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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Jean Sibelius: Violin Concerto in D minor, op.47
Camilla Wicks (Vn.)
Stockholm Radio Symphony Orchestra / Sixten Ehrling
(Rec. 18 February 1952)
Fartein Valen: Violin Concerto, op.37
Camilla Wicks (Vn.)
Oslo Philharmonic Orchestra / Øivin Fjeldstad
(Rec. 1949)
Ernest Bloch: Nigun
Dmitri Kabalevsky: Improvisation
Sergei Prokofiev: March from "The Love of Three Oranges"
Dmitri Shostakovich (arr. David Grunes): Polka from "The Age of Gold"
Dmitri Shostakovich (arr. Dmitri Tziganov): Prelude No.10
Dmitri Shostakovich (arr. Dmitri Tziganov): Prelude No.15
Dmitri Shostakovich (arr. Dmitri Tziganov): Prelude No.16
Dmitri Shostakovich (arr. Dmitri Tziganov): Prelude No.24
Camilla Wicks (Vn.)
Sixten Ehrling (Pf.)
(Rec. 1949)
Pablo de Sarasate: Malagueña, op.22-1
Julian Aguirre (arr. Jascha Heifetz): Huella
Flausino Vale (arr. Jascha Heifetz): Ao pé da foqueira (Preludio No.15)
Arthur Benjamin: From San Domingo
Igor Stravinsky: Pastorale
Camilla Wicks (Vn.) with Piano accompaniment
(Rec. 1951)








本CDは、アメリカ出身のヴァイオリニスト、カミラ・ウィックス(Camilla Wicks, 1928-)の20代の頃の録音を集めています。
演目は、収録順に、ジャン・シベリウス(Jean Sibelius, 1865-1957)のヴァイオリン協奏曲、ファティン・ヴァーレン(Fartein Valen, 1887-1952)のヴァイオリン協奏曲、エルネスト・ブロッホ(Ernest Bloch, 1880-1959)の《バール・シェム》の〈ニーグン〉や、ドミトリー・カバレフスキー(Dmitri Kabalevsky, 1904-1987)の即興曲、 セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev, 1891-1957)のオペラ《三つのオレンジへの恋》からの〈行進曲〉、ドミトリー・ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich, 1906-1975)のバレエ音楽《黄金時代》のポルカをアメリカ人作編曲家のダヴィット・グリューン (David Grunes, 1903-1994)が編曲したものや、同じくショスタコーヴィチの24の前奏曲から数曲をドミトリー・ツィガーノフ(Dmitri Tziganov, 1903-1992)が編曲したもの、パブロ・デ・サラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)のスペイン舞曲集から〈マラゲーニャ〉、フリアン・アギーレ(Julian Aguirre, 1868-1924)の《足跡》、フラウシーノ・ヴァレ(Flausino Vale, 1861-1920)の無伴奏ヴァイオリンの為の前奏曲集から〈かがり火のそばで〉、アーサー・ベンジャミン(Arthur Benjamin, 1893-1960)の《サン・ドミンゴから》、イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)の《牧歌》の全15曲です。アギーレとヴァレの作品には、ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz, 1901-1987)が編曲者としてクレジットされていますが、プロコフィエフの〈行進曲〉もハイフェッツの編曲ではないかと思います。
シベリウスの協奏曲はシクステン・エールリンク(Sixten Ehrling, 1918-2005)の指揮するストックホルム放送交響楽団(Stockholm Radio Symphony Orchestra)、ヴァーレンの協奏曲はエイヴィン・フィエルスタ(Øivin Fjeldstad, 1903-1983)の指揮するオスロ・フィルハーモニー管弦楽団(本CDでは"Oslo philharomonic Symphony Orchestra"と表記)がそれぞれ伴奏を務め、ブロッホからショスタコーヴィチの作品までエールリンクがピアノ伴奏をつけています。サラサーテ以下の音源は、コロンビア社への録音で、このCDで復刻されるまでお蔵入りになっていたものということもあってか、ピアノ伴奏者の名前が明記されていません。

シベリウスはフィンランド南部のハメーンリンナで生まれた作曲家。スウェーデン系の家系で、本名はヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)と言いますが、貿易商だった叔父の影響で、芸名としてフランス風の「ジャン」を使っていました。
弁護士になってほしいという家族の要望に従って、1885年にヘルシンキ大学の法科に入学したシベリウスでしたが、1882年に開設されたばかりのヘルシンキ音楽院にも籍を置き、結局法科の方はすぐに中退しています。音楽院では院長のマルティン・ヴェゲリウスから音楽理論を教わり、1889年にはベルリンに留学してアルベルト・ベッカーに対位法を学びながら、フェルッチョ・ブゾーニの知遇を得たり、ハンス・フォン・ビューローやリヒャルト・シュトラウスの演奏会に出かけたりしました。翌年にはウィーンに遊学してロベルト・フックスやカール・ゴルトマルクらの薫陶を受けましたが、この地でヨハネス・ブラームスやアントン・ブルックナーなどの音楽に触れて刺激を受けています。1892年にヘルシンキで自作のクレルヴォ交響曲を発表して作曲家としての活動を本格化させましたが、人気が出るようになったのは、1899年にカールロ・ベルグボムの書いた『愛国記念劇』の劇音楽を手掛けてからのことです。特に終曲の〈フィンランドは目覚める〉は評判になり、シベリウスはこれを交響詩《フィンランディア》に改作しています。この「フィンランディア」の題名を考案したのは、フィンランド貴族のアクセル・カルペラン男爵です。この題名の考案が縁となってカルペラン男爵はシベリウスのパトロンとなり、シベリウスに見聞を広めてもらおうとイタリア旅行に行かせたり、シベリウスの荒んだ生活を改善させるためにヤルヴェンパーにシベリウスを引っ越しさせたりしました。1919年にカルペラン男爵が亡くなったとき、シベリウスは虚脱感に見舞われています。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、1903年から翌年にかけて書かれた作品ですが、シベリウスが友達に送った書簡を調べると、『愛国記念劇』の劇音楽を手掛けた1899年頃からぼんやりと構想を持っていたことが分かります。1900年に入ると、カルペラン男爵がヴァイオリン協奏曲を書くよう提案するようになり、1902年にベルリンでドイツ人ヴァイオリン奏者のヴィリー・ブルメスターの知己を得たことで、ブルメスターに献呈するという大義名分でヴァイオリン協奏曲を書く決意を固めました。作られた曲は、1904年の3月あたりを目途に、ベルリンでブルメスターの独奏で初演する手筈でしたが、浪費癖のひどいシベリウスが借金返済やヤルヴェンパーでの新居「アイノラ」の建築のための資金を工面するために演奏会を開かなければならなくなり、その出し物として、無理矢理このヴァイオリン協奏曲を演奏することにしました。急な日程変更に売れっ子だったブルメスターは対応できず、2月8日に行われたヘルシンキ・フィルハーモニー協会の演奏会での作曲者自身の指揮による初演では、ヘルシンキ音楽院のヴァイオリン教師であるヴィクトル・ノヴァーチェクが独奏を担当しました。初演は準備不足もあって成功とは言えず、評論家たちからも作品の冗長さが批判されてしまいました。その後、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いて、自作の未熟さを反省したシベリウスは、1905年に大幅な改訂を施し、初稿を封印しました。尚、この初稿については、遺族が保管しており、研究目的であれば閲覧も許されますが、原則として演奏は作曲者自身によって禁じられており、1990年にBISレーベルが特別な許可を得て録音したものでのみ聴くことが出来ます。なにはともあれ、この決定稿の初演は、完成した年の10月19日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で、リヒャルト・シュトラウスの指揮で初演され、好評を博しました。この時の初演の独奏も、ブルメスターが日程を調整できず、チェコ人のカレル・ハリーシュが独奏を担当しました。助言者としてのポジションにありながら、初稿も決定稿も初演の独奏を担当させてもらえなかったブルメスターは、堪忍袋の緒が切れ、シベリウスの作品を絶対に演奏しないことを宣言し、シベリウスと絶縁しました。シベリウスも、これを受けて、マジャール人ヴァイオリン奏者のフランツ・フォン・ヴェチェイことフェレンツ・ヴェチェイに献呈先を変更しています。

このヴァイオリン協奏曲の構成は、急-緩-急の3楽章構成。最初の楽章が曲全体の半分を占めています。この第1楽章は、ソナタ形式を下敷きにしながら、いろんなことを試しています。アレグロ・モデラート(Allegro moderato)の速度標語による出だしはオーケストラによる主題提示をカットしてヴァイオリン独奏がいきなり第一主題を提示しますが、この主題を提示するまでの短い前奏でオーケストラの第一および第二ヴァイオリン・セクションをそれぞれ二手に分け(これをディヴィジという。)、ニ短調の構成音をさざ波のようなトレモロで演奏させるという工夫を施しています。また、独奏ヴァイオリンの奏でる第一主題の動機をクラリネットをはじめとするオーケストラの各セクションが模倣しながら力をつけ、独奏ヴァイオリンに拮抗するように進行させることで、オーケストラの交響的な枠組みを強調し、第二主題の登場の逼迫した必要性を演出しています。
オーケストラの不穏な動きを避けるように、独奏ヴァイオリンがカデンツァ風の口上を奏で、それを奏できったところで、オーケストラがニ短調の2/2拍子からト短調の6/4拍子に切り替えて第二主題の登場を準備し、独奏ヴァイオリンが現れるところでモルト・モデラート・エ・トランクィロ(Molto moderato e tranquillo)に切り替わり、独奏がオクターヴの重音奏法で第二主題を奏でる局面で調号が変ニ長調、標語がラルガメンテ(Largamente)に切り替わります。ただし、ここでもオーケストラがすでに第三主題のモチーフを使って独奏の合いの手を入れ、独奏がトリルを奏できると平行調の変ロ短調に移り、標語もアレグロ・モルト(Allegro molto)、拍子も2/2拍子に切り替わってオーケストラが堰を切ったように第三主題を奏でます。
オーケストラが第三主題を出し切ると、おもむろに独奏が現れてニ短調、モデラート・アッサイ(Moderato assai)に切り替わり、カデンツァに入りますが、ここは従来の協奏曲のソナタ形式であれば、本来オーケストラ伴奏つきの展開部が現れる場面です。シベリウスは、その展開部を無伴奏ヴァイオリンで乗り切るという斬新な書法で聴き手を釘付けにしています。カデンツァ兼展開部が終結すると、アレグロ・モデラートに戻り、弦楽合奏のトレモロに乗ったファゴットとの掛け合いで第一主題からの再現部が始まりますが、出てきた主題のすべてを拾いながら展開を続け、第三主題の再現部に至ってアレグロ・モルト(Allegro molto vivace)に変わり、この主題の展開をコーダにして喧騒を断ち切るようにニ音のユニゾンで楽章を終結させています。闘争的なクライマックスの継続的生成を志向した、若きシベリウスの野心的な楽章といえるでしょう。
中間楽章はアダージョ・ディ・モルト(Adagio di molto)という標語の掲げられた変ロ長調の三部形式の楽章。調性感の揺らぎを感じさせる木管セクションによる導入を経て、独奏ヴァイオリンが平穏なメロディ導き出しますが、中間部に入って弦楽合奏を主体にして第1楽章で語り残したクライマックスを復興させようとしています。これを独奏ヴァイオリンが重音奏法などを駆使して宥め、元の平穏さに戻るという作りになっています。
第3楽章はニ長調を基調にするロンド形式のフィナーレ。最終楽章にロンド形式を持ってくるあたりは、古典的な協奏曲のスタイルを踏襲しています。ティンパニと低弦で舞曲風のリズムを刻み、その上をシンコペーションでヴァイオリンが主要主題を奏でるというもの。この楽章は、イギリス人作曲家のドナルド・フランシス・トーヴィーが「白クマのポロネーズ」と評したように、祝祭的ではなく野性的な躍動が表現されています。

ヴァーレンはスタヴァンゲルに生まれたノルウェーの作曲家です。幼少期に5年ほどマダガスカル島に移住したことがあるヴァーレンは、当初、言語学を学んでいました。しかし、ピアノを嗜むうちに音楽への情熱が言語学にとって代わり、オルガニストで作曲家のカタリヌス・エリングにオルガン演奏と音楽理論を学び、オルガン演奏で学位を取得して1909年にベルリンに留学しています。ベルリンではマックス・ブルッフらに作曲を教わりましたが、ブルッフの理論に飽き足らず、不協和音による対位法の理論構築に力を注ぎました。その結果、アルノルト・シェーンベルクの無調音楽へのアプローチとは別のルートで無調音楽を極めることになり、地元ノルウェーでは、無調音楽の重要な開拓者と目される存在になりました。没後もグレン・グールドが高く評価し、彼の作品を取り上げています。
ここに収録されたヴァイオリン協奏曲は、1940年に作曲された作品。1947年10月24日にオスロのフィルハーモニー協会の演奏会でオッド・グリュナー=ヘッゲの指揮とエルンスト・グレイザーの独奏で初演されたばかりということで、本録音が行われた時はまだ新作でした。ヴァイオリン協奏曲は12分程の単一楽章の作品ですが、調性を定めず、独奏ヴァイオリンの紡ぎだす息の長い旋律線を軸にオーケストラが音を重ねていく抒情的な作品です。その世界観はフレデリック・ディーリアスの無調音楽版といったところでしょうか。終盤になってトランペットがコラール《イエス、わが信頼》(ヨハン・ゼバスティアン・バッハのBWV365に収められたコラール)のメロディを吹くあたりは、アルバン・ベルクのそれを想起させます。この作品がヴァーレンの姪の死が作曲のきっかけになったという点も、ベルクのそれと似ています。この曲は大変な評判となり、1951年にはこの曲をテーマとしたヴァーレンを紹介する映像フィルムが作られました。ここに収録されているウィックスの演奏は、おそらくそのフィルム用に録音されていたものではないかと考えられます。なにはともあれ、このCDに収められた録音は、この曲の初録音でしょう。

ブロッホは、スイス出身のユダヤ系の作曲家です。イヴァン・クノル等に作曲法を学びましたが、ウジェーヌ・イザイの下でもヴァイオリンの修業を積んでおり、ヴァイオリン奏法に精通していました。ブロッホ本人は、ユダヤ教と作品の結びつきを強調されるのを好みませんでしたが、ヘブライ文化やユダヤ教の教義に題材を求めた作品が多く、ここに聴く《パール・シェム》からの〈ニーグン〉も、題名からしてヘブライ語を基にしています。《パール・シェム》は、もともと〈ヴィドゥイ〉(懺悔)、〈ニーグン〉(即興)、〈シムハト・トラー〉(歓喜)の3曲からなりますが、題名の「バール・シェム」も、ハシディズムの開祖であるバール・シェム・トープの名前から採られています。このCDに収録されているように、2曲目の〈ニーグン〉が単独で取り上げられることが少なくありませんが、ヘブライの旋法を用いながら奔放に展開される音楽の演奏効果の高さが、演奏者の表現意欲を刺激するからなのでしょう。
プロコフィエフは、ロシア出身の作曲家で、世界中旅してまわった末に「ソ連」と化した祖国に戻って活躍しました。《3つのオレンジへの恋》は、アメリカ滞在中の1919年にシカゴ歌劇場の依頼で書かれた歌劇。依頼を持ってきた歌劇場の指揮者であったクレオフォンテ・カンパニーニが急逝したことで、初演の目途が立たなくなり、お蔵入りになることを恐れたプロコフィエフは、すぐさま歌劇の素材から管弦楽用の組曲を作っています。歌劇の方は1921年にプロコフィエフ自身の指揮でシカゴ歌劇場で初演されましたが、あまり評判が取れませんでした。むしろ、1924年にパリで初演された組曲版のほうが成功し、特に3曲目の〈行進曲〉が人気を博しました。ここで聴かれるように、おそらくハイフェッツが編曲した形であれ、コンサート用の小品として演奏されていたという事実から、この曲の人気のほどがわかると思います。
ショスタコーヴィチは、ロシア帝国領サンクトペテルブルクに生まれた旧ソ連の作曲家です。9歳の時にマリヤ・シドロフスカヤの商業学校に進学するも、ニコライ・リムスキー=コルサコフの《皇帝サルタンの物語》を聴いて音楽への興味を持つようになり、ペテルブルク音楽院卒の母親から音楽の手ほどきを受けました。両親はイグナティウス・グリャッセールの音楽学校にショスタコーヴィチを通わせ、母親のピアノの師でもあったアレクサンドラ・ロサノヴァ=ネチャーエフのところでもピアノを学ばせています。1919年には母の母校(1914年から第一次世界大戦の影響でペトログラード音楽院と改称)でアレクサンドル・グラズノフとマクシミリアン・シテインベルクに作曲、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ソコロフに和声と対位法、レオニード・ニコラーエフにピアノをそれぞれ師事しています。1925年には交響曲第1番を音楽院の卒業制作として作曲し、この作品を通して国際的な名声を得ました。最初はヨーロッパの先鋭的な作曲技法を意欲的に取り入れた才気煥発な作品作りを行いましたが、ソ連当局から批判を受けると、それに応じてうまく立ち回り、面従腹背の精神で作曲活動を展開しました。バレエ音楽《黄金時代》は1929年から翌年にかけて作曲されたバレエ音楽で、1930年にアレクサンドル・ガウクの指揮によりレニングラードで初演されました。しかし、初演は成功せず、そのままバレエ音楽としてはお蔵入りになりました。ただ、バレエ自体は失敗したものの、音楽は高く評価され、特に〈ポルカ〉が人気を集めました。アメリカの作編曲家のグリューンは、その人気に目をつけて、そのポルカをヴァイオリン用に編曲してアメリカに輸入しましたが、他にもセルゲイ・プロコフィエフの作品やソ連の赤軍の愛唱歌などを独自に編曲してアメリカで広めています。
ショスタコーヴィチの前奏曲集は、1933年に作曲されたもの。24曲セットという点には、フレデリック・ショパンへの意識が感じられます。ショスタコーヴィチは、作曲家としてだけでなく、ピアノ奏者としての成功も目論んでいましたが、1927年のショパン国際ピアノ・コンクールで特別賞を貰うにとどまったことにショックを受けて、しばらくピアノから遠ざかりました。そんなショスタコーヴィチがショックから立ち直る時に書いたのがこの前奏曲集でした。この曲を、ショスタコーヴィチの親友でベートーヴェン四重奏団の主宰者だったツィガーノフがヴァイオリン用に編曲しました。

サラサーテは、19世紀後半に活躍したスペインのパンプローナ出身の音楽家で、本名をブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Martín Melitón Pablo de Sarasate y Navascués)と言います。ペイ・バスク・フランセのビアリッツで気管支炎を悪化させて亡くなりましたが、最晩年までヴァイオリンの名手として高い名声を誇りました。マドリード音楽院でホセ・コーティエにヴァイオリンを学び、10歳でスペイン女王イザベル2世の前で演奏して奨学金を得、パリ音楽院に進学してジャン=デルファン・アラールの薫陶を受けました。1857年にプルミエ・プリを取得して卒業しましたが、パリ音楽院在学中からカミーユ・サン=サーンスと親交を結び、サン=サーンスから作品を献呈されています。サラサーテに作品を献呈したのはサン=サーンスだけではなく、エドゥアール・ラロやマックス・ブルッフもヴァイオリン曲を作って作品を捧げています。ヨハネス・ブラームスも、ヴァイオリン協奏曲をサラサーテに演奏してもらおうと、サラサーテに楽譜を送付しましたが、サラサーテは作品を気に入らず、演奏しませんでした。作曲家としては、大規模な音楽こそ書きませんでしたが、自分の演奏会の出し物として、50曲くらいの作品を残しています。代表作としてよく演奏されるのは、ジプシーのメロディを取材して作った《ツィゴイネルワイゼン》ですが、他にも当時流行したオペラのフレーズを繋ぎ合わせた幻想曲や、祖国スペインのメロディや舞曲リズムを扱ったものが多くあります。祖国スペインに取材した作品は、サラサーテの人気を支えるほどに重要なもので、特にフランスでは文化人層の異国趣味を大いに刺激しました。ここに収録される〈マラゲーニャ〉は、サラサーテが好んで作曲したスペイン舞曲集のセットの一つで、〈ハバネラ〉と抱き合わせで出版されていたものです。

アギーレはアルゼンチンのブエノス・アイレスに生まれ、同地で没した作曲家。音楽の教育はスペインとフランスで受け、特にマドリード音楽院でエミリオ・アリエータとカール・ベックに作曲理論とピアノを学んでいます。1916年に祖国にアルゼンチン音楽院を開き、アルゼンチンの音楽的近代化を推進した大立者です。ここで演奏される《足跡》は、元々ピアノ曲として《猫の足跡》(Huella y gato)の名前で出版された作品をハイフェッツが編曲したものです。

ヴァレはブラジルのバルバセーナに生まれたヴァイオリニスト兼作曲家。弁護士や詩人としても活躍しただけでなく、現地の民謡を採集する音楽学者でもありました。何故かエドガル・ダニエル・デル・ヴァッレ(Edgar Daniel del Valle, 1861-1920)なる人物と混同されることもあります。「かがり火のそばで」と題されたこの曲は、26曲ある無伴奏ヴァイオリンの為の前奏曲集の第15番目の曲ですが、この前奏曲集自体は未だ殆ど顧みられておらず、ハイフェッツの編曲でこの曲だけがかろうじてアンコール用の小品として演奏されています。

ベンジャミンはオーストラリアのシドニーに生まれた作曲家で、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの門下生。ここに収録される《サン・ドミンゴより》は、1945年に作られたオーケストラ用の作品ですが、ここではヴァイオリンとピアノ用にリダクションされています。

ストラヴィンスキーは、フランスのパリでセルゲイ・ディアギレフの率いるバレエ・リュスと1913年に《春の祭典》を上演してセンセーションを巻き起こした国際的な作曲家ですが、ロシア帝国領オラニエンバウム(後のロモノソフ)の生まれ。アレクサンドラ・スネトニコヴァとレオカディヤ・カシペロヴァにピアノ、ニコライ・リムスキー=コルサコフに作曲を学びました。1909年にディアギレフと知り合い、1910年にバレエ音楽《火の鳥》をバレエ・リュスのために作曲して成功を収めました。ここに収録された牧歌は、このバレエ音楽の中の音楽を、ポーランド出身のヴァイオリニストであったサミュエル・ドゥシュキン(Samuel Dushkin, 1891-1976)がヴァイオリンとピアノ用に編曲した作品です。ただ、本CDにはドゥシュキンの名前はクレジットされていません。

このCDで主役としてヴァイオリンを弾くウィックスはカリフォルニア州ロング・ビーチに生まれたヴァイオリン奏者です。父イングヴァルはノルウェー出身のヴァイオリン教師で、母ルビー・レノーラはクサヴァー・シャルヴェンカ門下のピアノ奏者でした。3歳から父にヴァイオリンの手ほどきを受け、7歳で地元のオーケストラとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番を弾き、8歳でマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をものにし、9歳でニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番をレパートリーに加えるほどの早熟ぶりをみせました。10歳の時にはニューヨークのジュリアード音楽院に行き、ルイス・パーシンガーの下で研鑽を積み、1942年にはパーシンガーのピアノ伴奏で公式デビューを果たしています。1943年にレーヴェントリット国際音楽コンクールで第2位となり、その演奏を聴いたジノ・フランチェスカッティの力添えでアルトゥール・ロジンスキの指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団とカーネギー・ホールで共演しています。この共演を機に「天才少女ヴァイオリニスト」として全米で注目されるようになりました。1946年には父の故郷のノルウェーを活動の拠点にして国際的に活躍しましたが、1951年に結婚し、1956年ごろに育児のため、演奏活動を中断しています。1966年から演奏活動に復帰し、アメリカのミシガン大学やライス大学、サンフランシスコ音楽院などで後進の指導を行っていましたが、1970年代にはオスロの王立音楽院の教授に転じ、1999年にはノルウェー王室からナイトの称号をもらっています。2005年には引退を表明しました。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲等でウィックスの伴奏を務めるエールリンクはスウェーデンはマルメの生まれ。スウェーデン王立音楽院でヴィアチェスラフ・ウィトコフスキにピアノを学び、ヴァイオリン、オルガン、作曲や音楽教育の学位も取得しています。第二次世界大戦中の1941年にドレスデンでカール・ベームの薫陶を受け、その後パリでアルベール・ヴォルフの指導を受けて指揮者として活動するようになりました。1950年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団とイゴール・ストラヴィンスキーの《春の祭典》を演奏して指揮者デビューを果たし、1953年から1960年までスウェーデン王立歌劇場の音楽監督となり、カール=ビリエル・ブロムダールの《アニアラ》などを初演しています。1963年には、ポール・パレーの後任としてデトロイト交響楽団の首席指揮者となり、1973年まで務めました。その後はジュリアード音楽院の指揮科の教師となり、ニューヨークでその生涯を終えています。

ストックホルム放送交響楽団は、当時の正式名称を「放送管弦楽団」(Radioorkestern)といいました。スウェーデン国内では「放送管弦楽団」といえば、このオーケストラのことだと分かったので不便はなかったようですが、録音を国際的に販売するにあたっては、国内で通用する名称ではどこのオーケストラと混同されるかわからないので、便宜上「ストックホルム放送交響楽団」という名称を用いたものと思われます。このオーケストラは、1927年にストックホルムに本拠を置くスウェーデン放送の小さな合奏団として創設されました。スウェーデン放送では軽音楽用にエンタテイメント管弦楽団(Underhållningsorkestern)も併設されていましたが、1965年にインフラストラクチャーの整備で統合され、スウェーデン放送交響楽団(Sveriges Radios Symfoniorkester)として再出発しています。

ヴァーレンの協奏曲でウィックスをサポートするフィエルスタは、クリスチャニア(現:オスロ)出身の指揮者。我が国では「フィエルスタート」としてデッカ・レーベル等にロンドン交響楽団などを振った録音が紹介されています。地元の音楽院でグスタフ・ランゲに、そしてライプツィヒ音楽院でヴァルター・ダヴィッソンに学んでヴァイオリンを専攻し、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団(当時は「フィルハーモニー協会管弦楽団」)のヴァイオリン奏者を1921年から1945年まで務めました。団員としてオスロ・フィルハーモニー管弦楽団に在籍中の1931年に、このオーケストラを振って指揮活動も行うようになりました。1939年にはベルリンに行ってクレメンス・クラウスに指揮法を学び、1946年にノルウェー放送管弦楽団の指揮者陣に加わる形で本格的に指揮者に転身しました。1958年から1960年まで、キルステン・フラグスタが支配人を務めるノルウェー国立歌劇場の芸術監督を歴任するなどして、ノルウェー随一の名指揮者と目されるようになりました。1966年にヴェストフォル交響楽団が設立された時には、その初代指揮者となり、オスロで亡くなるまで、その任を全うしました。

オスロ・フィルハーモニー管弦楽団は、エドヴァルド・クリーグらによって1879年に設立されたクリスチャニア音楽協会のオーケストラをルーツとしています。第一次世界大戦の影響で音楽協会が活動を停止した際にオーケストラも消滅状態になりましたが、1919年にヨハン・ハルヴォルセンやイェオリ・シュネーヴォイクトらの尽力で音楽協会が「フィルハーモニー協会」として再建された時に一緒に再建されました。この再建時より、正式には「フィルハーモニー協会管弦楽団」(Filharmonisk Selskaps Orkester)を名乗っており、ノルウェー国内では「フィルハーモニー協会管弦楽団」といえば、このオーケストラだと分かりました。しかし、対外的には「フィルハーモニー協会」を名乗る組織が他にもあり、便宜上オスロ・フィルハーモニー管弦楽団やオスロ・フィルハーモニー協会管弦楽団等と表記されることもありました。1979年には正式に"Oslo-Filharmonien"に改称して地名を楽団の名称にくっつけたことで、対外的な名称と国内での正式名称の違いは解消されています。

CDに収録された演奏内容について、音質面では凡そ1950年代の録音ということで、オーディオ・ファイル的な高音質を期待するのは、お門違いです。音質面でケチをつけなければ、充実した演奏に満足できるでしょう。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、フランチェスカッティの後援によりロジンスキの指揮するニューヨーク・フィルハーモニックと共演して国際的名声の足掛かりを作ったときに演奏した演目ということで、ウィックスにとっていわゆる「勝負曲」でした。作曲者が80歳の時にも作曲者臨席の下でこの曲を演奏し、シベリウス本人から「最高の解釈」と絶賛されています。尤も、シベリウスの方は、ギラ・ブスタボが録音した時にも自分のポートレートをつけて絶賛の手紙を送り、アニヤ・イグナティスの演奏にもウィックスと同じようなコメントで称えているので、シベリウスの真意がどうだったかについては議論の余地があります。
なにはともあれ、ウィックスは作曲者のお墨付きの解釈者としての自負から堂々たる演奏を展開しています。 第1楽章では冒頭から仇討にでもいくかのような情念が練り込められており、めくるめく愛憎劇が眼前で繰り広げられているような生々しさがあります。指揮者としてキャリアを歩み始めたばかりのエールリンクも感情の振り幅の大きさでウィックスに位負けしない気合の入った伴奏をつけています。芝居臭さスレスレですが、演奏者の放つ笑いごとではないオーラに当てられると、思わず引き込まれてしまいます。
第2楽章は、演奏によっては前の楽章に比べて規模が小さいという印象になりますが、ウィックスとエールリンクはうまく起伏をつけ、大いなる自然への賛歌のようにスケールの大きな演奏を聴かせます。中間部のうねるようなオーケストラの総奏は、前後半部の醸し出す寂寥感と対比され、第1楽章に劣らないスケール感があります。
第3楽章はウィックスの弾力的なヴァイオリンと、凶暴さを秘めたオーケストラが上手く噛み合い、活力の漲るダイナミックな演奏になっております。モノラル録音ながら、その音質的制約が却って聴き手の想像力を煽り、ストラヴィンスキーの《春の祭典》に似た感興を呼び起こします。
今日では、より整った演奏が沢山ありますが、この演奏から得られる興趣は格別です。

ヴァーレンの作品も、この作品のおそらく初録音とはいえ、音質の問題を飛び越えて訴求力のある演奏になっています。初演こそグリュナー=ヘッゲの指揮とグレイザーのヴァイオリン独奏で演奏されましたが、フィエルスタもヴァーレンの交響曲4曲のうち3曲の初演を手掛けた、ヴァーレン作品の擁護者です。オーケストラも、この曲を初演したオーケストラとしての矜持を示し、作曲者の悲しみに寄り添うような演奏でウィックスの独奏を丁寧にサポートしています。ウィックスの独奏も、十二音技法で作られた自分のパートを、単なる音の羅列にせず、音の連なりの中に意味を持たせるような、深い情念を感じさせる演奏を展開しています。当てもなくさまようようなオーケストラの空虚感に、歯を食いしばって歩みを進めるようなヴァイオリンが合わさることにより、希望と絶望の狭間で贖罪に苦しみながら、何とか活路を見出そうとするような作曲者の内的なドラマを垣間見ることが出来ます。演奏は、作品に聴き手を没頭させて真摯な気持ちを持たせ、生半可な演奏を許さないオーラを放っています。

エールリンクがピアノ伴奏を受け持つアンコール・ピース集は、訥々たるエールリンクのピアノ伴奏が良い味を出しています。ウィックスの伴奏も、岩がむき出しの山に挑むような気概が感じられ、特にショスタコーヴィチの諸作品では、元々ヴァイオリンのために作られた曲のように聴き手に感じさせる力が宿っています。ハイフェッツ編曲と思しきプロコフィエフの行進曲も、ハイフェッツの切れ味とは違った、含蓄のある演奏に仕上がっています。

ピアノ伴奏者不詳のアンコール集も、演奏の出来は素晴らしいものです。無名のピアノ伴奏が触発されて、絶妙な間合いを展開してしまうほど、ねっとりとした雰囲気満点のヴィックスの演奏が魅力と言えるでしょう。サラサーテの作品は、妖艶な演奏という言葉で片づけられないほどにドロッとした感触があり、スマートでスタイリッシュな演奏が好まれる1980年代以降の演奏様式ではなかなか生まれてこない演奏です。スタイリッシュな演奏様式が飽きられる頃に、新しい表現様式の先駆として、ここに示されたヴィックスのような演奏は愛好されるかもしれません。ラテン系の作品でも、軽々と弾きこなすのではなく、ねっとりとした音色で聴き手の心に深く突き刺さるような奏楽が聴けます。ただ、ストラヴィンスキーの作品に至るまで、全身全霊の演奏が続くので、アンコール・ピース集としてまとめて聴くには、胃にもたれるかもしれません。



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