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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Camille Saint-Saëns: Danse macabre, op.40
Camille Saint-Saëns: Phaéton, op.39
Camille Saint-Saëns: Le rouet d'Omphale, op.31
Philharmonia Orchestra / Chares Dutoit
(Rec. June 1980)
Camille Saint-Saëns: Introduction et Rondo capriccioso, op.28
Camille Saint-Saëns: Havanaise, op.83
Kyung Wha Chung (Vn.)
Royal Philharmonic Orchestra / Chares Dutoit
(Rec. April 1977)
Camille Saint-Saëns: La jeunesse d'Hercule, op.50
Camille Saint-Saëns: Marche héroïque, op.34
Philharmonia Orchestra / Chares Dutoit
(Rec. June 1980)








カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)は、フランスの作曲家です。
パリの役人の家に生まれたものの、生後三ヶ月で父親と死別し、母親クレマンスとその叔母、シャルロット・マッソンの手で育てられました。2歳の頃にマッソンの弾くピアノを再現して絶対音感を持っていることを認められ、マッソンから音楽の手ほどきを受けて3才の時に自力でピアノ小品を作曲しました。5歳でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのピアノ伴奏として初舞台を踏み、天才少年として評判を呼ぶことになりました。
7歳の時にはカミーユ=マリー・スタマティにピアノ、ピエール・マルダンに作曲、アレクサンドル・ボエリーにオルガンをそれぞれ教わり、10歳でピアノ奏者としてデビューしています。その後すぐにパリ音楽院に入り、フランソワ・ベノワに師事してオルガンの腕に磨きをかけ、ジャック=フロマンタール・アレヴィとシャルル・グノーの下で作曲法を学び直しています。18歳の時に発表した交響曲で作曲家として認められました。しかし、1852年にパリ音楽協会主催のボルドーの聖セシル教会のための音楽コンクールで《聖セシル頌歌》を出品して優勝したり、1900年にパリ万国博覧会のためにカンタータ《天上の火》を提出して採用されたりと、その作曲技術は折り紙付きだったにも関わらず、1851年と1863年の二回に渡って応募したローマ大賞の作品はいずれも落選しています。なにはともあれ、若手作曲家の登竜門と言われたローマ大賞の威光抜きで着実に業績を重ねたサン=サーンスは、アルジェリアのアルジェで客死した時にその遺体が丁重にパリまで運ばれ、国葬という形で敬意が払われるほどの国民的な作曲家の地位を築き上げました。
音楽史上、サン=サーンスの特筆すべき業績は、 セザール・フランクらと共に「国民音楽協会」 の発起人になったことです。1871年に普仏戦争に負けたフランス国内で、「アルス・ガリカ」(ガリアの芸術≒フランスの芸術)を標語に掲げ、フランス国籍者のみに入会資格を与えるという「国民音楽協会」の設立は、 フランス人のフランス人によるフランス人のための芸術を明確化しようという文化行動の拠り所になり、当時発表する場のなかった若手のフランス人作曲家の作品発表の場として機能しました。ただ、サン=サーンスはフランス人作曲家の活躍の場を提供するという創立時の原点にこだわり、1880年代にはフランス国内に留まらない作品発表の場にしたいフランクの派閥と対立するようになりました。1886年にはフランクが協会の新総裁に選出されたのを受けて、国民音楽協会と絶交してしまいました。
辛辣な音楽評論家としても名を残しており、若きクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキーも、サン=サーンスに酷評されています。彼らが台頭していたころには、既に時代遅れの作曲家と見なされていましたが、実際は、その時代遅れの型枠を堅持しつつ、自分が気になった語法は実験的に取り入れる柔軟さも見せていました。
サン=サーンスは音楽方面の活躍だけでなく、7歳でフランス語だけでなくラテン語まで習得し、詩作や絵画、天文学や数学、植物や昆虫に至るまで幅広い知識を誇った教養人としても知られていましたが、社交を唯一の不得手としていました。
私生活の面でいえば、大叔母のマッソンや母クレマンスの偏った教育カリキュラムのおかげで、幼少時から青年期まで友達と遊んだり恋人を作ったりすることがなく、そのために対人関係で苦労をする羽目になりました。1875年に当時19歳だった実業家の娘のマリー=ロール・トリュフォーと所帯を持ち、子供を二人儲けたものの、1878年に相次いでバルコニーからの転落事故や肺炎などで子供を失っています。結婚当初からハネムーンにも行かず、あまり家に戻らなかったサン=サーンスは、1881年にはトリュフォーの前から逃亡して母の元に戻り、婚姻関係を破綻させています。
大叔母のマッソンや母クレマンスの偏った教育カリキュラムによる人間関係構築の経験の浅さの問題は、何をやっても優秀な成績でこなしてしまう多才さと合わさることで、自分のように人ができないことが理解できずに平然と毒を吐くような人格を形成することになりました。こうしたキャラクターは、音楽評論で扱き下ろす分には有用でしたが、論敵を必要以上に多く作ることになりました。国民音楽協会を去ることになったのも、こうしたキャラクターによる駆け引きの下手さが一因としてあるような気がします。

19世紀から20世紀の変わり目において新機軸を打ち出さなかったり、新機軸側に立った作曲活動を行わなかった人たちは「時代遅れ」のレッテルを張られ、それまでの肯定的評価が反転するという事態になりました。サン=サーンスなどは、無調音楽が台頭してきた時期に旧態然とした作曲技法で曲を作っていたため、「時代遅れ」と見做された典型例だといえます。しかし、こうしたレッテル貼りも決して一枚岩ではなく、サン=サーンスの作品は、彼の音楽を愛好する第二次世界大戦前から活動していたフランス系の演奏家たちを中心に演奏され続けました。今日では、「時代遅れ」と見做された作曲家の作品の発掘が演奏会のプログラムの充実の方策として再評価されるようになり、サン=サーンスもその流れの中で作品の発掘が進められています。
本CDは、そんなサン=サーンスの作品の中でも、とりわけ人気の高い管弦楽曲等を詰め合わせており、再評価の進むサン=サーンスの世界への格好の入り口になることでしょう。

最初に収録されているのは、1874年作の交響詩《死の舞踏》(Danse macabre)。
交響詩は、フランツ・リストが編み出した音楽表現のジャンルで、オーケストラの機能を駆使して文学世界を音楽で表現することを狙っています。
《死の舞踏》の元々は、フランスの詩人であるアンリ・カザリの詩に1872年に付曲した歌曲でした。
夜中に死神が墓場にやってきて、死者たちと宴会を繰り広げる様を、カラフルなオーケストレーションで描いており、リストの定義する交響詩の概念に合致しています。
死神の役は、ヴァイオリン独奏(大概はコンサート・マスターが務める)が受け持ちますが、死神としての不気味さを表現するために、ヴァイオリンの第1弦を半音下げて変ホ音に調整しています。こうした変則的な調弦をスコルダトゥーラといいますが、こうしたスコルダトゥーラによって、死神の不気味な感じを響きで作りだすことができます。
初演は、1875年1月24日のパリのシャトレ座でエドゥアール・コロンヌの指揮で行われました。初演時は死を諧謔的に扱ったということでブーイングにさらされましたが、リストはこの曲を大変気に入り、ピアノ独奏用に編曲していました。

交響詩《ファエトン》(1873年作)、《オンファールの糸車》(1871年作)、《ヘラクレスの青年時代》(1877年作)の3作は、それぞれギリシャ神話を題材にしたもの。
《ファエトン》(Phaéton)は、太陽神ヘリオス(≒アポロン)とクリュメネの息子であるパエトンの話を元にしています。自分の父がヘリオスであることで友達と口論になったパエトンは、ことの真実を証明するために父に会いに行き、父の乗る太陽の馬車を借りて操縦しようとします。しかし、父親のように操縦できなかったパエトンは、馬車を暴走させてしまい、地球に大火災を齎してしまいました。一連の事態を収拾しに動いた万能神のゼウスは、パエトンを雷で撃ち殺し、太陽の車を元に戻しました。この作品では、パエトンが太陽の車に乗り込んで出発するあたりから、パエトンの亡骸がエリダノス川(現在のイタリアのポー川)に墜落し、そこの妖精たちによって葬られるところまでを描いています。作曲された年の12月7日にシャトレ座でコロンヌの指揮で初演されました。

《オンファールの糸車》(Le rouet d'Omphale)はリディアの女王のオンファールのところに奴隷として働いていた頃のヘラクレスを描いた作品。ヘラクレスは、オンファールのところで女装をさせられ、糸紡ぎの仕事をさせられたのでした。作品はまず2台のピアノ用として作られ、作曲者とアレクシス・ド・カスティヨンのピアノで作曲された年の12月7日に試演されたという記録が残っています。その後すぐにオーケストレーションを行い、1872年4月14日にコンセール・ポピュレールで初演されました。
作品は、オーギュスタ・オルメスという作曲家に献呈され、2台のピアノ用のバージョンの初演では、本来であればオルメスと作曲者でコンビを組んで初演されるはずでした。当時からサン=サーンスはオルメスに恋慕の情を抱いており、彼女の魅力をこの曲で表現したのではないかという説もあります。

《ヘラクレスの青年時代》(La jeunesse d'Hercule)は、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスの成長物語を概念的に表現した音楽で、まず凛々しい青年像を描き、さらにその青年に降りかかる性的誘惑をワルツ風に表現したあと、その煩悩を断ち切るまでを音楽化しています。作曲された年の1月28日にシャトレ座でコロンヌの指揮で初演されています。

《英雄的行進曲》(Marche héroïque)は1870年に、パリのグランド・ホテルでの慈善演奏会の出し物として、ピアノ連弾の形で発表したものです。サン=サーンスとアルベール・ラヴィニャックの手で初演されました。1871年にはオーケストラ用に編曲され、その年の12月10日にコンセール・ポピュレールで、作曲者自身の指揮で初演されました。
作品の献辞には「アンリ・ルニョーの思い出に捧ぐ」と書かれていますが、ルニョーは1871年の1月に27歳の若さで普仏戦争で戦死した、サン=サーンスの親友の画家です。その響きからは、ルニョーを失った痛切さを直接的に感じることはできませんが、敗戦の憂き目に遭ったフランスの人々の心を鼓舞するような勇ましさがあります。サン=サーンスは、こうして華麗なオーケストレーションを纏わせることで、フランスの為に散った若い画家の記憶を鮮やかにとどめようとしたのでしょうか。

《序奏とロンド・カプリチオーソ》(Introduction et Rondo capriccioso)は、スペイン出身のヴァイオリニスト、パブロ・デ・サラサーテの為に書いた1863年の作品です。
元々は、1858年からサラサーテの依頼で作曲中だったヴァイオリン協奏曲第1番の終楽章として構想されていましたが、ヴァイオリン協奏曲第1番は単一楽章の作品として纏められ、結局使われなかった素材がこの作品に転化しました。作品の初演は、1867年の4月4日にサル・プレイエルで、サラサーテの独奏と作曲者自身の指揮で、先述のヴァイオリン協奏曲第1番と一緒に行われました。
序奏付きのロンド形式という構造は、後年のヴァイオリン協奏曲第3番の終楽章を彷彿とさせますが、独奏ヴァイオリンの露出はこちらのほうが多めです。序奏で使われたモチーフも、終結部を導き出すのに効果的に使われており、作品の献呈を受けたサラサーテがヨーロッパのあちこちで演奏して回るほど気に入っていたのも頷けます。この曲が出版される前には、ジョルジュ・ビゼーもこの曲を知り、自らオーケストラの伴奏をピアノ用にリダクションしています。サン=サーンスはビゼーを大変尊敬しており、ビゼーがこの曲を編曲してくれたことを生涯の誇りとしました。

《ハバネラ》(Havanaise)は、1887年の作で、翌年にデュラン社から出版されました。ラファエル・ディアズ・アルベルティーニというキューバ出身のヴァイオリニストに献呈されています。1885年からサン=サーンスは、アルベルティーニと一緒に世界を演奏して回り、その旅の途中でこの作品を着想しました。先ずはピアノ伴奏版が書かれ、並行してオーケストラ伴奏版も書かれています。作品の初演は1897年の1月7日にシャトレ座でピエール=マルタン・マルシックの独奏とコロンヌの指揮で行われました。
「ハバネラ」というのは、フランスのコントルダンスという舞曲を由来にするといわれますが、このコントルダンスはイギリスのカントリー・ダンスが元になっています。ハバネラが発生した経緯については、大まかに2種類の見解があります。一つはフランスからスペインを通ってキューバに伝播してヨーロッパに逆輸入されたというルート。もう一つはフランス領サン・ドマングに伝わり、そのサン・ドマングで革命が起こってハイチになったときに、ハイチに住んでいたフランス人や元奴隷などがスペイン領のキューバに逃れ、そこで伝えたコントルダンスが現地で変容したというルートです。なんにせよ、19世紀にハバネラはスペインを経由してヨーロッパで流行していました。サン=サーンスの《ハバネラ》は、その舞曲のリズムを基調にしながらも、舞曲と関係ないエピソードを入れて曲想の変化を図り、多彩な音楽に作り上げています。

本CDの演奏について、指揮を務めるのは、スイスはローザンヌ出身の指揮者、シャルル・デュトワ(Charles Dutoit, 1936-)です。
デュトワは地元とジュネーヴの音楽院でヴァイオリン、打楽器、作曲法と指揮法を習得しています。その後は、エルネスト・アンセルメに私淑したり、イタリアのキジアーナ音楽院でアルチェオ・ガリエラの薫陶を受けたり、アメリカのタングルウッド音楽祭でシャルル・ミュンシュに教わったり、ルツェルン音楽祭のユース・オーケストラでヴィオラ奏者としてヘルベルト・フォン・カラヤン謦咳に接したりしながら指揮者としての素養に磨きをかけました。1958年にローザンヌ大学の合唱団の指揮者として活動を始め、その翌年にはローザンヌの放送局のオーケストラで、本格的な指揮者デビューを飾りました。1967年にはベルン交響楽団の首席指揮者に就任する傍らで、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団のルドルフ・ケンペの助手を務め、1973年から1975年までメキシコ国立交響楽団、1975年から1978年までイェーテボリ交響楽団の首席指揮者とベルン交響楽団のポストを掛け持ちで務めあげました。デュトワが世界的な知名度を持つようになったのは1977年にモントリオール交響楽団の首席指揮者に就任してからのことです。このモントリオール交響楽団の繁栄期を作り上げたことで、カナダのケベック州から勲章も贈られています。1991年からはフランス国立管弦楽団の首席指揮者を兼任し、1996年からNHK交響楽団の首席指揮者(1998年から音楽監督に昇格)に就任するなど、八面六臂の活躍を見せました。2002年にモントリオール交響楽団の職を辞してからはしばらくフリーランスの立場で世界各地のオーケストラに客演していましたが、2008年からフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督として活動しています。

フィルハーモニア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)を振って録音したサン=サーンスの交響詩4篇と《英雄的行進曲》は、モントリオール交響楽団の首席指揮者として頭角を現してきたデュトワの魅力を感じさせる見事な仕上がりで聴かせます。
出色の出来は、《死の舞踏》と《オンファールの糸車》で、《死の舞踏》は品の良い噺家の語り口のような演奏で、作品のユーモラスな側面に光を当てています。《オンファールの糸車》も、ヘラクレスを御するオンファールのたおやかな質感が余すところなく表現されていますが、中間部のヘラクレスが呻きながらうごめく描写も、グル―ヴ感を感じさせ、退屈させません。
《ファエトン》や《ヘラクレスの青年時代》などでも、フィルハーモニア管弦楽団の優秀なアンサンブルを縦横無尽に活用し、作品の物語性を浮き彫りにするような用意周到な演奏を聴かせますが、少々野暮ったくもあります。
《英雄的行進曲》は金管セクションを綺麗に響かせた高雅な行進曲に仕上がっており、本CDの最後に収録することで、爽やかな印象でCDを聴き終えることができます。

《序奏とロンド・カプリチオーソ》と《ハバネラ》は、韓国はソウル生まれのヴァイオリニスト、チョン・キョンファ(鄭京和, Kyung Wha Chung, 1948-)が独奏者として登場し、デュトワの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(Royal Philharmonic Orchestra)が伴奏を務めています。
チョンは12歳でアメリカのジュリアード音楽院に留学してイヴァン・ガラミアンに師事し、1967年のレーヴェントリット国際音楽コンクールでピンカス・ズーカーマンと第1位を分け合った逸材です。
その後ガラミアンの勧めでヨーゼフ・シゲティにも学び、1970年にロンドンで改めてデビューを飾っています。
チョンのヴァイオリンは、勢いと集中力を武器にメリハリの効いた演奏を披露しています。ガラミアンの門下生だけあって技巧的には安定しており、聴かせどころのツボも心得ています。往年のフランスの名手たちのような洒落っ気はありませんが、《序奏とロンド・カプリチオーソ》では、そのスピード感あふれる演奏が聴き手にスリルを味わわせてくれます。
《ハバネラ》も同傾向の演奏で、中間部の華麗な技巧を煌びやかにこなし、キリッとした美しさ現出させています。ただ、両端部では音の密度の低さを持て余したのか、作品の艶やかさが少々不足します。
ともすると直線的になりがちなチョンのヴァイオリンですが、デュトワがその分のニュアンスを補強しているので、どちらの曲も、全体的にスッキリとした感じに仕上げられており、聴後感はサッパリしています。

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