1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Jacques Offenbach (arr. Manuel Rosenthal): Gaîté Parisienne
Boston Pops Orchestra / Arthur Fiedler
(Rec. 18 May 1954, Symphony Hall, Boston)
◈Gioacchino Rossini (arr. Ottorino Respighi): Le boutique fantasqueBoston Pops Orchestra / Arthur Fiedler
(Rec. 21 & 22 May 1956, Symphony Hall, Boston)
ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach 1819-1880)は、本名をヤコプ・レヴィ・エベルスト(Jakob Levy Eberst)といい、ケルン出身の人です。彼の父親がオッフェンバッハの出身だったということで、その出身地を芸名にしてフランスで活躍しました。元々オッフェンバックはチェロの名人で、それまで外国人の入学を許さなかったパリ音楽院が、チェロ科でのオッフェンバックの入学を認めています。ただ、チェリストとしての技量が、もはや学生としてのそれをあっさり超えていたため、音楽院をさっさと辞めて、チェロ一本でパリじゅうの劇場やサロンを渡り歩きました。チェロの余技としてサロンで披露していた作曲も次第に本格化し、1849年にコメディ・フランセーズの指揮者になった時には、自分で劇場用の音楽を書いていました。劇場を渡り歩いて劇場運営のノウハウに精通していたオッフェンバックは、1855年に独立してブーフ・パリジャン劇場を作り、自作のオペレッタ(喜歌劇)を矢継ぎ早に発表して一世を風靡するようになりました。この時に《天国と地獄》や《美しきエレーヌ》といった数々の名作が生まれています。
オッフェンバック旋風はドイツやオーストリアでも巻き起こり、オッフェンバックに負けじと独自のオペレッタ文化を作り上げるほどの影響力を持っていましたが、晩年のオッフェンバックはオペラ作家への転身を企図ていました。《ホフマン物語》は、そんなホフマン渾身のオペラでしたが、完成を目前にして急逝してしまいました。
オッフェンバックのオペレッタは、文化人の間では露骨な社会風刺が敬遠されていましたが、今日では、そうしたものも含めて再評価の機運が高まっています。
本CDに収録されている《パリの喜び》は、オッフェンバックの作ったオリジナルの音楽ではなく、彼のオペレッタの中から特に人気の高かった音楽を編み上げたバレエ音楽です。このバレエ音楽は1938年4月5日のモンテ・カルロ劇場での公演で初演されて好評を博しましたが、この公演でバレエを踊ったのが、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団(バレエ・リュス・ド・モンテ・カルロ)です。このモンテ・カルロ・ロシア・バレエ団は、セルゲイ・ディアギレフが1929年に亡くなって解散したロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の後継として、1932年にルネ・ブルムらの手で結成されたバレエ団でした。ジョージ・バランシンやレオニード・マシーンといったロシア・バレエ団の主だった人たちを振付師に起用して大成功を収めたバレエ団でしたが、発起人の一人だったヴァシリー・ド・バジルが1936年にブルムと手を切って独自にロシア・バレエ団の後継団体を旗揚げしてしまいました。この際に、バジルがブルム達の演じていた演目の著作権の相当数を持って行ってしまったため、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団は窮地に立たされることになりました。こうした窮地の打開策として提案されたのが、オッフェンバックのオペレッタ等のヒット曲を元にしたバレエ音楽の制作でした。その際の編曲を、ロジェ・デゾルミエールに依頼することになりましたが、デゾルミエールが多忙だったため、デゾルミエールの伝手でマニュエル・ロザンタール(Manuel Rosenthal, 1904-2003)に任されることになりました。ロザンタールはモーリス・ラヴェルの弟子として売り出し中の作曲家で、オッフェンバックの曲の合間に、自分の筆書きも混ぜています。この編曲が成功したため、ロザンタールは作曲家としてより、この作品の編曲者として知られるようになってしまいました。
フランスに帰化したオッフェンバックをして「シャンゼリゼのモーツァルト」といったのは、イタリアの作曲家であるジョアキーノ・ロッシーニ(Gioacchino Rossini, 1792-1868)です。ロッシーニは、1829年に制作した《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》でオペラ業界から足を洗い、グルメ研究家になりましたが、手記よろしくピアノ曲や歌曲などを手遊びとして書き残しています。こうしたグルメ研究家時代のロッシーニの作品に目をつけたのが、ロシア・バレエ団のセルゲイ・ディアギレフでした。ディアギレフは、イタリア随一のオーケストレーションの名人と言われたオットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879-1936)にロッシーニの作品を使ったバレエ曲を依頼し、レスピーギは、ロッシーニが後半生に書き残した作品集からいくつかピック・アップしてオーケストレーションを施しました。この話の筋は、大まかに以下の通りです。
からくり人形店の店主が、顧客に音楽に合わせて踊るカップルのからくり人形を見せている。それを見たお客は、それらの人形を買いたいといい、商談をまとめるためにいったん店主と店の外に出る。その間に人形は勝手に動き出してどんちゃん騒ぎをし、商談もめちゃめちゃにしようとしたのだった。程なくして帰ってきた店主と顧客は、店が散らかっているのに驚き、顧客は店主を問い詰める。顧客に詰問されていじめられる店主を見た人形は、店主を救出すべく動き出し、顧客は逃げ出してしまう。顧客が店の窓越しに見たものは、店主が人形たちとダンスを踊る姿だった。
この作品は、ロンドンのアルハンブラ劇場で、マシーンの振り付けで1919年の6月5日に初演され、ロシア・バレエ団の人気演目の一つになりました。ディアギレフが死んだ後も、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団がマシーンの振り付けで上演していましたが、前出のバジルが独立時に上演権を差し押さえてしまったため、マシーンが上演に関与できなくなってしまったという経緯があります。
本CDは、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団にまつわる上記2曲を、アーサー・フィードラー(Arthur Fiedler, 1894-1979)の指揮するボストン・ポップス管弦楽団の演奏で収録しています。
ボストン・ポップスというのは、ボストン交響楽団を母体とし、その母体のオフ・シーズンに行う、フリー・ジャンルのコンサートのことです。そのコンサートを主催するオーケストラをボストン・ポップス管弦楽団と呼びますが、企画名のボストン・ポップスをそのままオーケストラ名にすることもあります。ボストン・ポップスは、アーサー・フィードラーが録音や放送メディアに積極的に進出したことでアメリカ内外に広い知名度を持つようになりましたが、その歴史は1885年にボストン交響楽団が企画した7月11日のプロムナード・コンサートにまで遡ります。この企画を提唱したのは、ボストン交響楽団の生みの親である実業家のヘンリー・リー・ヒギンソン。ヒギンソンが、もっと気軽なコンサートも企画してはどうかと呼びかけ、ドイツ出身のマルチ・タレントな興行師のアドルフ・ノイエンドルフを呼んで、コンサートを仕切らせたのでした。このプロムナード・コンサートの成功が呼び水となって、ボストン・ポップスはボストンの名物となり、ひいてはアメリカの風物詩の一つになりました。
指揮をするフィードラーは、ドイツからの移民でボストン交響楽団のヴァイオリニストだった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、15歳の時にベルリンに留学してヴィリー・ヘスの薫陶を受けた人です。1914年にボストン交響楽団に就職したフィードラーは、カール・ムックの指揮下で様々な楽器を演奏し、1924年には団員らとボストン・シンフォニエッタを結成するまでになりました。このころのボストン・ポップス管弦楽団は、イタリア人作曲家のアルフレード・カゼッラを音楽監督に据えて活動していました。しかし、カゼッラが退任するに及んで、ボストンで野外音楽祭を企画したり、団員達とアンサンブルを組んだりしていたフィードラーが後任に選ばれ、以後、ボストン・ポップスが大躍進を遂げることになります。フィードラーは、まずNBCなどのラジオ放送局に自分たちをを売り込み、放送メディアに自分たちの音楽を乗せ、さらにレコード・レーベルのRCAとレコーディング契約を結んで販路を広げるようになりました。アメリカ中にボストン・ポップスは知れ渡り、ボストン・ポップスを聴けばアメリカで大人気の音楽シーンが分かるといわれるほどの名物になりました。
余談ですが、今日ボストン・ポップスは、本家のボストン・ポップス管弦楽団と、海外遠征組のボストン・ポップス・エスプラネード管弦楽団に分かれます。レコーディングやアメリカ国内での演奏を主に引き受けているのは本家のほうで、海外遠征組のほうは、フリーの音楽家たちが集まって公演を行っています。どちらも「ボストン・ポップス」ですが、本家が本業で忙しい時には、海外遠征組が演奏旅行に出かけるようです。どちらも「ボストン・ポップス」の看板を背負っているので、どちらが劣るということはありません。
このオッフェンバックとロッシーニの音楽を編曲して作られたバレエ音楽は、フィードラーとボストン・ポップス管弦楽団の名録音として知られているもので、オッフェンバックの作品は1954年の録音であるにもかかわらず、生々しいくらいに明快な音で録られています。そのため、このレコードをバレエの練習用に購入しようとする人もいますが、フィードラーは、これらの曲をあくまで楽しい音楽として捉えていて、これをBGMにバレエを踊ろうとすると、音楽が全体的に人間の動作の機敏さを越えているので踊れません。《パリの喜び》のポルカなど、後半はオーケストラの瞬発力自慢の奏楽になっています。
いわゆるボストン・ポップス管弦楽団の商業用冊子のレコード版みたいな音楽で、ピチカートやスタッカートの揃いまでバシッと揃った、技術的には文句のつけようのない音楽です。特にロッシーニのバレエでは、レスピーギの重厚なオーケストレーションに従ってガッチリ鳴らしているので、筋肉質な音楽に仕上がっています。ただ、ひたすら煌びやかに徹した演奏は、オッフェンバックでは裏目に出ていて、ただの馬鹿騒ぎで終わってしまい、本当に必要なフレーバーが飛んでしまっている気がします。
オッフェンバック旋風はドイツやオーストリアでも巻き起こり、オッフェンバックに負けじと独自のオペレッタ文化を作り上げるほどの影響力を持っていましたが、晩年のオッフェンバックはオペラ作家への転身を企図ていました。《ホフマン物語》は、そんなホフマン渾身のオペラでしたが、完成を目前にして急逝してしまいました。
オッフェンバックのオペレッタは、文化人の間では露骨な社会風刺が敬遠されていましたが、今日では、そうしたものも含めて再評価の機運が高まっています。
本CDに収録されている《パリの喜び》は、オッフェンバックの作ったオリジナルの音楽ではなく、彼のオペレッタの中から特に人気の高かった音楽を編み上げたバレエ音楽です。このバレエ音楽は1938年4月5日のモンテ・カルロ劇場での公演で初演されて好評を博しましたが、この公演でバレエを踊ったのが、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団(バレエ・リュス・ド・モンテ・カルロ)です。このモンテ・カルロ・ロシア・バレエ団は、セルゲイ・ディアギレフが1929年に亡くなって解散したロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の後継として、1932年にルネ・ブルムらの手で結成されたバレエ団でした。ジョージ・バランシンやレオニード・マシーンといったロシア・バレエ団の主だった人たちを振付師に起用して大成功を収めたバレエ団でしたが、発起人の一人だったヴァシリー・ド・バジルが1936年にブルムと手を切って独自にロシア・バレエ団の後継団体を旗揚げしてしまいました。この際に、バジルがブルム達の演じていた演目の著作権の相当数を持って行ってしまったため、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団は窮地に立たされることになりました。こうした窮地の打開策として提案されたのが、オッフェンバックのオペレッタ等のヒット曲を元にしたバレエ音楽の制作でした。その際の編曲を、ロジェ・デゾルミエールに依頼することになりましたが、デゾルミエールが多忙だったため、デゾルミエールの伝手でマニュエル・ロザンタール(Manuel Rosenthal, 1904-2003)に任されることになりました。ロザンタールはモーリス・ラヴェルの弟子として売り出し中の作曲家で、オッフェンバックの曲の合間に、自分の筆書きも混ぜています。この編曲が成功したため、ロザンタールは作曲家としてより、この作品の編曲者として知られるようになってしまいました。
フランスに帰化したオッフェンバックをして「シャンゼリゼのモーツァルト」といったのは、イタリアの作曲家であるジョアキーノ・ロッシーニ(Gioacchino Rossini, 1792-1868)です。ロッシーニは、1829年に制作した《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》でオペラ業界から足を洗い、グルメ研究家になりましたが、手記よろしくピアノ曲や歌曲などを手遊びとして書き残しています。こうしたグルメ研究家時代のロッシーニの作品に目をつけたのが、ロシア・バレエ団のセルゲイ・ディアギレフでした。ディアギレフは、イタリア随一のオーケストレーションの名人と言われたオットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879-1936)にロッシーニの作品を使ったバレエ曲を依頼し、レスピーギは、ロッシーニが後半生に書き残した作品集からいくつかピック・アップしてオーケストレーションを施しました。この話の筋は、大まかに以下の通りです。
からくり人形店の店主が、顧客に音楽に合わせて踊るカップルのからくり人形を見せている。それを見たお客は、それらの人形を買いたいといい、商談をまとめるためにいったん店主と店の外に出る。その間に人形は勝手に動き出してどんちゃん騒ぎをし、商談もめちゃめちゃにしようとしたのだった。程なくして帰ってきた店主と顧客は、店が散らかっているのに驚き、顧客は店主を問い詰める。顧客に詰問されていじめられる店主を見た人形は、店主を救出すべく動き出し、顧客は逃げ出してしまう。顧客が店の窓越しに見たものは、店主が人形たちとダンスを踊る姿だった。
この作品は、ロンドンのアルハンブラ劇場で、マシーンの振り付けで1919年の6月5日に初演され、ロシア・バレエ団の人気演目の一つになりました。ディアギレフが死んだ後も、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団がマシーンの振り付けで上演していましたが、前出のバジルが独立時に上演権を差し押さえてしまったため、マシーンが上演に関与できなくなってしまったという経緯があります。
本CDは、モンテ・カルロ・ロシア・バレエ団にまつわる上記2曲を、アーサー・フィードラー(Arthur Fiedler, 1894-1979)の指揮するボストン・ポップス管弦楽団の演奏で収録しています。
ボストン・ポップスというのは、ボストン交響楽団を母体とし、その母体のオフ・シーズンに行う、フリー・ジャンルのコンサートのことです。そのコンサートを主催するオーケストラをボストン・ポップス管弦楽団と呼びますが、企画名のボストン・ポップスをそのままオーケストラ名にすることもあります。ボストン・ポップスは、アーサー・フィードラーが録音や放送メディアに積極的に進出したことでアメリカ内外に広い知名度を持つようになりましたが、その歴史は1885年にボストン交響楽団が企画した7月11日のプロムナード・コンサートにまで遡ります。この企画を提唱したのは、ボストン交響楽団の生みの親である実業家のヘンリー・リー・ヒギンソン。ヒギンソンが、もっと気軽なコンサートも企画してはどうかと呼びかけ、ドイツ出身のマルチ・タレントな興行師のアドルフ・ノイエンドルフを呼んで、コンサートを仕切らせたのでした。このプロムナード・コンサートの成功が呼び水となって、ボストン・ポップスはボストンの名物となり、ひいてはアメリカの風物詩の一つになりました。
指揮をするフィードラーは、ドイツからの移民でボストン交響楽団のヴァイオリニストだった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、15歳の時にベルリンに留学してヴィリー・ヘスの薫陶を受けた人です。1914年にボストン交響楽団に就職したフィードラーは、カール・ムックの指揮下で様々な楽器を演奏し、1924年には団員らとボストン・シンフォニエッタを結成するまでになりました。このころのボストン・ポップス管弦楽団は、イタリア人作曲家のアルフレード・カゼッラを音楽監督に据えて活動していました。しかし、カゼッラが退任するに及んで、ボストンで野外音楽祭を企画したり、団員達とアンサンブルを組んだりしていたフィードラーが後任に選ばれ、以後、ボストン・ポップスが大躍進を遂げることになります。フィードラーは、まずNBCなどのラジオ放送局に自分たちをを売り込み、放送メディアに自分たちの音楽を乗せ、さらにレコード・レーベルのRCAとレコーディング契約を結んで販路を広げるようになりました。アメリカ中にボストン・ポップスは知れ渡り、ボストン・ポップスを聴けばアメリカで大人気の音楽シーンが分かるといわれるほどの名物になりました。
余談ですが、今日ボストン・ポップスは、本家のボストン・ポップス管弦楽団と、海外遠征組のボストン・ポップス・エスプラネード管弦楽団に分かれます。レコーディングやアメリカ国内での演奏を主に引き受けているのは本家のほうで、海外遠征組のほうは、フリーの音楽家たちが集まって公演を行っています。どちらも「ボストン・ポップス」ですが、本家が本業で忙しい時には、海外遠征組が演奏旅行に出かけるようです。どちらも「ボストン・ポップス」の看板を背負っているので、どちらが劣るということはありません。
このオッフェンバックとロッシーニの音楽を編曲して作られたバレエ音楽は、フィードラーとボストン・ポップス管弦楽団の名録音として知られているもので、オッフェンバックの作品は1954年の録音であるにもかかわらず、生々しいくらいに明快な音で録られています。そのため、このレコードをバレエの練習用に購入しようとする人もいますが、フィードラーは、これらの曲をあくまで楽しい音楽として捉えていて、これをBGMにバレエを踊ろうとすると、音楽が全体的に人間の動作の機敏さを越えているので踊れません。《パリの喜び》のポルカなど、後半はオーケストラの瞬発力自慢の奏楽になっています。
いわゆるボストン・ポップス管弦楽団の商業用冊子のレコード版みたいな音楽で、ピチカートやスタッカートの揃いまでバシッと揃った、技術的には文句のつけようのない音楽です。特にロッシーニのバレエでは、レスピーギの重厚なオーケストレーションに従ってガッチリ鳴らしているので、筋肉質な音楽に仕上がっています。ただ、ひたすら煌びやかに徹した演奏は、オッフェンバックでは裏目に出ていて、ただの馬鹿騒ぎで終わってしまい、本当に必要なフレーバーが飛んでしまっている気がします。
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