1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Franz Schmidt: Symphony No.4 in C major
Vienna Philharmonic Orchestra / Zubin Mehta
(Rec. September 1971, Vienna)
◈Arnold Schönberg: Variation for OrchestraLos Angeles Philharmonic Orchestra / Zubin Mehta
(Rec. May 1968, Los Angeles)
フランツ・シュミット(Franz Schmidt, 1874-1939)の交響曲第4番と、アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)の管弦楽のための変奏曲のカップリング。
フランツ・シュミットとシェーンベルクは同い年ということでカップリングされたものと思われますが、その境遇や作風は全く異なっています。フランツ・シュミットはオーストリア領プレスブルク(現:スロヴァキア領ブラチスラヴァ)に生まれた人で、テオドール・レシェティツキにピアノ、アントン・ブルックナーとロベルト・フックスに音楽理論、フェルディナント・ヘルメルベルガーにチェロを習っています。ウィーンの宮廷歌劇場のチェリストとして活躍した後、ウィーン音楽院のピアノ科、チェロ科と作曲科の教師となり、同音楽院の院長まで歴任しました。対位法などの理論家として著名で、弟子にはテオドール・ベルガーや指揮者のオスヴァルド・カバスタ等がいました。
シェーンベルクのほうは、ウィーンの生まれ。ハンガリー出身の靴屋だった父親が早世したことで、独学でヴァイオリンやチェロを学んでいます。作曲はアレクサンダー・ツェムリンスキーに学びましたが、独自に無調音楽の理論を模索して十二音技法を確立し、弟子のアルバン・ベルクやアントン・ウェーベルンと「新ウィーン楽派」を形成しました。第二次世界大戦の時には、ユダヤ系だったことからアメリカに亡命し、名前の綴りも"Schoenberg"に代えて活躍しました。
フランツ・シュミットは、19世紀末までのドイツ・オーストリアの音楽様式の継承者を自任し、4曲作った交響曲の第3番などは、アメリカのコロンビア社が主催した「シューベルト記念賞」に応募して次点をもらっています。(第1位を獲得したのはスウェーデンの作曲家、クルト・アッテルベリの交響曲第6番でした。)
第4番の交響曲は、1932年から翌年にかけて書き上げられた作品で、3つの部分をひとまとめにした単一楽章の構成をとります。この曲を作り始めた頃の3月に作曲者の愛娘のエンマが急逝しており、その時のショックが曲全体の厭世感に繋がっています。この愛娘を失ったショックは、晩年のフランツ・シュミットの人生観にダメージを与えています。
冒頭のトランペットによって静かに奏でられる主題は、調性感が薄く、言い知れぬ不安感を煽ります。このトランペットのテーマは作曲者自身の言によれば「人を永劫へと導く最後の音楽」であり、曲全体の骨子となる重要なものです。こうした基本テーマゆえに、どれだけクライマックスを構築しても、それが栄華の表現にはならず、諦観の裏返しになったり、この世を儚む慟哭になったりします。
チェロの独奏で始まる第二部は、牧歌的な雰囲気に傾きますが、葬送行進曲を思わせるリズム動機が楽観に流れることを許しません。
第三部に入ると堅牢なフーガが登場しますが、この部分をこの交響曲のスケルツォと見做すこともできます。様々なモチーフが行き交う人の動きのようでもあり、それをシニカルに見つめるフランツ・シュミット自身の視点も感じられます。こうしたモチーフの動きが目一杯詰め込まれると爆発し、ホルンが曲の冒頭の主題を奏でて原点回帰を図り、静謐なフィナーレを形作ります。
シェーンベルクの管弦楽のための変奏曲は、1926年ごろから作曲の筆が進められていた、十二音技法による初の大オーケストラの為の作品。B-A-C-Hの音列を組み込み、ヨハン・ゼバスティアン・バッハへのオマージュとしての意味も含ませています。1928年12月2日にベルリンにおいて、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されましたが、ベルリンの聴衆には全く理解されず、大ブーイングを受ける羽目になったとのこと。
本CDで指揮を執るのはインド出身の指揮者であるズビン・メータ(Zubin Mehta, 1936-)です。メーリ・メータの息子として生まれ、ウィーンでハンス・スヴァロフスキーの指揮法を学んだメータは、1958年のリヴァプール国際指揮者コンクールで優勝し、ウィーンで指揮者デビューを飾っています。1961年から1967年までモントリオール交響楽団、1962年から1978年までロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、1978年から1991年までニューヨーク・フィルハーモニックの各音楽監督を歴任し、今日でもフィレンツェ五月音楽祭管弦楽団の首席指揮者を務めながら世界各国のオーケストラに客演を重ねています。本録音は、まだまだ若手指揮者だった頃の録音。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したフランツ・シュミットの交響曲では、セザール・フランクの交響的変奏曲を拡大したような作曲者の思惑をしっかりと汲み取り、オーケストラを自由自在に操ってスケールの大きな音楽を作り上げることに成功しています。
シェーンベルクの変奏曲のほうは、当時の手兵だったロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団との演奏ですが、こちらはセリー音楽の走りだと端から決めつけている風。ロサンゼルスのオーケストラは健闘していますが、9つある各変奏のキャラクターを消化しているとは言い難く、全体的にのっぺりとして印象の薄い演奏に終始しています。
フランツ・シュミットとシェーンベルクは同い年ということでカップリングされたものと思われますが、その境遇や作風は全く異なっています。フランツ・シュミットはオーストリア領プレスブルク(現:スロヴァキア領ブラチスラヴァ)に生まれた人で、テオドール・レシェティツキにピアノ、アントン・ブルックナーとロベルト・フックスに音楽理論、フェルディナント・ヘルメルベルガーにチェロを習っています。ウィーンの宮廷歌劇場のチェリストとして活躍した後、ウィーン音楽院のピアノ科、チェロ科と作曲科の教師となり、同音楽院の院長まで歴任しました。対位法などの理論家として著名で、弟子にはテオドール・ベルガーや指揮者のオスヴァルド・カバスタ等がいました。
シェーンベルクのほうは、ウィーンの生まれ。ハンガリー出身の靴屋だった父親が早世したことで、独学でヴァイオリンやチェロを学んでいます。作曲はアレクサンダー・ツェムリンスキーに学びましたが、独自に無調音楽の理論を模索して十二音技法を確立し、弟子のアルバン・ベルクやアントン・ウェーベルンと「新ウィーン楽派」を形成しました。第二次世界大戦の時には、ユダヤ系だったことからアメリカに亡命し、名前の綴りも"Schoenberg"に代えて活躍しました。
フランツ・シュミットは、19世紀末までのドイツ・オーストリアの音楽様式の継承者を自任し、4曲作った交響曲の第3番などは、アメリカのコロンビア社が主催した「シューベルト記念賞」に応募して次点をもらっています。(第1位を獲得したのはスウェーデンの作曲家、クルト・アッテルベリの交響曲第6番でした。)
第4番の交響曲は、1932年から翌年にかけて書き上げられた作品で、3つの部分をひとまとめにした単一楽章の構成をとります。この曲を作り始めた頃の3月に作曲者の愛娘のエンマが急逝しており、その時のショックが曲全体の厭世感に繋がっています。この愛娘を失ったショックは、晩年のフランツ・シュミットの人生観にダメージを与えています。
冒頭のトランペットによって静かに奏でられる主題は、調性感が薄く、言い知れぬ不安感を煽ります。このトランペットのテーマは作曲者自身の言によれば「人を永劫へと導く最後の音楽」であり、曲全体の骨子となる重要なものです。こうした基本テーマゆえに、どれだけクライマックスを構築しても、それが栄華の表現にはならず、諦観の裏返しになったり、この世を儚む慟哭になったりします。
チェロの独奏で始まる第二部は、牧歌的な雰囲気に傾きますが、葬送行進曲を思わせるリズム動機が楽観に流れることを許しません。
第三部に入ると堅牢なフーガが登場しますが、この部分をこの交響曲のスケルツォと見做すこともできます。様々なモチーフが行き交う人の動きのようでもあり、それをシニカルに見つめるフランツ・シュミット自身の視点も感じられます。こうしたモチーフの動きが目一杯詰め込まれると爆発し、ホルンが曲の冒頭の主題を奏でて原点回帰を図り、静謐なフィナーレを形作ります。
シェーンベルクの管弦楽のための変奏曲は、1926年ごろから作曲の筆が進められていた、十二音技法による初の大オーケストラの為の作品。B-A-C-Hの音列を組み込み、ヨハン・ゼバスティアン・バッハへのオマージュとしての意味も含ませています。1928年12月2日にベルリンにおいて、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されましたが、ベルリンの聴衆には全く理解されず、大ブーイングを受ける羽目になったとのこと。
本CDで指揮を執るのはインド出身の指揮者であるズビン・メータ(Zubin Mehta, 1936-)です。メーリ・メータの息子として生まれ、ウィーンでハンス・スヴァロフスキーの指揮法を学んだメータは、1958年のリヴァプール国際指揮者コンクールで優勝し、ウィーンで指揮者デビューを飾っています。1961年から1967年までモントリオール交響楽団、1962年から1978年までロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、1978年から1991年までニューヨーク・フィルハーモニックの各音楽監督を歴任し、今日でもフィレンツェ五月音楽祭管弦楽団の首席指揮者を務めながら世界各国のオーケストラに客演を重ねています。本録音は、まだまだ若手指揮者だった頃の録音。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したフランツ・シュミットの交響曲では、セザール・フランクの交響的変奏曲を拡大したような作曲者の思惑をしっかりと汲み取り、オーケストラを自由自在に操ってスケールの大きな音楽を作り上げることに成功しています。
シェーンベルクの変奏曲のほうは、当時の手兵だったロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団との演奏ですが、こちらはセリー音楽の走りだと端から決めつけている風。ロサンゼルスのオーケストラは健闘していますが、9つある各変奏のキャラクターを消化しているとは言い難く、全体的にのっぺりとして印象の薄い演奏に終始しています。
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