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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Camille Saint-Saëns: Violin Concerto No.3 in B minor, op.61
Zino Francescatti (Vn)
New York Philharmonic / Pierre Boulez
(Rec. 16 December 1975, New York) Live Recording with Applause
Camille Saint-Saëns: Introduction et rondo capricioso, op.28
Zino Francescatti (Vn)
Orchestre Philharmonique de l'O.R.T.F / Manuel Rosenthal
(Rec. 8 May 1961, Versailles) Live Recording with Applause
Paul Ben-Haïm: Violin Sonata for Violin Solo in G major
Zino Francescatti (Vn)
(Rec. 9 August 1958, Festival de Besançon) Live Recording with Applause




ジノ・フランチェスカッティ(Zino Francescatti)ことルネ=シャルル・フランチェスカッティ(René-Charles Francescatti, 1902-1991)は、フランスのマルセイユ出身のヴァイオリン奏者。世界的名声を手にしたフランスのヴァイオリン奏者は、大概パリ音楽院に入ってプルミエ・プリを獲るものですが、フランチェスカッティはパリ音楽院の出身ではありません。父親がイタリアのヴェローナ出身の人で、ニコロ・パガニーニ唯一の弟子と言われたカミーロ・シヴォリに学んだマルセイユ音楽院のヴァイオリン教師でした。母親はその弟子だったので、両親からヴァイオリンの手ほどきを受けられる環境で育ちました。父にヴァイオリンを教わったことで、パガニーニの直系の弟子筋という触れ込みが通用したので、パリ音楽院でプルミエ・プリを取得したという履歴がなくても、活躍できたというわけです。ただ、パリ音楽院の意向を無視できたわけではなく、キワモノではない本格的なヴァイオリン奏者として評価を得るには、ジャック・ティボーの後援を受け、ティボーの計らいでパリ音楽院の学内コンサートに出演するという手順を踏む必要がありました。また、フランチェスカッティはパガニーニの直系として、パガニーニの作品ばかり演奏させられるのを避けるため、パガニーニの作品はそこそこに、自分の目に適う作品を貪欲にレパートリーに入れ、オールマイティなヴァイオリンの名手と見做されるまでに自己研鑽を積みました。1938年にはアメリカに渡り、1976年に演奏活動から引退するまでヤッシャ・ハイフェッツやナタン・ミルシテインといったヴァイオリンの名手たちとしのぎを削る形で世界的な名声を手にしました。引退後は、フランスのラ・シオタで悠々自適の生活を送りました。

ここで紹介するのは、カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)のヴァイオリン協奏曲第3番と《序奏とロンド・カプリチオーソ》の2曲に、パウル・ベン=ハイム(Paul Ben-Haïm, 1897-1984)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタを加えたアルバムです。サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番は、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925-)の指揮するニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)との共演。この録音の25年ほど前にもディミトリ・ミトロプーロスの指揮する同じオーケストラ(但し、当時は「ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団」だった)とスタジオ録音していました。このブーレーズとの共演は、フランチェスカッティが演奏活動から引退を宣言する直前に演奏したもので、CDのジャケットには、このライヴ録音が、ラスト・コンサートと銘打たれています。《序奏とロンド・カプリチオーソ》は、マニュエル・ロザンタール(Manuel Rosenthal, 1904-2003)の指揮するフランス放送フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre Philharmonique de l'O.R.T.F)の伴奏です。
サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番の演奏でフランチェスカッティの介添えを務めるブーレーズは、モンブリソン生まれの音楽家。作曲家としてはオリヴィエ・メシアン門下で、20世紀前衛音楽の旗手として華々しい成功を収めました。一方で、音楽分析の第一人者でもあり、その才能を生かして指揮者としても成功し、クリーヴランド管弦楽団やニューヨーク・フィルハーモニックなどの要職を歴任しました。指揮者としてのブーレーズは、一方で自作および自分が無視できない同世代から先輩世代の作曲家の作品を自分のレパートリーの中核に据え、まるで先行研究を洗い出すように演奏していたものですが、他方で小遣い稼ぎの仕事として、自分の興味の範疇ではない19世紀ロマンティーク以前の音楽も振っていました。グスタフ・マーラーの作品などは、作曲もする指揮者ないし指揮もする作曲家としての立場の同質性から、同じ轍を踏まぬように、レパートリーの射程に入れていたのだと思います。そういう意味では、マーラーはブーレーズにとっては前者の範疇に入る作曲家なのでしょうが、ここに聴くサン=サーンスの作品などは、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督としてのお付き合いという意味合いが強いのだろうと思います。
《序奏とロンド・カプリチオーソ》でフランチェスカッティを支えているロザンタールは、パリ出身の音楽家で、彼も本職は作曲家でした。元々はヴァイオリン奏者になるべく、6歳からヴァイオリンを学びましたが、14歳のときに父親が亡くなったため、映画館のオーケストラでヴァイオリンを弾いて家計を助けながら音楽の勉強をし、1918年にパリ音楽院に入学してジャン・ユレの下で音楽理論、ジュール・ブシューリの下でヴァイオリンを学びました。パリ音楽院ではプルミエ・プリは獲得できなかったものの、1925年にモーリス・ラヴェルに弟子入し、晩年までラヴェルと親交を結びました。作曲家としては多方面に渡って作品を書きましたが、ジャック・オッフェンバックのオペレッタのメロディを編曲して作ったバレエ音楽《パリの喜び》が代表作です。ヴァイオリン奏者としては、コンセール・パドルーやコンセール・ラムルー等に団員として参加して経験を積みましたが、1928年にコンセール・パドルーを指揮したのが縁となって指揮者に転向し、1934年から1944年までデジレ=エミール・アンゲルブレシュトのアシスタントとしてフランス国立放送管弦楽団を指揮していました。第2次世界大戦中はレジスタンス活動も行い、ドイツ軍に捕縛されたこともあります。戦後は、フランス国立放送管弦楽団に音楽監督として返り咲き、1948年からアメリカのシアトル交響楽団の首席指揮者に転出しましたが、1951年に辞任した後は、基本的に世界各地のオーケストラに客演する形で指揮者としての名声を保ちました。

サン=サーンスは、フランスのパリ出身の作曲家。詳しいことは過去の記事をご参照願います。高踏なる文化人であったサン=サーンスは、いわゆる一流人と交流することを好みましたが、そんな交流の中でも懇意にしていたのがパブロ・デ・サラサーテでした。サラサーテは、若かりし頃からサン=サーンスと一緒に演奏し、サン=サーンスが書き上げたヴァイオリン曲も喜んで演奏していました。ここに収録されているヴァイオリン協奏曲第3番と《序奏とロンド・カプリチオーソ》は、サラサーテのために作ったサンーサーンスのヴァイオリン曲の傑作で、両曲とも今日でも数多くのヴァイオリン奏者が取り上げる人気曲です。
ヴァイオリン協奏曲第3番は1880年に脱稿した作品で、脱稿した年の10月15日にハンブルクに於いて、アドルフ・ゲオルク・ベーアの指揮する地元の楽友協会のオーケストラをバックにサラサーテのヴァイオリン独奏で初演されています。こちらは三楽章構成の協奏曲の基本フォーマットに法った作品。第1楽章の管弦楽による先行的主題提示は省略されていますが、こうした作りは、もはや当世の一般的な協奏曲の書法でした。
《序奏とロンド・カプリチオーソ》は、1863年までに書き上げられたヴァイオリンとオーケストラのための小品で、パブロ・デ・サラサーテに捧げるヴァイオリン協奏曲第1番の終楽章として構想されていました。しかし、サラサーテは、ヴァイオリン協奏曲第1番を単一楽章の作品として出版することを勧め、終楽章の予定だったこの曲を、《序奏とロンド・カプリチオーソ》として纏め、これもサラサーテに捧げることにしました。作品は、作曲者の指揮とサラサーテの独奏で1867年4月4日にサル・プレイエルで行われ、以降ヴァイオリン奏者たちのレパートリーとして定着しました。

サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番の演奏は、独奏に関して言えば、ミトロプーロスとのスタジオ録音に比べても、フランチェスカッティの解釈のコンセプトはさほど変わっていないようです。わずかに音がかすれたり、音が脱落しそうになるところはあるものの、ライヴ録音ということを考えれば、全然問題ない仕上がりといえます。ただ、フランチェスカッティにしてみれば、自分の腕の衰えを自覚するに十分だったのでしょう。
ブーレーズの伴奏は、先に書いたとおり、お付き合いで振っているようなスタンスなので、ミトロプーロスのように親身になってパワフルな演奏で守り立てる感じにはなりません。ただ、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会で楽曲分析の講義をするほどの知性派だったので、ブーレーズのオーケストラ・コントロールは明晰で過不足がありません。作曲者の心情を忖度するとか言って余計な注釈を加えるのではなく、楽譜に書かれた音の構造を分解清掃した後に元通りに構築し、作曲者の指示以上の忖度を排しようとするスマートさがブーレーズの伴奏の特徴です。

パウル・ベン=ハイムは、ドイツのミュンヘン出身の作曲家で、出生時は、パウル・フランケンブルガー(Paul Frankenburger)という名前でした。ベン=ハイムを名乗るようになったのは、1933年にパレスチナに移住してからです。ミュンヘン音楽院でフリードリヒ・クローゼとヴァルター・クルボアジェに作曲を学び、1921年から1924年までは指揮者を志してブルーノ・ヴァルターやハンス・クナッパーツブッシュの各氏のアシスタントを務めていました。1924年からアウグスブルクで指揮者として独り立ちをしましたが、1931年からは作曲活動に専念するようになりました。パレスチナに移住し、イスラエルが建国してからも生涯テル・アヴィヴに住み続けたように、ユダヤの民族音楽に強い興味を示し、西洋音楽の技法とユダヤ音楽を融合させることが、ベン=ハイムのライフ・ワークでしたが、彼が住んだ中東地域の音楽の影響も見られる点が、ベン=ハイムの作風の独自性になっています。
ベン=ハイムの無伴奏ヴァイオリン・ソナタは、イェフディ・メニューインのために1951年に完成した作品。その翌年の2月4日にはメニューインの手でニューヨークのカーネギー・ホールで初演されました。作曲にあたっては、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリン曲集や、ベーラ・バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを下敷きにしているのでしょうが、急-緩-急の三楽章構成で、ベーラ・バルトークのそれよりコンパクトに作られています。第1楽章はソナタ形式、第2楽章以下は特に西洋古典音楽の形式にとらわれず、第2楽章ではユダヤ民謡風のメロディ・ラインを自由に引き、ヴァイオリンの歌謡的性格を引き出しています。第3楽章ではホラのモチーフを散りばめて舞踊的な音楽を作り上げています。バルトークがハンガリー民謡をベースにJ.Sバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタに迫ったのだとすれば、ベン=ハイムはユダヤの音楽をベースにしてJ.Sバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータを射程に収めようとしたのかもしれません。
フランチェスカッティの演奏は、まるで自分のために書かれた作品のよう。運弓はなめらかで、重音奏法でも音が潰れず余裕の演奏ぶりです。両端楽章の雄弁な演奏も魅力的ですが、中間楽章のねっとりとした歌を伸びやかに歌うフランチェスカッティのカンタービレの音楽性も聴きどころでしょうか。ちょっと根明な感じもしますが…。


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