1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
CD1:
◈Sergei Prokofiev: Symphony No.2 in D minor, op.40
◈Sergei Prokofiev: Symphony No.3 in C minor, op.44
National Orchestra of the O.R.T.F. / Jean Martinon
(Rec. 1971)
CD2:
◈Sergei Prokofiev: "Chout" Suite, op.21
◈Sergei Prokofiev: Symphony No.6 in E flat minor, op.111
National Orchestra of the O.R.T.F. / Jean Martinon
(Rec. 1971)
ジャン・マルティノン(Jean Martinon, 1910-1976)の指揮するフランス国立放送管弦楽団(Orchestre national de l'ORTF)によるセルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev, 1891-1953)の交響曲集の第2集です。
第1集は、第1番《古典》(1917年作)、第4番(1930年作)、第5番(1944年)、第7番(1952年)の交響曲4作を収録していました。
この第2集は、第2番(1925年作)、第3番(1928年作)、第6番(1946-1947年作)の交響曲3作に、《道化師》組曲(1922年作)が加えられています。
《道化師》組曲は、セルゲイ・ディアギレフの率いるバレエ・リュスのために書いたバレエ音楽を、コンサートでも取り上げられるように編纂した作品です。バレエ自体は、1915年頃から構想が練られていましたが、ロシア革命のため、ディアギレフと思うように連絡が取れず、1920年にアメリカ経由でパリにやってきた時に、ディアギレフの指示でバレエ音楽として完成させています。その年の5月17日に、バレエ・リュスの公演としてゲデ・リリック劇場で上演されたものの、さほど評判にならず、コンサートでも取り上げてもらえるようにしたのが、この組曲になります。この組曲は、1924年の1月15日にブリュッセルでフランス・リュールマンの指揮で演奏され、そこそこ好評を博したようです。
ロシア革命で国外に脱出したプロコフィエフは、アメリカを経由してフランスのパリに流れ着きましたが、そこでは、アルテュール・オネゲルやフランシス・プーランクらを含むフランス六人組が活躍していました。
この交響曲第2番は、そんなフランス六人組への挨拶代わりとして発表した作品です。
交響曲と言いながらも、伝統的な4楽章構成を取らず、ソナタ形式の第1楽章と、変奏曲形式の第2楽章のみから成る作品として書き上げ、完成した年の6月6日にはセルゲイ・クーセヴィツキーの手で初演されました。しかし、初演は成功とは言い難く、プーランクくらいしか、この作品を評価しなかったそうです。
作品は、鉄と鋼でできた交響曲というコンセプトで、不協和音をふんだんに使った、無調音楽に近い音楽になっています。
第3番の交響曲は、歌劇《炎の天使》から派生した交響曲です。パリで《炎の天使》の完全上演を画策していたプロコフィエフですが、その完全上演が無理だと分かると、オーケストラでもコンサートで演奏できる組曲の制作に取り掛かるようになりました。しかし、そこでかき集めた素材で交響曲を作ることを思い立ち、4楽章構成の交響曲にしました。こうしてできたこの作品は、1929年の5月7日にサル・プレイエルで、ピエール・モントゥーの手で初演されました。
第6番の交響曲は、交響曲第5番の完成後に手掛けられた作品です。第5番の交響曲は、第二次世界大戦の終結間際に、作曲家として、ドイツに攻め込む国家に奉仕する意味で書かれましたが、この作品は、第二次世界大戦の犠牲を内面的に抉った作品になっています。スケルツォ的な楽章を除いた3楽章構成になっている点からも、プロコフィエフがこの曲に込めたシリアスさを物語っています。戦勝ムードに酔っていたソ連当局からは、この曲は問題視され、1947年10月11日にエフゲニー・ムラヴィンスキーの手でレニングラードで初演された後、しばらくソ連国内での演奏を事実上禁止されてしまう羽目になりました。
閑話休題、本CDで指揮をするマルティノンは、作曲家としての実績もあり、無調に近い音楽を得意にしていた点からしても、プロコフィエフの一連の作品には格別の興味を持っていたようです。
交響曲第2番では、しどろもどろになるオーケストラを引きずりまわし、所々で乱れるアンサンブルを一心不乱さの演出に変えてしまう力技を示しています。埃を巻き上げて進む戦車の歩みのような第1楽章も聴きものですが、第2楽章も、暴走寸前の金管セクションを中心にスリルと迫力があります。
第3番の交響曲の演奏は、第2番とは違った緊密なアンサンブルで、様々な表情の移ろいを的確に表現しています。特に聴きものは第3楽章で、演奏至難な弦楽セクションの奮闘ぶりは、ただ上手いだけではない気合を感じさせます。中間部の木管セクションと弦楽セクションの語らいも美しく、特にフルートには香気すら漂っています。
《道化師》組曲は、曲ごとのトラック分けがなされていないのが不便ですが、オーケストラの表現の雄弁さはそうした不便さを忘れてくれます。
第6番の交響曲については、ドミトリー・ショスタコーヴィチの一連の交響曲を思わせる不敵さを感じさせる演奏です。第1楽章の思わせぶりな意味深さや、悲しみと怒りを織り交ぜて訴えかけるような第2楽章など、作曲された時代のリアリティを考えさせるものがあります。
フランス音楽の名人としてばかりクローズアップされるマルティノンですが、これらのプロコフィエフの一連の録音を聴く限りでは、フランス音楽に限定されない、視野の広い指揮者だったのではないかと推測されます。
第1集は、第1番《古典》(1917年作)、第4番(1930年作)、第5番(1944年)、第7番(1952年)の交響曲4作を収録していました。
この第2集は、第2番(1925年作)、第3番(1928年作)、第6番(1946-1947年作)の交響曲3作に、《道化師》組曲(1922年作)が加えられています。
《道化師》組曲は、セルゲイ・ディアギレフの率いるバレエ・リュスのために書いたバレエ音楽を、コンサートでも取り上げられるように編纂した作品です。バレエ自体は、1915年頃から構想が練られていましたが、ロシア革命のため、ディアギレフと思うように連絡が取れず、1920年にアメリカ経由でパリにやってきた時に、ディアギレフの指示でバレエ音楽として完成させています。その年の5月17日に、バレエ・リュスの公演としてゲデ・リリック劇場で上演されたものの、さほど評判にならず、コンサートでも取り上げてもらえるようにしたのが、この組曲になります。この組曲は、1924年の1月15日にブリュッセルでフランス・リュールマンの指揮で演奏され、そこそこ好評を博したようです。
ロシア革命で国外に脱出したプロコフィエフは、アメリカを経由してフランスのパリに流れ着きましたが、そこでは、アルテュール・オネゲルやフランシス・プーランクらを含むフランス六人組が活躍していました。
この交響曲第2番は、そんなフランス六人組への挨拶代わりとして発表した作品です。
交響曲と言いながらも、伝統的な4楽章構成を取らず、ソナタ形式の第1楽章と、変奏曲形式の第2楽章のみから成る作品として書き上げ、完成した年の6月6日にはセルゲイ・クーセヴィツキーの手で初演されました。しかし、初演は成功とは言い難く、プーランクくらいしか、この作品を評価しなかったそうです。
作品は、鉄と鋼でできた交響曲というコンセプトで、不協和音をふんだんに使った、無調音楽に近い音楽になっています。
第3番の交響曲は、歌劇《炎の天使》から派生した交響曲です。パリで《炎の天使》の完全上演を画策していたプロコフィエフですが、その完全上演が無理だと分かると、オーケストラでもコンサートで演奏できる組曲の制作に取り掛かるようになりました。しかし、そこでかき集めた素材で交響曲を作ることを思い立ち、4楽章構成の交響曲にしました。こうしてできたこの作品は、1929年の5月7日にサル・プレイエルで、ピエール・モントゥーの手で初演されました。
第6番の交響曲は、交響曲第5番の完成後に手掛けられた作品です。第5番の交響曲は、第二次世界大戦の終結間際に、作曲家として、ドイツに攻め込む国家に奉仕する意味で書かれましたが、この作品は、第二次世界大戦の犠牲を内面的に抉った作品になっています。スケルツォ的な楽章を除いた3楽章構成になっている点からも、プロコフィエフがこの曲に込めたシリアスさを物語っています。戦勝ムードに酔っていたソ連当局からは、この曲は問題視され、1947年10月11日にエフゲニー・ムラヴィンスキーの手でレニングラードで初演された後、しばらくソ連国内での演奏を事実上禁止されてしまう羽目になりました。
閑話休題、本CDで指揮をするマルティノンは、作曲家としての実績もあり、無調に近い音楽を得意にしていた点からしても、プロコフィエフの一連の作品には格別の興味を持っていたようです。
交響曲第2番では、しどろもどろになるオーケストラを引きずりまわし、所々で乱れるアンサンブルを一心不乱さの演出に変えてしまう力技を示しています。埃を巻き上げて進む戦車の歩みのような第1楽章も聴きものですが、第2楽章も、暴走寸前の金管セクションを中心にスリルと迫力があります。
第3番の交響曲の演奏は、第2番とは違った緊密なアンサンブルで、様々な表情の移ろいを的確に表現しています。特に聴きものは第3楽章で、演奏至難な弦楽セクションの奮闘ぶりは、ただ上手いだけではない気合を感じさせます。中間部の木管セクションと弦楽セクションの語らいも美しく、特にフルートには香気すら漂っています。
《道化師》組曲は、曲ごとのトラック分けがなされていないのが不便ですが、オーケストラの表現の雄弁さはそうした不便さを忘れてくれます。
第6番の交響曲については、ドミトリー・ショスタコーヴィチの一連の交響曲を思わせる不敵さを感じさせる演奏です。第1楽章の思わせぶりな意味深さや、悲しみと怒りを織り交ぜて訴えかけるような第2楽章など、作曲された時代のリアリティを考えさせるものがあります。
フランス音楽の名人としてばかりクローズアップされるマルティノンですが、これらのプロコフィエフの一連の録音を聴く限りでは、フランス音楽に限定されない、視野の広い指揮者だったのではないかと推測されます。
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