘でした。
シェリングは、RCAレーベルからフィリップス・レーベルに専属契約を移していましたが、そのフィリップス社の調査で、1920年代にパガニーニの子孫に当たるヴァイオリニストが、未発表のパガニーニのヴァイオリン協奏曲を断片的に演奏した記録が見つかりました。さらに、その子孫の存命と所在を突き止め、シェリングがその子孫とコンタクトをとりました。パガニーニの子孫の信頼を得たシェリングは、パガニーニ家に残るパガニーニの直筆の楽譜の束を見せてもらい、その束からヴァイオリン協奏曲一式を発見しました。
シェリングは、パガニーニの子孫と交渉して蘇演権を取得し、、アレクサンダー・ギブソン(Alexander Gibson, 1926-1995)指揮するロンドン交響楽団と1971年の10月10日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールで蘇演を行い、成功を収めました。
この録音は、初演に先立って、ロンドンのウェンブリー・タウン・ホールで行われたもので、公開蘇演より前に演奏された、正真正銘の蘇演の記録と言えます。
伴奏指揮を務めるギブソンは、イギリスはスコットランドの出身で、グラスゴーのスコットランド音楽学校を卒業後、ロンドンの王立音楽院で、リチャード・オースティンに指揮法を学んでいます。その後、ザルツブルグでイーゴリ・マルケヴィチ、シエナのキジアーナ音楽院でパウル・ファン・ケンペンの各氏から薫陶を受け、1951年の第1回ブザンソン国際指揮者コンクールで第2位に入賞しています。1957年にサドラーズ・ウェルズ・オペラの音楽監督の職を皮切りに、スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の芸術監督やアメリカのヒューストン交響楽団の首席客演指揮者などを務め、世界的に有名な指揮者として知られるようになりました。また、1964年にはスコティッシュ・オペラを自ら提唱して創設し、イギリスにおけるオペラの第一人者と目されています。
シェリングとギブソンの指揮するロンドン交響楽団による本録音は、フィリップス・レーベルにとって万全の人選であり、この曲の記念碑的な録音ということになりますが、その演奏内容は、必ずしも上出来ではありません。
最初に指摘されるのは、シェリングとギブソンのノリの違いです。
第1楽章の序奏や、随時挟まれるオーケストラの総奏部分では、ギブソンの溌剌とした音楽の流れに推進力を感じますが、シェリングの独奏部分では、その推進力が減退し、音楽の流れが淀み始めます。
シェリングの登場時間のほうがギブソンの総奏部分より遥かに長いため、本来聴き手をワクワクさせるに足るギブソンの総奏が浮いてしまっているように感じられてしまいます。
セッション録音ということで、おそらくオーケストラのみの部分とシェリングとの共演部分を別々に録った結果、こういう演奏になったと考えられますが、普通はソリストと指揮者の方でテンポ設定について話し合い、音楽の流れがギクシャクしないように配慮するものです。
パガニーニの作品の演奏としては、シェリングの演奏自体にも、詰めの甘さが感じられます。
第1楽章で仰々しく独奏を始めたものの、あまりテンポが上がらず、音符の密度が上がると、むしろテンポが下がってしまいます。細かいパッセージの一音一音を確認していると言えば聞こえはいいですが、パガニーニの作品演奏に特有の超絶技巧を征服するスリルがすっぽり抜け落ちており、音楽が全体的に弛緩してしまっています。
音色自体も、それほど魅力的とはいえず、第2楽章のメロディも表情が硬く、アリア風な音楽の特質を大きく損なっています。
第3楽章に至っては、ボウイングに力みが目立ち、伴奏が十分な弾力性を持っているにもかかわらず、シェリングの演奏に生気があまりありません。
最後まで弾ききることで、トップ・アスリートとしての意地を見せようと奮戦してはいるものの、望ましいような演奏効果は得られていないように思います。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
Clock
ブログ内検索
カウンター
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
プロフィール
HN:
(´π`)
性別:
男性
自己紹介:
・・・。
カテゴリー
最新CM
[06/29 (^▽^)]
[06/16 ある晩のヴぇる君。]
[06/07 はじめまして]
[05/30 ある晩のヴぇる君。]
[05/29 ある晩のヴぇる君。]
最新TB
最新記事
(12/22)
(12/20)
(12/13)
(12/12)
(12/11)
アーカイブ
最古記事
(03/17)
(03/18)
(03/19)
(03/20)
(03/21)
地球儀もどき