1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈Alexander Zemlinsky: String Quartet No.3, op.19
◈Alexander Zemlinsky: String Quartet No.4, op.25
◈Johanna Müller-Hermann: String Quartet, op.6
Artis Quartett Wien
{Peter Schuhmayer (1st.Vn), Johannes Meissl (2nd.Vn),
Herbert Kefer (Vla), Otmar Müller (Vc)}
Herbert Kefer (Vla), Otmar Müller (Vc)}
(Rec. 23-26 1998, Concert Hall of the Nimbus Foundation)
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky, 1871-1942)は、オーストリアの作曲家です。
ツェムリンスキーの父親はユダヤ教からキリスト教に改宗したハンガリー系のオーストリア人で、母親はサラエボの人でした。父親は、ユダヤ教に戻り、息子の名前に勝手に「フォン」をつけた上、家系の名前をゼムリンスキー(Semlinsky)jからツェムリンスキー(Zemlinsky)に改めています。
ウィーン音楽院でアントン・ドーアにピアノを学び、ヨーゼフ・フックスに作曲法を師事した彼はアルノルト・シェーンベルクに音楽理論を教え、シェーンベルクが十二音音楽の理論を考案してからは、シェーンベルクの弟子にもなりました。
また、シェーンベルクのお嫁さんがツェムリンスキーの妹だったり、グスタフ・マーラーのお嫁さんがツェムリンスキーの元恋人だったり、少年時代のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの作品の助っ人をしたりと、ツェムリンスキーがウィーンの音楽の著名人の人間関係の交差点にいたことが分かります。
ツェムリンスキーは、ウィーン音楽院で学び、ブラームスの肝いりで作曲界に登場したように、作風の点でもブラームスを髣髴とさせる音楽を書いていましたが、次第に当時の教科書的な和声を離れ、どんどんと調性感覚を薄めていきます。彼の作風の変化は、そのままドイツ・オーストリアの音楽界の変化に繋がっています。
ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲の第3番(1924年作)と第4番(1936年)は、ツェムリンスキーがシェーンベルクの無調音楽に接近していた時期の作品です。第3番の弦楽四重奏曲では、第1楽章でかなり和声を崩壊寸前までひねり、第2楽章ではパウル・ヒンデミットの音楽を髣髴とさせるような不思議なスケルツォになっています。第3楽章はまるでベルクの叙情組曲を下敷きにしているかのような音楽になっていますが、第4楽章では、これまでのツェムリンスキーなりのモダン路線から外れ、19世紀ウィーンの世界へと逆戻りしてしまっています。
第4番も6楽章からなりますが、ほぼ第3番のスタンスを踏襲しており、クロード・ドビュッシーの音楽から歩を進めて、無調音楽と調性音楽の狭間で逡巡しています。ただ、シェーンベルクの路線まで踏み込めていないところが、ツェムリンスキーの限界といえます。
ヨハンナ・ミュラー=ヘルマン(Johanna Müller-Hermann, 1868-1941)も、ツェムリンスキーと同じ時代を生きた、オーストリアの作曲家です。
ここに収録されている弦楽四重奏曲は、1908年の作品ですが、19世紀のロマン主義の音楽そのもののような、耽美的な作風を示しています。
ツェムリンスキーがこねくり回し、彼なりにモダナイズしようとした音楽の原型が、まさにミュラー=ヘルマンのこの弦楽四重奏曲のような音楽だったのです。
ウィーン・アルティス四重奏団がこの曲をカップリングにしたのは、ツェムリンスキーが後続の作曲家を生み出す土壌を作りながらも、結局19世紀の枠内から出られない作曲家だということを暗示するという意図なのでしょうか。
上記ツェムリンスキー作品のアダージョ楽章は、確かに、このミュラー=ヘルマンの弦楽四重奏曲が示す雰囲気を引きずっています。
ウィーン・アルティス四重奏団の演奏は、こうした錯綜した音楽を、一つ一つ解きほぐし、手際のいい演奏で明快にまとめています。
特に、ツェムリンスキーの第3番の第三楽章では、妖艶さ静謐さを併せ持った音楽を、美しい音色でしっかりと歌い上げており、ともすると迷子になりがちなこの手の音楽に、しっかりと志向性を持たせています。
ツェムリンスキーの父親はユダヤ教からキリスト教に改宗したハンガリー系のオーストリア人で、母親はサラエボの人でした。父親は、ユダヤ教に戻り、息子の名前に勝手に「フォン」をつけた上、家系の名前をゼムリンスキー(Semlinsky)jからツェムリンスキー(Zemlinsky)に改めています。
ウィーン音楽院でアントン・ドーアにピアノを学び、ヨーゼフ・フックスに作曲法を師事した彼はアルノルト・シェーンベルクに音楽理論を教え、シェーンベルクが十二音音楽の理論を考案してからは、シェーンベルクの弟子にもなりました。
また、シェーンベルクのお嫁さんがツェムリンスキーの妹だったり、グスタフ・マーラーのお嫁さんがツェムリンスキーの元恋人だったり、少年時代のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの作品の助っ人をしたりと、ツェムリンスキーがウィーンの音楽の著名人の人間関係の交差点にいたことが分かります。
ツェムリンスキーは、ウィーン音楽院で学び、ブラームスの肝いりで作曲界に登場したように、作風の点でもブラームスを髣髴とさせる音楽を書いていましたが、次第に当時の教科書的な和声を離れ、どんどんと調性感覚を薄めていきます。彼の作風の変化は、そのままドイツ・オーストリアの音楽界の変化に繋がっています。
ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲の第3番(1924年作)と第4番(1936年)は、ツェムリンスキーがシェーンベルクの無調音楽に接近していた時期の作品です。第3番の弦楽四重奏曲では、第1楽章でかなり和声を崩壊寸前までひねり、第2楽章ではパウル・ヒンデミットの音楽を髣髴とさせるような不思議なスケルツォになっています。第3楽章はまるでベルクの叙情組曲を下敷きにしているかのような音楽になっていますが、第4楽章では、これまでのツェムリンスキーなりのモダン路線から外れ、19世紀ウィーンの世界へと逆戻りしてしまっています。
第4番も6楽章からなりますが、ほぼ第3番のスタンスを踏襲しており、クロード・ドビュッシーの音楽から歩を進めて、無調音楽と調性音楽の狭間で逡巡しています。ただ、シェーンベルクの路線まで踏み込めていないところが、ツェムリンスキーの限界といえます。
ヨハンナ・ミュラー=ヘルマン(Johanna Müller-Hermann, 1868-1941)も、ツェムリンスキーと同じ時代を生きた、オーストリアの作曲家です。
ここに収録されている弦楽四重奏曲は、1908年の作品ですが、19世紀のロマン主義の音楽そのもののような、耽美的な作風を示しています。
ツェムリンスキーがこねくり回し、彼なりにモダナイズしようとした音楽の原型が、まさにミュラー=ヘルマンのこの弦楽四重奏曲のような音楽だったのです。
ウィーン・アルティス四重奏団がこの曲をカップリングにしたのは、ツェムリンスキーが後続の作曲家を生み出す土壌を作りながらも、結局19世紀の枠内から出られない作曲家だということを暗示するという意図なのでしょうか。
上記ツェムリンスキー作品のアダージョ楽章は、確かに、このミュラー=ヘルマンの弦楽四重奏曲が示す雰囲気を引きずっています。
ウィーン・アルティス四重奏団の演奏は、こうした錯綜した音楽を、一つ一つ解きほぐし、手際のいい演奏で明快にまとめています。
特に、ツェムリンスキーの第3番の第三楽章では、妖艶さ静謐さを併せ持った音楽を、美しい音色でしっかりと歌い上げており、ともすると迷子になりがちなこの手の音楽に、しっかりと志向性を持たせています。
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