1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Alexander Glazunov: Violin Concerto in A minor, op.82
Julian Sitkovetsky (Vn)
Moscow Youth Orchestra / Kirill Kondrashin
(Rec. 1952)
◈Aram Khachaturian: Violin Concerto in D minorJulian Sitkovetsky (Vn)
Romanian Radio Orchestra / Niyazi
(Rec. 1954)
アレクサンデル・グラズノフ(Alexander Glazunov, 1865-1936)のヴァイオリン協奏曲とアラム・ハチャトゥリアン(Aram Khachaturian, 1903-1978)のヴァイオリン協奏曲のカップリング。
どちらも20世紀に作られた協奏曲だが、グラズノフの作品はハチャトゥリアンが生まれて1年経った時期の作品であり、ハチャトゥリアンの作品はグラズノフの没後4年経って発表された作品です。
グラズノフのヴァイオリン協奏曲は、ロシアの当時の音楽界の重鎮であるレオポルト・アウアーのために書かれた作品。
この曲を書き上げた翌年に、グラズノフはペテルブルグ音楽院の院長に就任しているので、ヴァイオリン科の主任教授だったアウアーへの、ある種の贈り物だったのかもしれません。
物憂げなロマンティシズムを前面に出した前半部分と酒宴の余興のような後半部分とをヴァイオリンのカデンツァでつなぎ合わせるという荒っぽい構成ながら、そこにちりばめられたメロディの美しさと超絶技巧のバランスの良さで、なかなか演奏効果の高い作品に仕上がっています。
ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲は、旧ソ連を代表する名手のダヴィット・オイストラフに献呈された作品。
後年、ジャン=ピエール・ランパルがフルート協奏曲としてこの曲を演奏してから、フルート協奏曲としても知られるようになりました。
アルメニア人だったハチャトゥリアンは、アルメニアの首都のエレヴァンでバレエ音楽《幸福》(のちに改変されて《ガヤネー》となる)を作るために民謡の取材をしていましたが、この取材で得た素材を使って、この協奏曲が出来上がりました。
バレエ音楽を作曲中だったこともあって、その音楽には漲るような躍動感が充溢しています。
なお、ヴァイオリンのパートは、ハチャトゥリアンがヴァイオリンの技巧に不案内だったため、オイストラフが技術上の助言を行っていました。カデンツァも、作曲者のほうで用意しましたが、オイストラフが自分でカデンツァを書き上げ、このCDの録音でも、オイストラフのカデンツァが用いられています。
本CDでは、ユリアン・シトコヴェツキー(Yulian Sitkovetsky, 1925-1958)がヴァイオリンの独奏を担当しています。ロシア語のローマ字転写の仕方の違いなのか、このCDではジュリアン(Julian)と表記されています。
シトコヴェツキーは、ドミトリー・シトコヴェツキーの父親であり、第4回ショパン国際ピアノ・コンクールの覇者であるベラ・ダヴィドヴィチの夫として知られています。
1933年にはロシアに訪問中だったジャック・ティボーに認められ、アブラム・ヤンポリスキーの門下として研鑽を積み、1945年の全ソ連青少年音楽コンクールで優勝したことで、ヴァイオリニストとしての将来を嘱望されるようになりました。さらに1947年には、プラハで開催された青少年のためのコンクールでレオニード・コーガンと一位を分け合っています。1952年のヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールと1955年のエリザベート王妃国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で、それぞれ第二位を獲得しましたが、1956年には肺癌を発病し、33歳にならぬうちにこの世を去っています。
グラズノフのヴァイオリン協奏曲は、シトコヴェツキー27歳頃の記録。キリル・コンドラシン(Kirill Kondrashin, 1914-1981)の指揮するモスクワ青少年管弦楽団が伴奏しています。コンドラシンは、ボリス・ハイキン門下のロシア人指揮者で、1960年から15年間にわたってモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めていました。本録音時のコンドラシンは、ボリショイ劇場の指揮者として活動する傍ら、青少年のためのオーケストラも指導していたようです。
シトコヴェツキーの独奏は、オーケストラの親和性も高く、特に前半部分では、相補的な関係で見事な演奏を繰り広げています。オーケストラの音色自体は、やや暗めでくたびれた感じなのですが、青春を謳歌するような伸びやかなシトコヴェツキーのヴァイオリンが、絶妙なバランスで音楽のジメジメさを回避しています。また、シトコヴェツキーの明朗な独奏は、時として表現の彫りの深さに不足するきらいがありますが、オーケストラのほの暗い音色が見事に艶消しの役割を果たしています。
ハチャトゥリアンの作品は、ニヤジ(Niyazi, 1912-1984)の指揮によるルーマニア放送管弦楽団(おそらくはルーマニア放送交響楽団)の伴奏です。
ニヤジは、グルジアのトビリシで生まれた指揮者で、本名をニヤジ・ズルフィカル・オグル・タギザデー=ハジベヨフ(Niyazi Zülfüqar oğlu Tağızadə-Hacıbəyov)といいます。オグルというのは、「~の息子」という意味であり、その名前からズルフィカルという人の息子ということが分かります。実際、ニヤジの父は、ズルフィカル・アブデュルヒュセイン=オグル・ハジベヨフといい、アゼルバイジャンを代表する作曲家でした。なお、アゼルバイジャン共和国の国歌を作ったウゼイル・アブデュルヒュセイン=オグル・ハジベヨフはズルフィカルの弟にあたります。ニヤジは、特にウゼイルから音楽の手ほどきを受け、グネーシン音楽学校経由でレニングラード音楽院に留学し、1938年から亡くなるまでアゼルバイジャン交響楽団の首席指揮者を務めました。
ハジベヨフ家は代々音楽家の家系で、父や叔父がアゼルバイジャンに西洋音楽を普及させた大立者だったことから、ニヤジは家系上の比較を嫌い、単に「ニヤジ」という表記を芸名にして活動しました。
西欧諸国のオーケストラにもたびたび客演し、ソ連から国家賞や人民芸術家などの称号を与えられたことから、地元アゼルバイジャンではマエストロ・ニヤジとして広く尊敬されているそうです。
ニヤジにとって、アルメニア人作曲家のハチャトゥリアンの作風には共感するところが多かったのか、とてもモチベーションの高い演奏に仕上がっています。ルーマニアのオーケストラをこれでもかと言わんばかりに煽っております。この曲が本来的に持つ野生的な迫力を完全に解き放ったような演奏で、シトコヴェツキーのヴァイオリンも勢いのある演奏を繰り広げています。
出色の出来栄えは第2楽章で、ニヤジがオーケストラからアラビアン・ナイトを思わせるような妖しさを引き出し、シトコヴェツキーのヴァイオリンも感情の振り幅の大きな演奏で互角に渡り合います。
どちらも20世紀に作られた協奏曲だが、グラズノフの作品はハチャトゥリアンが生まれて1年経った時期の作品であり、ハチャトゥリアンの作品はグラズノフの没後4年経って発表された作品です。
グラズノフのヴァイオリン協奏曲は、ロシアの当時の音楽界の重鎮であるレオポルト・アウアーのために書かれた作品。
この曲を書き上げた翌年に、グラズノフはペテルブルグ音楽院の院長に就任しているので、ヴァイオリン科の主任教授だったアウアーへの、ある種の贈り物だったのかもしれません。
物憂げなロマンティシズムを前面に出した前半部分と酒宴の余興のような後半部分とをヴァイオリンのカデンツァでつなぎ合わせるという荒っぽい構成ながら、そこにちりばめられたメロディの美しさと超絶技巧のバランスの良さで、なかなか演奏効果の高い作品に仕上がっています。
ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲は、旧ソ連を代表する名手のダヴィット・オイストラフに献呈された作品。
後年、ジャン=ピエール・ランパルがフルート協奏曲としてこの曲を演奏してから、フルート協奏曲としても知られるようになりました。
アルメニア人だったハチャトゥリアンは、アルメニアの首都のエレヴァンでバレエ音楽《幸福》(のちに改変されて《ガヤネー》となる)を作るために民謡の取材をしていましたが、この取材で得た素材を使って、この協奏曲が出来上がりました。
バレエ音楽を作曲中だったこともあって、その音楽には漲るような躍動感が充溢しています。
なお、ヴァイオリンのパートは、ハチャトゥリアンがヴァイオリンの技巧に不案内だったため、オイストラフが技術上の助言を行っていました。カデンツァも、作曲者のほうで用意しましたが、オイストラフが自分でカデンツァを書き上げ、このCDの録音でも、オイストラフのカデンツァが用いられています。
本CDでは、ユリアン・シトコヴェツキー(Yulian Sitkovetsky, 1925-1958)がヴァイオリンの独奏を担当しています。ロシア語のローマ字転写の仕方の違いなのか、このCDではジュリアン(Julian)と表記されています。
シトコヴェツキーは、ドミトリー・シトコヴェツキーの父親であり、第4回ショパン国際ピアノ・コンクールの覇者であるベラ・ダヴィドヴィチの夫として知られています。
1933年にはロシアに訪問中だったジャック・ティボーに認められ、アブラム・ヤンポリスキーの門下として研鑽を積み、1945年の全ソ連青少年音楽コンクールで優勝したことで、ヴァイオリニストとしての将来を嘱望されるようになりました。さらに1947年には、プラハで開催された青少年のためのコンクールでレオニード・コーガンと一位を分け合っています。1952年のヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールと1955年のエリザベート王妃国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で、それぞれ第二位を獲得しましたが、1956年には肺癌を発病し、33歳にならぬうちにこの世を去っています。
グラズノフのヴァイオリン協奏曲は、シトコヴェツキー27歳頃の記録。キリル・コンドラシン(Kirill Kondrashin, 1914-1981)の指揮するモスクワ青少年管弦楽団が伴奏しています。コンドラシンは、ボリス・ハイキン門下のロシア人指揮者で、1960年から15年間にわたってモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めていました。本録音時のコンドラシンは、ボリショイ劇場の指揮者として活動する傍ら、青少年のためのオーケストラも指導していたようです。
シトコヴェツキーの独奏は、オーケストラの親和性も高く、特に前半部分では、相補的な関係で見事な演奏を繰り広げています。オーケストラの音色自体は、やや暗めでくたびれた感じなのですが、青春を謳歌するような伸びやかなシトコヴェツキーのヴァイオリンが、絶妙なバランスで音楽のジメジメさを回避しています。また、シトコヴェツキーの明朗な独奏は、時として表現の彫りの深さに不足するきらいがありますが、オーケストラのほの暗い音色が見事に艶消しの役割を果たしています。
ハチャトゥリアンの作品は、ニヤジ(Niyazi, 1912-1984)の指揮によるルーマニア放送管弦楽団(おそらくはルーマニア放送交響楽団)の伴奏です。
ニヤジは、グルジアのトビリシで生まれた指揮者で、本名をニヤジ・ズルフィカル・オグル・タギザデー=ハジベヨフ(Niyazi Zülfüqar oğlu Tağızadə-Hacıbəyov)といいます。オグルというのは、「~の息子」という意味であり、その名前からズルフィカルという人の息子ということが分かります。実際、ニヤジの父は、ズルフィカル・アブデュルヒュセイン=オグル・ハジベヨフといい、アゼルバイジャンを代表する作曲家でした。なお、アゼルバイジャン共和国の国歌を作ったウゼイル・アブデュルヒュセイン=オグル・ハジベヨフはズルフィカルの弟にあたります。ニヤジは、特にウゼイルから音楽の手ほどきを受け、グネーシン音楽学校経由でレニングラード音楽院に留学し、1938年から亡くなるまでアゼルバイジャン交響楽団の首席指揮者を務めました。
ハジベヨフ家は代々音楽家の家系で、父や叔父がアゼルバイジャンに西洋音楽を普及させた大立者だったことから、ニヤジは家系上の比較を嫌い、単に「ニヤジ」という表記を芸名にして活動しました。
西欧諸国のオーケストラにもたびたび客演し、ソ連から国家賞や人民芸術家などの称号を与えられたことから、地元アゼルバイジャンではマエストロ・ニヤジとして広く尊敬されているそうです。
ニヤジにとって、アルメニア人作曲家のハチャトゥリアンの作風には共感するところが多かったのか、とてもモチベーションの高い演奏に仕上がっています。ルーマニアのオーケストラをこれでもかと言わんばかりに煽っております。この曲が本来的に持つ野生的な迫力を完全に解き放ったような演奏で、シトコヴェツキーのヴァイオリンも勢いのある演奏を繰り広げています。
出色の出来栄えは第2楽章で、ニヤジがオーケストラからアラビアン・ナイトを思わせるような妖しさを引き出し、シトコヴェツキーのヴァイオリンも感情の振り幅の大きな演奏で互角に渡り合います。
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