1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
CD1:
◈Bohuslav Martinů: Sonata No.1 for Cello and Piano, H277
Saša Večtomov (Vc)
Josef Páleníček (Pf)
Josef Páleníček (Pf)
(Rec. 27 June 1968, Domovina Studio, Prague)
◈Bohuslav Martinů: Sonata No.2 for Cello and Piano, H286◈Bohuslav Martinů: Sonata No.3 for Cello and Piano, H340
Saša Večtomov (Vc)
Josef Páleníček (Pf)
Josef Páleníček (Pf)
(Rec. 21 May 1968, Domovina Studio, Prague)
CD2:
◈Bohuslav Martinů: Concerto No.2 for Cello and Orchestra, H304
Saša Večtomov (Vc)
Prague Symphony Orchestra / Zdeněk Košler
(Rec. 23 June 1966, Dvořák Hall of Rudolfinum, Prague)
◈Bohuslav Martinů: Variation on a theme of RossiniSaša Večtomov (Vc)
Josef Páleníček (Pf)
Josef Páleníček (Pf)
(Rec. 27 June 1968, Domovina Studio, Prague)
◈Bohuslav Martinů: Variation on a Slovak FolksongSaša Večtomov (Vc)
Josef Páleníček (Pf)
Josef Páleníček (Pf)
(Rec. 21 May 1968, Domovina Studio, Prague)
本CDセットは、チェコのチェリスト、サシャ・ヴェチトモフ(Saša Večtomov)ことアレクサンドル・ヴェチトモフ(Alexandr Večtomov, 1930-1989)が、チェコ出身の作曲家、ボフスラフ・マルティヌー(Bohuslav Martinů, 1890-1959)のチェロ作品を演奏したアルバムです。ヴェチトモフの芸名「サシャ」は、「アレクサンドル」の愛称です。
ヴェチトモフは、チェリストだった父親から音楽の手ほどきを受け、プラハ音楽院でラディスラフ・ゼレンカに学んでいます。その後モスクワ音楽院に留学してセミョン・コゾルーポフに師事し、アンドレ・ナヴァラのマスター・クラスにも参加しました。チェリストとしての頭角を現したのは、1955年のプラハの春音楽祭で開催されたコンクールのチェロ部門で優勝してからのことです。1970年頃から母校のプラハ音楽院の教授となり、ミカエラ・フカチョヴァーやルドヴィート・カンタといった後進を育てました。
マルティヌーの音楽はヴェチトモフの十八番で、本CDセットに収録されているチェロ・ソナタ第3番のチェコ国内初演奏は、ヴェチトモフが担当していました。
1枚目のCDに収録されているのは、3曲のチェロ・ソナタです。第1番は1939年に作曲されましたが、この頃のマルティヌーはパリに留学中でした。1923年にパリにやってきたマルティヌーは、アルベール・ルーセルの下で音楽理論を学びながら、イーゴリ・ストラヴィンスキーやフランシス・プーランクらと親交を結び、音楽的に充実した生活を送っていましたが、社会的には母国チェコがナチス・ドイツの恫喝に遭い、帰国しようにも出来ない状態にありました。ナチスはフランスにも侵攻し、マルティヌーもブラック・リストに入れられて捕縛の対象になっていましたが、パリにいた友人たちの尽力でスイス経由でアメリカ大陸に亡命しています。こうしたぎりぎりの限界的状況の中で書かれた作品は、どこか皮肉を込めたようなメロディ・ラインと捻りの効いた和声で色づけされています。他のチェロ・ソナタと同じように3楽章構成で書かれていますが、特に第2楽章はずっしりと重みのある音楽に仕上げられています。1940年5月19日に、パリでピエール・フルニエのチェロとルドルフ・フィルクシュニーのピアノによって初演されましたが、この時、マルティヌーはフルニエ達の助言に従って亡命の準備を進めていました。
第2番のチェロ・ソナタは1941年に作られた曲で、作曲時のマルティヌーはジャマイカのロングアイランドにいました。ロングアイランドでマルティヌーはフランク・リプカことフランティシェク・リプカの世話になっていますが、リプカはチェコにいた頃からの親友でした。ロングアイランドでオルガニスト兼音楽教師として働いていたリプカは、チェロも堪能だったので、マルティヌーはこの曲をリプカに献呈しています。ただ、ワシントンで1942年3月27日に行われた初演ではリプカは演奏せず、ルシアン・ラポートのチェロとエリ・ボンテンポのピアノで演奏されました。中間楽章に第1番のソナタと同じような暗さがありますが、両端楽章では青年期のセルゲイ・プロコフィエフのような皮肉めいた立ち振る舞いは影を潜めています。
第3番のチェロ・ソナタは1952年の秋ごろに作曲されたもの。作曲時のマルティヌーはアメリカからヨーロッパに旅行でパリ近郊のヴュー=ムーランに立ち寄っており、これが翌年の渡欧の契機となりました。
作品は、ワシントン・ナショナル交響楽団の指揮者を務めていた旧知の指揮者、ハンス・キンドラーの追憶に捧げられています。キンドラーはオランダ出身の人でしたが、チェリストとして音楽活動を始めた人でもあり、マルティヌーにとって身近なチェリストの一人でした。初演は1953年の1月8日にワシントンに於いてジョルジオ・リッチのチェロとアール・ワイルドのピアノで行われています。この頃のマルティヌーの作風は飄々とした軽さを獲得しており、程良く力の抜けた音楽に仕上がっています。
2枚目のCDに収録されたチェロとピアノの作品は、《ロッシーニの主題による変奏曲》と、《スロヴァキア民謡による変奏曲》が収録されています。ジョアキーノ・ロッシーニの変奏曲は1942年の作品で、アメリカで活躍していたチェリストのグレゴリー・ピアティゴルスキーに献呈されています。1943年1月5日にピアティゴルスキーの手で初演されました。使用されている主題はロッシーニの《エジプトのモーゼ》のアリア〈汝の星をちりばめた王座に〉で、ニコロ・パガニーニの変奏曲の素材にもなったことで知られています。この主題を元に4つの変奏を据え、最後に主題を回帰させるという形式をとり、ピアティゴルスキーの腕の冴えと歌謡性を存分に発揮できるように作られています。
スロヴァキア民謡の変奏曲は、主題と5つの変奏からなる作品で、作曲者がスイスで亡くなる少し前に完成したものの一つに数えられます。作曲するにあたってマルティヌーは、スロヴァキアの作曲家であるヴィリアム・フィグシュ=ビストリーの編んだスロヴァキア民謡集を参照し、〈愛しきあの人がどこにいるか、知っていたら〉(Keby ja vedela, kde môj milý pije)というスロヴァキア民謡が主題に選ばれています。作品はパウル・ザッヒャーに献呈されました。初演は作曲された年の10月17日のプラハに於いてヴェチトモフのピアノとヴラディミール・トピンカのピアノで行われましたが、この時既にマルティヌーは亡くなっていました。
チェロ協奏曲第2番は、1944年末から1945年初めにかけて作曲された作品。この頃、プラハ音楽院から作曲科の教授就任の打診があり、マルティヌー自身は音楽院の申し出を受け入れ、帰国の機会を窺っていました。祖国に帰ることができるかもしれない期待と望郷の念の入り混じった大作です。クリスマスの時期に着手された作品ということもあって、18世紀ボヘミアの作曲家だったヤン・ヤクブ・リバのクリスマス・キャロルと思われるメロディが第1楽章に編み込まれているとのこと。この作品については、誰の為に書いたのか分かっておらず、マルティヌーの生前には演奏されませんでした。
チェロ・ソナタと変奏曲集でヴェチトモフと共演しているのは、ヨゼフ・パーレニーチェク(Josef Páleníček, 1914-1991)です。パーレニーチェクは、カレル・ホフマイスター門下のピアニストで、パリに留学し、フルニエらから室内楽の薫陶も受け、ルーセルにも作曲法を師事していました。1934年からアレクサンドル・プロチェクとミロシュ・ザードロとピアノ三重奏団を組んでいましたが、チェロ奏者はイヴァン・シュトラウスへと変わり、さらにヴェチトモフがシュトラウスの後任として1955年頃から参加していました。そんなわけで、ヴェチトモフとパーレニーチェクは気心が知れており、本CDでは二人の濃密なやり取りでマルティヌーの音楽の神髄を味わうことができます。
ヴェチトモフとパーレニーチェクの演奏でとりわけ聴き応えがあるのは、ソナタ第1番と第2番の第2楽章でしょうか。厳粛さと痛ましさをひしひしと感じさせ、チェロもピアノも音楽の世界に没入しています。一方で、第3番のソナタでは飄々とした味わいも醸し出し、曲想に合わせた語り口の使い分けにも名人の技が光ります。変奏曲ではロッシーニの変奏曲でヴェチトモフのアクロバティックな腕の冴えを味わうことができますが、スロヴァキア民謡の変奏曲ではパーレニーチェクのピアノ共々技の切れ味だけでなく寂寞とした雰囲気も漂わせており、初演者としてのヴェチトモフの貫禄を聴かせます。
チェロ協奏曲第2番では、ヴェチトモフはズデニェク・コシュラー(Zdeněk Košler, 1928-1995)の指揮するプラハ交響楽団と演奏しています。この曲を1965年5月25日にチェスケー・ブジェヨヴィツェで初演したのは、このCDに収録されているメンバーで、この曲の演奏の原点としても重要な記録と言えます。指揮をするコシュラーはプラハ音楽院でカレル・アンチェルやロベルト・ブロックらの薫陶を受けたプラハ出身の指揮者。プラハ国民劇場やオロモウツの歌劇場などで実地的な研鑽を積み、1956年のブザンソン国際指揮者コンクール、1963年のミトロプーロス指揮者コンクールのそれぞれで優勝を飾り、レナード・バーンスタインのアシスタントを務めました。1962から1966年までオストラヴァの歌劇場の首席指揮者を務め、1966年から翌年までプラハ交響楽団の常任指揮者としてヴァーツラフ・スメターチェクを補佐、1971年から1976年までチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者とスロヴァキア国立歌劇場の音楽監督を兼任するなど、八面六臂の活躍をしました。指揮者としては、1980年から5年務めたプラハ国民劇場の音楽監督職に、1989年からカムバックの要請を受けて1992年まで務めていたことからも、チェコ国内でも信頼されていたことが分かります。1993年にはチェコ・ナショナル交響楽団の創立指揮者に迎えられ、このオーケストラを鍛え上げましたが、67歳で急逝してしまいました。
そんなコシュラーの伴奏は、オーケストラの音色が明快に整理され、緩徐楽章でもダレることがありません。第1楽章でも細部まで神経が行き届き、マルティヌーがこの曲に託した故郷への想いに寄り添うような演奏を聴かせます。第3楽章は、大概第2楽章まで美演を繰り広げると粗さが出てくるものですが、全く型崩れせず、立派なクライマックスを築き上げています。
ヴェチトモフのチェロ独奏は、充実のオーケストラ伴奏を向こうに回して全く位負けしない堂々たるもの。第1楽章や第2楽章で朗々とチェロを歌わせ、第3楽章は超絶技巧をものともしない安定感で初演者の威厳を感じさせます。戦争が終わって新たな平和に期待を膨らませるような瑞々しさを万全の演奏で表現しきったこの録音は、1970年のシャルル・クロ・アカデミー大賞(フランスのレコード・アカデミー賞)を獲得したのも頷ける、会心の演奏といえます。
ヴェチトモフは、チェリストだった父親から音楽の手ほどきを受け、プラハ音楽院でラディスラフ・ゼレンカに学んでいます。その後モスクワ音楽院に留学してセミョン・コゾルーポフに師事し、アンドレ・ナヴァラのマスター・クラスにも参加しました。チェリストとしての頭角を現したのは、1955年のプラハの春音楽祭で開催されたコンクールのチェロ部門で優勝してからのことです。1970年頃から母校のプラハ音楽院の教授となり、ミカエラ・フカチョヴァーやルドヴィート・カンタといった後進を育てました。
マルティヌーの音楽はヴェチトモフの十八番で、本CDセットに収録されているチェロ・ソナタ第3番のチェコ国内初演奏は、ヴェチトモフが担当していました。
1枚目のCDに収録されているのは、3曲のチェロ・ソナタです。第1番は1939年に作曲されましたが、この頃のマルティヌーはパリに留学中でした。1923年にパリにやってきたマルティヌーは、アルベール・ルーセルの下で音楽理論を学びながら、イーゴリ・ストラヴィンスキーやフランシス・プーランクらと親交を結び、音楽的に充実した生活を送っていましたが、社会的には母国チェコがナチス・ドイツの恫喝に遭い、帰国しようにも出来ない状態にありました。ナチスはフランスにも侵攻し、マルティヌーもブラック・リストに入れられて捕縛の対象になっていましたが、パリにいた友人たちの尽力でスイス経由でアメリカ大陸に亡命しています。こうしたぎりぎりの限界的状況の中で書かれた作品は、どこか皮肉を込めたようなメロディ・ラインと捻りの効いた和声で色づけされています。他のチェロ・ソナタと同じように3楽章構成で書かれていますが、特に第2楽章はずっしりと重みのある音楽に仕上げられています。1940年5月19日に、パリでピエール・フルニエのチェロとルドルフ・フィルクシュニーのピアノによって初演されましたが、この時、マルティヌーはフルニエ達の助言に従って亡命の準備を進めていました。
第2番のチェロ・ソナタは1941年に作られた曲で、作曲時のマルティヌーはジャマイカのロングアイランドにいました。ロングアイランドでマルティヌーはフランク・リプカことフランティシェク・リプカの世話になっていますが、リプカはチェコにいた頃からの親友でした。ロングアイランドでオルガニスト兼音楽教師として働いていたリプカは、チェロも堪能だったので、マルティヌーはこの曲をリプカに献呈しています。ただ、ワシントンで1942年3月27日に行われた初演ではリプカは演奏せず、ルシアン・ラポートのチェロとエリ・ボンテンポのピアノで演奏されました。中間楽章に第1番のソナタと同じような暗さがありますが、両端楽章では青年期のセルゲイ・プロコフィエフのような皮肉めいた立ち振る舞いは影を潜めています。
第3番のチェロ・ソナタは1952年の秋ごろに作曲されたもの。作曲時のマルティヌーはアメリカからヨーロッパに旅行でパリ近郊のヴュー=ムーランに立ち寄っており、これが翌年の渡欧の契機となりました。
作品は、ワシントン・ナショナル交響楽団の指揮者を務めていた旧知の指揮者、ハンス・キンドラーの追憶に捧げられています。キンドラーはオランダ出身の人でしたが、チェリストとして音楽活動を始めた人でもあり、マルティヌーにとって身近なチェリストの一人でした。初演は1953年の1月8日にワシントンに於いてジョルジオ・リッチのチェロとアール・ワイルドのピアノで行われています。この頃のマルティヌーの作風は飄々とした軽さを獲得しており、程良く力の抜けた音楽に仕上がっています。
2枚目のCDに収録されたチェロとピアノの作品は、《ロッシーニの主題による変奏曲》と、《スロヴァキア民謡による変奏曲》が収録されています。ジョアキーノ・ロッシーニの変奏曲は1942年の作品で、アメリカで活躍していたチェリストのグレゴリー・ピアティゴルスキーに献呈されています。1943年1月5日にピアティゴルスキーの手で初演されました。使用されている主題はロッシーニの《エジプトのモーゼ》のアリア〈汝の星をちりばめた王座に〉で、ニコロ・パガニーニの変奏曲の素材にもなったことで知られています。この主題を元に4つの変奏を据え、最後に主題を回帰させるという形式をとり、ピアティゴルスキーの腕の冴えと歌謡性を存分に発揮できるように作られています。
スロヴァキア民謡の変奏曲は、主題と5つの変奏からなる作品で、作曲者がスイスで亡くなる少し前に完成したものの一つに数えられます。作曲するにあたってマルティヌーは、スロヴァキアの作曲家であるヴィリアム・フィグシュ=ビストリーの編んだスロヴァキア民謡集を参照し、〈愛しきあの人がどこにいるか、知っていたら〉(Keby ja vedela, kde môj milý pije)というスロヴァキア民謡が主題に選ばれています。作品はパウル・ザッヒャーに献呈されました。初演は作曲された年の10月17日のプラハに於いてヴェチトモフのピアノとヴラディミール・トピンカのピアノで行われましたが、この時既にマルティヌーは亡くなっていました。
チェロ協奏曲第2番は、1944年末から1945年初めにかけて作曲された作品。この頃、プラハ音楽院から作曲科の教授就任の打診があり、マルティヌー自身は音楽院の申し出を受け入れ、帰国の機会を窺っていました。祖国に帰ることができるかもしれない期待と望郷の念の入り混じった大作です。クリスマスの時期に着手された作品ということもあって、18世紀ボヘミアの作曲家だったヤン・ヤクブ・リバのクリスマス・キャロルと思われるメロディが第1楽章に編み込まれているとのこと。この作品については、誰の為に書いたのか分かっておらず、マルティヌーの生前には演奏されませんでした。
チェロ・ソナタと変奏曲集でヴェチトモフと共演しているのは、ヨゼフ・パーレニーチェク(Josef Páleníček, 1914-1991)です。パーレニーチェクは、カレル・ホフマイスター門下のピアニストで、パリに留学し、フルニエらから室内楽の薫陶も受け、ルーセルにも作曲法を師事していました。1934年からアレクサンドル・プロチェクとミロシュ・ザードロとピアノ三重奏団を組んでいましたが、チェロ奏者はイヴァン・シュトラウスへと変わり、さらにヴェチトモフがシュトラウスの後任として1955年頃から参加していました。そんなわけで、ヴェチトモフとパーレニーチェクは気心が知れており、本CDでは二人の濃密なやり取りでマルティヌーの音楽の神髄を味わうことができます。
ヴェチトモフとパーレニーチェクの演奏でとりわけ聴き応えがあるのは、ソナタ第1番と第2番の第2楽章でしょうか。厳粛さと痛ましさをひしひしと感じさせ、チェロもピアノも音楽の世界に没入しています。一方で、第3番のソナタでは飄々とした味わいも醸し出し、曲想に合わせた語り口の使い分けにも名人の技が光ります。変奏曲ではロッシーニの変奏曲でヴェチトモフのアクロバティックな腕の冴えを味わうことができますが、スロヴァキア民謡の変奏曲ではパーレニーチェクのピアノ共々技の切れ味だけでなく寂寞とした雰囲気も漂わせており、初演者としてのヴェチトモフの貫禄を聴かせます。
チェロ協奏曲第2番では、ヴェチトモフはズデニェク・コシュラー(Zdeněk Košler, 1928-1995)の指揮するプラハ交響楽団と演奏しています。この曲を1965年5月25日にチェスケー・ブジェヨヴィツェで初演したのは、このCDに収録されているメンバーで、この曲の演奏の原点としても重要な記録と言えます。指揮をするコシュラーはプラハ音楽院でカレル・アンチェルやロベルト・ブロックらの薫陶を受けたプラハ出身の指揮者。プラハ国民劇場やオロモウツの歌劇場などで実地的な研鑽を積み、1956年のブザンソン国際指揮者コンクール、1963年のミトロプーロス指揮者コンクールのそれぞれで優勝を飾り、レナード・バーンスタインのアシスタントを務めました。1962から1966年までオストラヴァの歌劇場の首席指揮者を務め、1966年から翌年までプラハ交響楽団の常任指揮者としてヴァーツラフ・スメターチェクを補佐、1971年から1976年までチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者とスロヴァキア国立歌劇場の音楽監督を兼任するなど、八面六臂の活躍をしました。指揮者としては、1980年から5年務めたプラハ国民劇場の音楽監督職に、1989年からカムバックの要請を受けて1992年まで務めていたことからも、チェコ国内でも信頼されていたことが分かります。1993年にはチェコ・ナショナル交響楽団の創立指揮者に迎えられ、このオーケストラを鍛え上げましたが、67歳で急逝してしまいました。
そんなコシュラーの伴奏は、オーケストラの音色が明快に整理され、緩徐楽章でもダレることがありません。第1楽章でも細部まで神経が行き届き、マルティヌーがこの曲に託した故郷への想いに寄り添うような演奏を聴かせます。第3楽章は、大概第2楽章まで美演を繰り広げると粗さが出てくるものですが、全く型崩れせず、立派なクライマックスを築き上げています。
ヴェチトモフのチェロ独奏は、充実のオーケストラ伴奏を向こうに回して全く位負けしない堂々たるもの。第1楽章や第2楽章で朗々とチェロを歌わせ、第3楽章は超絶技巧をものともしない安定感で初演者の威厳を感じさせます。戦争が終わって新たな平和に期待を膨らませるような瑞々しさを万全の演奏で表現しきったこの録音は、1970年のシャルル・クロ・アカデミー大賞(フランスのレコード・アカデミー賞)を獲得したのも頷ける、会心の演奏といえます。
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