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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Gaetano Donizetti: Messa di Requiem
Cheryl Studer (S.)
Herga Müller-Molinari (A.)
Aldo Baldin (T.)
Jan-Hendrik Rootering (Bs.)
John-Paul Bogart (Bs.)
Chor der Bamberger Symphoniker (Chorus master: Rolf Beck)
Bamberger Symphoniker / Miguel Ángel Gómez-Martínez
(Rec. 2-5 January 1984)







宗教音楽としてのレクイエム(Messa di Requiem)は、歌詞となる固有文の導入部が”Requiem æternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.”(永遠の安息を我に与えたまえ、主よ、そして絶えざる光で我を照らしたまえ)と歌い出されるところに、その名の由来があります。
日本では「鎮魂歌」とか「鎮魂曲」とかといった訳語が充てられていましたが、近年「鎮魂」という言葉が神道に由来し、キリスト教の死生観にそぐわないということで、「死者の為のミサ曲」という訳語も見受けられるようになりました。

死者の為の宗教音楽としてのレクイエムは、カトリックのキリスト教が持っていた「煉獄」という死生観をバックボーンにしています。「煉獄」とは、人が死ぬと、その魂を聖なるものへと浄化させるために苦行を受ける場所です。生きている人は、死んだ人の煉獄で遭う責め苦を軽減すべく、神にとりなしをしてくれるようお願いをします。これがいわゆる死者の為の儀式(ミサ)であり、こうして生きている人たちが亡くなった他者の為に祈ることで、自らの善行も積むという算段になります。
16世紀までのカトリック教会は、この煉獄説を強調し、死後の魂の責め苦から逃れるためと称して免罪符なるものまで発行し、民衆に売りつけていました。
マルティン・ルターは、そうしたカトリック教会の免罪符販売を、今でいうタチの悪い霊感商法と見做し、徹底的に糾弾して宗教改革運動を興しましたが、カトリック側は、死者の為の儀式を精緻化することでこれに対抗し、宗教音楽としてのレクイエムが重要なものと位置づけられるようになりました。
死者の魂が煉獄で過酷な目に遭わないように神様にお願いするという意味で作られたレクイエムは、その本来の意味を次第に形骸化させ、19世紀には死者追悼のイベント音楽として作曲する人も多くなりました。
ただ、その動機や意味合いはどうであれ、高度な宗教音楽としてのレクイエムの制作は、作曲家の職人魂を焚きつけるのに十分であり、多くの作曲家が意匠を凝らした曲を発表しています。

本CDに収録しているのは、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti, 1797-1848)の作ったレクイエム(1835年頃作)です。
ドニゼッティはイタリアのベルガモに生まれた作曲家で、ヨハン・ジーモン・マイールに作曲を学び、オペラ作曲家として19世紀前半のイタリアを風靡しました。
ドニゼッティには、ヴィンツェンツォ・ベッリーニというシチリア島はカターニア出身のライバルがいて、お互いにヒット作を連発してイタリア・オペラ業界を牽引していましたが、1835年にベッリーニが急死してしまいました。
ベッリーニの楽譜出版を一手に引き受けていたリコルディ社は、同じくリコルディ社から楽譜を出版していたドニゼッティに、ベッリーニの追悼企画として作品を発注しました。
ドニゼッティは葬送用の器楽曲を書き上げた後、ベッリーニのためのレクイエムの作曲に着手しましたが、初演のスポンサーがいなくなってしまったために企画が頓挫し、この曲は完成されることなく放置されてしまいました。
その後、ドニゼッティは1844年ごろから梅毒と原因とする頭痛で作曲が出来なくなり、故郷で亡くなっています。

未完のまま残されたレクイエムは、1870年になって発見され、ドニゼッティの生地ベルガモのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂でアレッサンドロ・ニーニの指揮で初演されたとのこと。しかし、1875年に再演された後は、1948年に演奏されるまで顧みられませんでした。
本CDでは、未完成のドニゼッティの手稿を元にヴィルモシュ・レシュコが校訂した1975年のリコルディ版の楽譜を用いているとのことです。
内容は、〈入祭文〉(Introitus)、〈キリエ〉(Kyrie)、〈昇階唱〉(Graduale)、〈続唱〉(Sequentia)、〈奉献唱〉(Offertorium)、〈永久の光〉(Lux æterna)、〈リベラ・メ〉(Libera me)の7つの部分からなります。通常含まれる筈の〈サンクトゥス〉(Sanctus)や〈神の子羊〉(Agnus Dei)は、このレクイエムでは含まれていません。
〈続唱〉は、他の作曲家のレクイエム同様に念入りに作られていますが、〈奇しきラッパの音が〉(Tuba mirum spargens sonum)から〈審判者が席に着くとき〉(Judex ergo cum sedebit)までのくだりなど、テノール歌手とバス歌手の応酬が、まるでオペラの一場面のように響きます。〈恐ろしき御稜威の王〉(Rex tremendæ majestatis)の部分も恐怖感とは無縁で、ソプラノ歌手とバス歌手の恋愛の駆け引きのように響きます。〈呪われたものは〉(Confutatis maledictis)の後半部分の〈私はひれ伏して〉(Oro supplex et acclinis)などは、バス歌手のアリアとしても充分通用しそうです。一方で〈涙の日〉(Lacrymosa)ではガッチリとした合唱のフーガが展開されており、この曲がオペラではなかったことを思い出させます。

本CDは、スペイン出身の指揮者、ミゲル・アンヘル・ゴメス=マルティネス(Miguel Ángel Gómez-Martínez, 1949-)がバンベルク交響楽団(Bamberger Symphoniker)とバンベルク交響合唱団(Chor der Bamberger Symphoniker)を指揮して録音しています。
ゴメス=マルティネスは、グラナダに生まれ、7歳で地元のオーケストラを振るほどの早熟ぶりをしめした人です。その後、マドリード音楽院でヴァイオリンとピアノを学び、ウィーンに留学してハンス・スヴァロフスキーに指揮法を師事しています。
1973年にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの《フィデリオ》をベルリンで指揮してデビューを飾り、世界各地の歌劇場に客演して名声を上げたゴメス=マルティネスは、1984年から1987年までスペイン放送管弦楽団の首席指揮者、1985年からマドリード劇場の音楽監督、1989年から1993年までエウスカディ交響楽団の首席指揮者(1990年から1993年までマンハイム市の音楽総監督を兼任)、1992年から2000年までハンブルク交響楽団の首席指揮者、1993年から1996年までフィンランドはヘルシンキの歌劇場の音楽監督、1997年から2005年までバレンシア管弦楽団の音楽総監督を務めながらベルン歌劇場の音楽監督の職務をこなしています。2004年からはバイロイトのイースター音楽祭のユース・オーケストラの音楽監督として後進の指導に当たっています。
バンベルク交響楽団は、1940年ごろからチェコでドイツ人移民の手により結成されたプラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団を源流とする、バンベルクのオーケストラです。第二次世界大戦でドイツが敗戦したため、チェコからドイツ人が締め出されることになり、1946年に団員がバンベルクに落ち合ってオーケストラを再結成して、このオーケストラが生まれました。チェコにいた頃から首席指揮者をしていたヨーゼフ・カイルベルトを首席指揮者に据え、不屈の名オーケストラとして知られるようになりました。
ゴメス=マルティネスは、幾度となくこのオーケストラに客演しており、その伝手でこの曲が録音されました。

歌唱陣は多彩な顔触れが揃っています。
アメリカはミシガン州ミッドランド生まれのシェリル・ステューダー(Cheryl Studer, 1955-)は、マリア・カラスに憧れてドラマティック・ソプラノ歌手として成功した人です。ハンス・ホッターにも私淑してドイツ・リートにも造詣を深め、リヒャルト・ヴァーグナーからイタリア・オペラまで幅広くこなす歌手として、1990年代まで幅広い活動を展開していました。
ドイツ人アルト歌手のヘルガ・ミュラー=モリナーリ(Helga Müller-Molinari, 1948-)は、ドイツのプファッフェンホーフェンに生まれた人。ミュンヘンで往年のオペラ歌手だったフェリシエ・フューニ=ミハチェクに学び、その後イタリア留学してマリア・テレサ・ペディコーニとジュリエッタ・シミオナートに師事しました。1975年にスカラ座でモーリス・ラヴェルの《子どもと魔法》でデビューを飾り、リヒャルト・シュトラウスやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラを軸に、18世紀以前のヨーロッパの音楽までレパートリーに加えています。
アルド・バルディン(Aldo Baldin, 1945-1994)は、ブラジルのウルサンガ出身のテノール歌手。両親はイタリアからの移民で、ピアノとチェロを学びましたが、歌に興味を持ったため、リオ・デ・ジャネイロ在住のエリアーヌ・サンパイオに師事して歌手としての研鑽を積みました。その後、カール・リヒターに見初められてフランクフルトに留学し、マルティン・グリュントラーの門下となり、さらにベルリンでマルガレーテ・フォン・ヴィンターフェルト、パリでコンチータ・バディアとノエミ・ペルージャの教えを受けています。1975年からはカイザースラウルテンの歌劇場で歌手として活動し、1977年にマンハイム国立歌劇場に転出してから名声を博するようになりました。オペラだけでなく宗教音楽にも積極的に取り組み、1979年からはハイデルベルク音楽院の教授に招聘され、ドイツ音楽界への貢献を大いに期待されていましたが、ヴァルトブロンの自宅で心臓発作を起こして急死してしまいました。
ヤン=ヘンドリク・ローテリング(Jan-Hendrik Rootering, 1950-)はオランダのフレンスブルクに生まれたバス・バリトン歌手です。父ヘンドリクスはテノール歌手だったことから、父親の教育で声楽を始め、ハンブルク国立歌劇場で研鑽を積んだ後、1982年にリヒャルト・シュトラウスの《影のない女》に出演してデビューしました。1986年にはバイエルン州から宮廷歌手の称号を贈られ、ドイツ・オペラの分野で幅広く活躍しています。
ジョン=ポール・ボガート(John-Paul Bogart, 1952-)は、ニューヨーク生まれのバス歌手。1974年にリヒャルト・シュトラウスの《サロメ》でデビューを飾り、アメリカ内外の歌劇場に客演しているとのこと。

演奏は、ゴメス=マルティネスのタクト自体には、それほど精緻に磨き上げようという意図は感じられませんが、バンベルク交響楽団の性質上、大変気まじめな演奏で、附属の合唱団もその気質を受け継いでいます。結果として、ドニゼッティのオペラ的な気質は〈入祭唱〉から〈昇階唱〉に至るまでの前半部分では薄められ、厳粛な雰囲気を保持しています。
〈続唱〉では、歌唱陣がオペラ風に振る舞い、合唱団が宗教曲としての矜持に引き戻すというせめぎ合いで、まるでオラトリオのような音楽に仕上げられています。
オペラ作家としてのドニゼッティとしての側面を見事に反映した場面としては、バルディンの歌う〈続唱〉の〈嘆くこと、罪人のごとく〉(Ingemisco, tamquam reus)のくだりが聴き物で、バルディンの甘く痛切な歌唱が配慮の行き届いた弦楽合奏に乗って、とりわけ美しく響きます。
全体的には、まだ演奏スタイルとしての洗練に欠けるきらいはありますが、この作品の姿を丁寧に描き出そうとする気概には好感のもてる演奏でしょう。この曲を紹介する演奏として不足ありません。


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