1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.3 in G major, K216
Váša Příhoda (Vn)
Lugano Radio Sinfonie Orchester / Otmar Nussio
(Rec. 5 June 1953, Radio Svizzera Itariana)
◈Antonín Dvořák: Violin Concerto in A minor, op.53Váša Příhoda (Vn)
Lugano Radio Sinfonie Orchester / Leopoldo Casella
(Rec. 5 June 1953, Radio Svizzera Itariana)
◈Niccolò Paganini: Introduction and Variations on 'Nel cor più non mi sento' from Paisiello's "La molinara", op.38Váša Příhoda (Vn)
Otto Alfons Graef (Pf)
Otto Alfons Graef (Pf)
(Rec. 17 March 1938)
◈Pablo de Sarasate: ZigeunerweisenVáša Příhoda (Vn)
Otto Alfons Graef (Pf)
Otto Alfons Graef (Pf)
(Rec. 1935)
本CDは、チェコ人ヴァイオリニストのヴァーシャ・プルジーホダ(Váša Příhoda, 1900-1960)の至芸を集めたものの一つです。
プルジーホダは、ヤン・マルジャークという、オタカール・シェフチーク門下のヴァイオリン教師に師事した人。世界的名声を獲得すべくヨーロッパを演奏して回りましたが、芳しい評判を得られず、19歳の時にはミラノのカフェのオーケストラ団員の地位に甘んじていました。
しかし、たまたまカフェでミニ・コンサートを開いていた時、その場にいたイタリアの名指揮者であるアルトゥーロ・トスカニーニが「かのパガニーニですら、この青年のようには弾けなかったはずだ」と激賞したことで、一躍時の人になりました。頓挫した演奏旅行は再開され、海を越えてアメリカにまで進出し、20代で世界的名声を確立してしまいました。
プルジーホダは、1930年にアルノルト・ロゼーの娘で同業者のアルマ・ロゼーと結婚し、この頃が彼の人気の絶頂期を迎えました。しかし、1935年に彼女と離婚してから、その人気に陰りが見え始めます。1936年からザルツブルグのモーツァルテウム音楽院のヴァイオリン科の教授を務め、第二次世界大戦中にドイツを拠点に演奏活動を継続したことでナチス・ドイツへの協力関係が疑われ、一時期プルジーホダと母国との関係が悪化しました。さらに元妻のアルマが戦時中にユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなったことが分かると、メディアがこぞってプルジーホダについて「ナチスに魂を売り渡して離婚した」と書き立てました。(しかし、再婚相手もユダヤ人だったこともあって、今日ではプルジーホダに対するこの手の誹謗中傷は立ち消えになっています。)
プルジーホダの人気凋落の原因は、自らのイメージの転換が中途半端に聴衆に受け止められた点も指摘できるでしょう。かつて、19世紀の技巧的な作品の演奏で高評を集めていたプルジーホダですが、教職に興味を持ち出した辺りから18世紀以前のドイツ=オーストリア系の作品を熱心に取り上げるようになり、次第に聴衆のプルジーホダへのニーズと噛み合わなくなっていきました。
戦後は、ミュンヘン音楽大学に教えに行ったり、モーツァルテウムの臨時講師を務めたりしていましたが、1950年から亡くなるまでウィーン音楽演劇アカデミー(現:ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとっていました。
戦後のプルジーホダは心労で心臓病を患い、ヨアヒム・ハルトナックなどはソリストとしての凋落を示唆していますが、果たして戦後の彼がヴァイオリニストとして実力的に落ち目にあったかどうか、このCDで確認することができます。
演目は、1950年代に録音されたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲第3番と、(Antonín Dvořák, 1841-1904)のヴァイオリン協奏曲をメイン・ディッシュにし、1930年代に録音されたニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782-1840)の〈わが心は虚ろになりて〉による序奏と変奏曲と、パブロ・デ・サラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)のツィゴイネルワイゼンをデザートにしています。
メイン・ディッシュの協奏曲2曲は、どちらもルガノのスイス・イタリア語放送管弦楽団(Orchestra della Radiotelevisione della Svizzera Italiana)が伴奏を担当しています。このオーケストラは、ルガノのスイス・イタリア語放送局のオーケストラとして、レオポルド・カゼッラ(Leopoldo Casella, 1908-1972)によって1933年に設立されました。日本では、「ルガノ放送管弦楽団」と呼ばれていましたが、1991年からスイス・イタリアーナ管弦楽団と名称を変更して活動しています。
本CDのモーツァルトの協奏曲で指揮しているオトマール・ヌッシオ(Otmar Nussio, 1902-1990)は、カゼッラの後を受けて首席指揮者に就任したイタリアの音楽家です。ミラノのヴェルディ音楽院出身のヌッシオは、元々フルーティストで、作曲活動も行う人でした。指揮者としての活動は、このルガノのオーケストラを中心にしており、1968年までの在任中に、名だたるアーティストたちと共演し、録音も残しています。
ドヴォルジャークの協奏曲は、前述のカゼッラが指揮を担当しています。カゼッラはパルマ音楽院の出身ですが、アッティリオ・ブルニョーリのクラスでピアノを専攻した後、フランクフルトのホーホ音楽院に留学し、ベルンハルト・ゼクレスに作曲を、フリッツ・バッセルマンに指揮法を、エルンスト・エンゲッサーにピアノを師事して1920年に学位を習得して卒業しています。その後もパリでロベール・カサドシュからピアノの薫陶を受け、1928年にスイスのベルン放送局に就職して音楽活動を展開していました。1933年には、ルガノに放送局ができたということでカゼッラがスイス在住の演奏家たちに声をかけて、本CDで演奏しているオーケストラを組織しました。1938年にヌッシオに首席指揮者の座を渡した後も、客演を繰り返し、作曲活動にも積極的に取り組んでいたとのことです。
モーツァルトの協奏曲は、戦後のプルジーホダが熱心に取り上げていた作品の一つ。戦中からザルツブルグのモーツァルテウム音楽院で教鞭をとっていたこともあり、モーツァルトの作品の演奏で名演奏を録音しておきたいという野心があったものと思われます。ヌッシオとの共演は、ヌッシオの元気一杯の伴奏に生気を注入され、生き生きとした独奏を展開しています。これは、晩年のプルジホダが凋落していたという判断の反証たりえる録音と言えるでしょう。カデンツァは、プルジーホダの自作を披露しており、モーツァルトの楽想を用いながらも、随分手の込んだ技巧的なものを弾いています。様式的には異様ですが、彼がパガニーニの再来と謳われた技巧家だったことを思い出させます。
ドヴォルジャークの協奏曲は、カゼッラの指揮がヌッシオの伴奏以上のボルテージを示す、気合たっぷりの伴奏。後にヘルマン・シェルヘンの指揮でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲全集を作り上げた時の灼熱のサウンドを彷彿とさせます。プルジーホダは、ドヴォルジャークの作品の演奏に一家言を持っていた人でしたが、カゼッラの猛烈な伴奏に、まるでチャンピオンに挑むチャレンジャーの如く、力いっぱいの独奏で応えています。第3楽章のつややかで強靭な音色は、かつてのトスカニーニの言葉を思い出させます。また、シンプルなメロディを濃厚に歌い上げる第2楽章の演奏も、プルジーホダの芸風の聴きどころと言えます。全体的に、オーケストラが粗暴の一歩手前ですが、数あるプルジーホダの録音の中でも、この録音が一番生きが良いと思います。
オットー・アルフォンス・グレーフ(Otto Alfons Graef, 1901-1975)を伴奏者に据えたパガニーニとサラサーテの作品は、超絶技巧家としてのプルジーホダの芸を味わわせてくれます。グレーフはヨーゼフ・ペンバウアーにピアノを、リヒャルト・シュトラウスに作曲を学んだ人で、主に弦楽器の伴奏に長けた名手でした。プルジーホダのほかに、ゲルハルト・タシュナーやジークフリート・ボリス等とも共演しています。プルジーホダは、グレーフに多大な信頼を置いていたらしく、彼を伴奏にしてかなりの数の小曲を録音していました。ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740-1816)の《水車小屋の娘》のアリア〈わが心は虚ろになりて〉をテーマとするパガニーニの変奏曲は、元々無伴奏の作品ですが、グレーフが簡素ながら巧みな伴奏をつけて、自由奔放なプルジーホダの独奏を制御しています。サラサーテのツィゴイネルワイゼンは、録音の保存状態があまり良くなく、音が途切れる個所もあります。しかし、それでもプルジーホダの音色の妖艶さは味わうことが出来ます。
プルジーホダは、ヤン・マルジャークという、オタカール・シェフチーク門下のヴァイオリン教師に師事した人。世界的名声を獲得すべくヨーロッパを演奏して回りましたが、芳しい評判を得られず、19歳の時にはミラノのカフェのオーケストラ団員の地位に甘んじていました。
しかし、たまたまカフェでミニ・コンサートを開いていた時、その場にいたイタリアの名指揮者であるアルトゥーロ・トスカニーニが「かのパガニーニですら、この青年のようには弾けなかったはずだ」と激賞したことで、一躍時の人になりました。頓挫した演奏旅行は再開され、海を越えてアメリカにまで進出し、20代で世界的名声を確立してしまいました。
プルジーホダは、1930年にアルノルト・ロゼーの娘で同業者のアルマ・ロゼーと結婚し、この頃が彼の人気の絶頂期を迎えました。しかし、1935年に彼女と離婚してから、その人気に陰りが見え始めます。1936年からザルツブルグのモーツァルテウム音楽院のヴァイオリン科の教授を務め、第二次世界大戦中にドイツを拠点に演奏活動を継続したことでナチス・ドイツへの協力関係が疑われ、一時期プルジーホダと母国との関係が悪化しました。さらに元妻のアルマが戦時中にユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなったことが分かると、メディアがこぞってプルジーホダについて「ナチスに魂を売り渡して離婚した」と書き立てました。(しかし、再婚相手もユダヤ人だったこともあって、今日ではプルジーホダに対するこの手の誹謗中傷は立ち消えになっています。)
プルジーホダの人気凋落の原因は、自らのイメージの転換が中途半端に聴衆に受け止められた点も指摘できるでしょう。かつて、19世紀の技巧的な作品の演奏で高評を集めていたプルジーホダですが、教職に興味を持ち出した辺りから18世紀以前のドイツ=オーストリア系の作品を熱心に取り上げるようになり、次第に聴衆のプルジーホダへのニーズと噛み合わなくなっていきました。
戦後は、ミュンヘン音楽大学に教えに行ったり、モーツァルテウムの臨時講師を務めたりしていましたが、1950年から亡くなるまでウィーン音楽演劇アカデミー(現:ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとっていました。
戦後のプルジーホダは心労で心臓病を患い、ヨアヒム・ハルトナックなどはソリストとしての凋落を示唆していますが、果たして戦後の彼がヴァイオリニストとして実力的に落ち目にあったかどうか、このCDで確認することができます。
演目は、1950年代に録音されたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲第3番と、(Antonín Dvořák, 1841-1904)のヴァイオリン協奏曲をメイン・ディッシュにし、1930年代に録音されたニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782-1840)の〈わが心は虚ろになりて〉による序奏と変奏曲と、パブロ・デ・サラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)のツィゴイネルワイゼンをデザートにしています。
メイン・ディッシュの協奏曲2曲は、どちらもルガノのスイス・イタリア語放送管弦楽団(Orchestra della Radiotelevisione della Svizzera Italiana)が伴奏を担当しています。このオーケストラは、ルガノのスイス・イタリア語放送局のオーケストラとして、レオポルド・カゼッラ(Leopoldo Casella, 1908-1972)によって1933年に設立されました。日本では、「ルガノ放送管弦楽団」と呼ばれていましたが、1991年からスイス・イタリアーナ管弦楽団と名称を変更して活動しています。
本CDのモーツァルトの協奏曲で指揮しているオトマール・ヌッシオ(Otmar Nussio, 1902-1990)は、カゼッラの後を受けて首席指揮者に就任したイタリアの音楽家です。ミラノのヴェルディ音楽院出身のヌッシオは、元々フルーティストで、作曲活動も行う人でした。指揮者としての活動は、このルガノのオーケストラを中心にしており、1968年までの在任中に、名だたるアーティストたちと共演し、録音も残しています。
ドヴォルジャークの協奏曲は、前述のカゼッラが指揮を担当しています。カゼッラはパルマ音楽院の出身ですが、アッティリオ・ブルニョーリのクラスでピアノを専攻した後、フランクフルトのホーホ音楽院に留学し、ベルンハルト・ゼクレスに作曲を、フリッツ・バッセルマンに指揮法を、エルンスト・エンゲッサーにピアノを師事して1920年に学位を習得して卒業しています。その後もパリでロベール・カサドシュからピアノの薫陶を受け、1928年にスイスのベルン放送局に就職して音楽活動を展開していました。1933年には、ルガノに放送局ができたということでカゼッラがスイス在住の演奏家たちに声をかけて、本CDで演奏しているオーケストラを組織しました。1938年にヌッシオに首席指揮者の座を渡した後も、客演を繰り返し、作曲活動にも積極的に取り組んでいたとのことです。
モーツァルトの協奏曲は、戦後のプルジーホダが熱心に取り上げていた作品の一つ。戦中からザルツブルグのモーツァルテウム音楽院で教鞭をとっていたこともあり、モーツァルトの作品の演奏で名演奏を録音しておきたいという野心があったものと思われます。ヌッシオとの共演は、ヌッシオの元気一杯の伴奏に生気を注入され、生き生きとした独奏を展開しています。これは、晩年のプルジホダが凋落していたという判断の反証たりえる録音と言えるでしょう。カデンツァは、プルジーホダの自作を披露しており、モーツァルトの楽想を用いながらも、随分手の込んだ技巧的なものを弾いています。様式的には異様ですが、彼がパガニーニの再来と謳われた技巧家だったことを思い出させます。
ドヴォルジャークの協奏曲は、カゼッラの指揮がヌッシオの伴奏以上のボルテージを示す、気合たっぷりの伴奏。後にヘルマン・シェルヘンの指揮でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲全集を作り上げた時の灼熱のサウンドを彷彿とさせます。プルジーホダは、ドヴォルジャークの作品の演奏に一家言を持っていた人でしたが、カゼッラの猛烈な伴奏に、まるでチャンピオンに挑むチャレンジャーの如く、力いっぱいの独奏で応えています。第3楽章のつややかで強靭な音色は、かつてのトスカニーニの言葉を思い出させます。また、シンプルなメロディを濃厚に歌い上げる第2楽章の演奏も、プルジーホダの芸風の聴きどころと言えます。全体的に、オーケストラが粗暴の一歩手前ですが、数あるプルジーホダの録音の中でも、この録音が一番生きが良いと思います。
オットー・アルフォンス・グレーフ(Otto Alfons Graef, 1901-1975)を伴奏者に据えたパガニーニとサラサーテの作品は、超絶技巧家としてのプルジーホダの芸を味わわせてくれます。グレーフはヨーゼフ・ペンバウアーにピアノを、リヒャルト・シュトラウスに作曲を学んだ人で、主に弦楽器の伴奏に長けた名手でした。プルジーホダのほかに、ゲルハルト・タシュナーやジークフリート・ボリス等とも共演しています。プルジーホダは、グレーフに多大な信頼を置いていたらしく、彼を伴奏にしてかなりの数の小曲を録音していました。ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740-1816)の《水車小屋の娘》のアリア〈わが心は虚ろになりて〉をテーマとするパガニーニの変奏曲は、元々無伴奏の作品ですが、グレーフが簡素ながら巧みな伴奏をつけて、自由奔放なプルジーホダの独奏を制御しています。サラサーテのツィゴイネルワイゼンは、録音の保存状態があまり良くなく、音が途切れる個所もあります。しかし、それでもプルジーホダの音色の妖艶さは味わうことが出来ます。
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