はじめまして。いわゆる「クラシック音楽」のCD等を少しずつ紹介するつもりです。紹介するCD等のリンクは、基本的にAmazon.co.jpのアフィリエイト用リンクを使用します。なので、Adblock等の広告非表示のアドオンを使うと、当方の想定する表示方法と異なることがあります。
なにはともあれ、よろしくおねがいします。
音楽(Music)とは何か。19世紀に活躍したベルギーの音楽学者、フランソワ=ジョゼフ・フェティ(François Joseph Fétis, 1784-1871)の言葉を借りれば、それは「音の配合により人の感情を感動させる藝術」と定義出来ます。別の言い換えをすれば、音楽とは、「音を媒介にして、人ないし人心に働きかける技術」と言えるでしょうか。音は、音楽を構成する要素ではありますが、それ自体で直ぐに音楽となる保証はなく、「配合」という工程を必要とします。この工程は、そこに在る音を耳にした人が「配合」されていると解釈することで成立する場合もあれば、働きかけようとする何某かが、働きかけられる側の感情を動かすことを企図して「配合」する場合もあります。音を耳にする側に立てば、自然発生的に生じた音も、音を立てる側が意図的に生じさせた音も、捉え方次第で音楽として理解され得るし、逆に意識しないで通り過ぎることも出来ます。音の存在を知覚し、その音についての何らかの解釈(例えば、これは音楽か騒音か、良からぬことの予兆として警戒したり対処したりすべき予兆か)を与えた時点で、我々は音楽に能動的に関わっていると言えます。
芸術として存在する音楽は、可算名詞たる「作品」として存在すると見做される限り、数える時には「曲」という文字が使われます。この「曲」という文字は、象形文字で、まっすぐな木や竹に加工をしてまっすぐでなくした時の形を象って作られたと考えられています。そんなわけで、湾曲、曲折、曲線といった熟語で使われる「曲」は、そのように何らかの力を加えられた結果として、まっすぐではない歪められた形としての「まがる、まげる、おれまがる」などのフィジカルな特徴を最初の意味として持ちます。何らかの力を加えられて歪められたという発想から、本来あるべき理から外れているという意味もあります。この意味で「曲」を使う熟語としては、歪曲、曲学、曲説などがあります。このまがり具合を具に詳しく見る姿勢から、「曲」はこまかく、つぶさに、くわしく検討する意味も加わります。この意味で「曲」を使う熟語としては、委曲、曲尽といったものがあります。まがる、まげるというフィジカルな特徴を言い表す「曲」の意味に立ち戻り、歪曲や曲学といった意味までなぞった時、何らかの力が加わることで、形態が変化するという状況が「曲」の字義としてあることに気づくことが出来るでしょう。ゆえに、その変化を作り出すような芝居・演劇などの筋書きを戯曲と呼ぶように、「曲」という字が使われます。音楽もまた、天然ではおいそれと生み出せない音やタイミングを人為的に配合するという筋書きなので、数詞に「曲」を充てることが妥当だと考えられてるようです。
尤も、ヨーロッパでは数詞を「曲」に固定しているわけではありません。「交響曲を3曲」は、英語で”Three Symphonies”、「管弦楽曲を3曲」は"Three Orchestral pieces"、「何かピアノで3曲ほど弾いてよ」は"Please play about three songs on piano."という風に、文面次第で変わります。
何はともあれ、音楽は、音によるコンポジションであり、それは何らかの形で自然ではありえない形に加工されているということで、数詞に「曲」の文字が使われているのが分かります。
「音」「楽」「曲」といった文字は、日本で発明されているものではなく、これらの文字は古代中国に由来します。Musicというラテン文字を介さずに「音楽とは何か」を考えたらどうなるのでしょう。我々は、何のヒントも与えられずに「音楽」という言葉の字解をしようとすると、「音」を「楽しむ」ではないかと考えてしまようです。実際、ミュージシャンが一般の人向けに即興演奏のワークショップをするとき、この解釈を示して音楽とは何かを説明したことにします。しかし、「音楽」という言葉が初めて使われたのは、秦の始皇帝の父ではないかと噂される呂不韋が編纂した『呂氏春秋』の大楽篇の一節「音樂之所由来者遠矣、生於度量、本於太一。」とするのが定説のようですね。つまり、『呂氏春秋』によれば、紀元前200年以前の呂不韋をして、その由来はとても古く、「度量から生じ、太一に基づいている」とのこと。音を楽しむことを以て音楽と為すなどとは書いていないわけですが、「度量」だの「太一」だのというのは何なのでしょうか。度量は、度が物差し、量が升のことなので、ピタゴラス的に、この音とあの音はどうして違うのだろうか…という疑問の探求から音の規則を探り当てていくことだと考えられます。つまり、物の理を知る便として、あの音この音のそれぞれの性質を追求するうちに、音の規則性に行き当たり、その規則に基づいて音を操る術が徐々に確立されていったというわけですね。こうした規則のバックボーンになっているものが「太一」であるわけですが、これは人名ではなく、宇宙の構成原理を指します。尤も、その原理の捉え方は、今日のそれとは大分違うのでしょうが、天地・万物の根本として、大いなる神のような存在を想定していました。なんにせよ、音楽は、音を楽しむものではなく、宇宙の構成原理に肉薄するための、音による規則の探求が本義だったと言えます。そうであればこそ、司馬遷は『史書』の「楽書」で、太史公に「夫上古明王舉樂者,非以娛心自樂,快意恣欲,將欲為治也。正教者皆始於音,音正而行正。故音樂者,所以動蕩血脈,通流精神而和正心也。」と言わせ、己の娯楽のために時間・場所・場面を弁えずに音楽を貪ることを戒めているのですね。尤も、翻って見れば、司馬遷の時代には既に、己の娯楽のために音楽を貪る連中が跋扈していて、「今日はどれを聴こうかな」などと考えている我々は、そんな連中の一味なんでしょうけれども…。
今日において、逆に司馬遷が釘を刺した音楽の正しい在り方は、こうしてあえて取り上げないと話題にすらならないくらいに、忘れられています。仮に、その「正しい在り方」(「正しい」を「間違った」とか「良い」とか「悪い」とかに置き換えてもいい)について議論したところで、そんな「正しさ」などは、人それぞれだという体の良い相対化に落ち着くのではないでしょうか。つまるところ、正しい音楽は間違った音楽の一種でしかなく、間違った音楽は良い音楽の一種でしかなく、良い音楽は悪い音楽の一種でしかなく、悪い音楽は正しい音楽の一種でしかないという、堂々巡りの中で、音楽として扱うものは、全て正しく、間違っていて、良くて悪いものということになります。
作家の村上春樹の小説『ノルウェイの森』に出てくる言葉として「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」というものがあります。この言葉は、従来対立する概念として捉えていたものを、同一直線上に並べ、包含的に捉え直すテーゼを端的に例示しています。「これは音楽か否か」という対立的な発想も、この包含的なテーゼに立てば、「これまで音楽と捉えられてこなかったものも、全て音楽の一種である」となります。何らかの行為コマンドを「する」か「しない」かという話も、このテーゼの前では「『しない』というコマンドも『する』というコマンドの一種」となります。こうした包含的テーゼに従うことで、「音を耳にした人が「配合」されていると解釈する」という解釈の範囲は、配合されているか・配合されていないかという対立ではなく「配合しないという配合の仕方」として捉え直されることになります。音楽への関わり方が能動的か受動的かという考え方も、このテーゼに従えば、「受動性もまた能動性の一種」ないし「能動性も受動性の一種」と変化します。それが音楽か否かという二項対立は、ありとあらゆるものを音楽の一種とみなすような包含的テーゼに立てば、たちどころに解消されます。
音楽か否かの二項対立が解消され、何事も音楽の一種として片づけられた後に問いが立てられるとすれば、「それはどのような音楽か」ということになります。様々な音楽があり、その様々な音楽のそれぞれに対して様々な解釈が立てることが出来ます。その様々と様々の掛け合わせによって、音楽は「無限の可能性」などという表現が似つかわしいほどの多様性が生じています。その多様性の前には、意図的に音を配合する作曲家・演奏家も、それを享受する聴衆も、キョロキョロ見渡すだけで、大変な運動量になります。
私が、このスペースで書き記していることは、そんなキョロキョロ見渡す一愛好家の、自分なりの見聞の拙い記録に過ぎません。拙い文章ではありますが、御笑覧頂ければ幸いです。
はじめてコメントを貰って感動してマス(TπT)
こっちもボチボチ更新するので、ボチボチ来てみてクダサイ。
普段Y方面(笑)でお世話になっちょります^^
さて、ハナゲブログ愛読者のひとりとして初書き込みしたのは他でもない、昨日のお話で少しお伝えした件を再度伝えておきたく筆を、じゃなく、指を走らせました。カテゴリーの所、一番下でいいので「愛読者専用」みたいなスペースを作成していただきたいのですが、いかがなもんでしょう。もしご面倒であれば、この「杮落」のスペースを活用してもいいかなぁ・・。
「愛読者専用スペース」の件ですがー、コメント欄をうまーく活用すれば、愛読者専用コメントに!!
・・・なるかどうかはわかりませんが、がんばってくださいまし!
ではお言葉に甘えまして、既存のコメントコーナーを柔軟に活用させていただきます!
早速ですが、こないだ催した「定期演奏会ごっこ♪」のプログラム構成を備忘として記録しておきますね(笑)
◎09年5月某日
1周目(J)注:これは構成者の頭文字を示す
1.誰かのストリートコーナー
2.ショスタコヴィチの第1Vn協奏曲
3.ペッタションの第7交響曲
2周目(V)
1.オネゲルのパシフィック231
2.ベルクのVn協奏曲
3.Rシュトラウスの家庭交響曲
3周目(J)
1.いずれかシュトラウスの森のなんたら
2.ブリテンのディヴァージョンズ
3.ブラームスの第4交響曲
4周目(J)
1.リストのメフィストワルツ第1
2.ガーシュインのアイガットリズム変奏曲
3.ベートーヴェンの第7交響曲
以上♪
こうした連なりでしたが、部分的に記憶に甘いところがあって、「誰かの」「いずれか」等で誤魔化してる箇所があるので(笑)、補填してくだすればありがたし!
なお、こういう企画を他者に持ちかけてみても、「おもしろそーですね」という言葉をいただけるのが関の山でして、なかなか現実化しないものなんですが、それなら自分で奮起してやるのも手だろうが、そうするにはあまりに所持するCDが乏しくてねぇ・・。
そういうわけで、あなた様には感謝の言葉尽きることありませんが、今後もよろしくご愛顧に♪
さる情報筋によりますと、ストリート・コーナーはロースソーンの作品、いずれかの森は、ヨハン・シュトラウスJr.の作品だったそうですネ。
またきてくださいまし♪
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