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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.1 in B flat major, K207
Wolfgang Amadeus Mozart: Adagio in E major, K261
Anne-Sophie Mutter (Vn.)
Academy of St.Martin in the Fields / Neville Marriner
(Rec. 17-19 June 1991, No.1 Studio, Abbey Road, London)
Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.2 in D major, K211
Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.4 in D major, K218
Anne-Sophie Mutter (Vn.)
Philharmonia Orchestra / Riccard Muti
(Rec. 25-26 November 1982, No.1 Studio, Abbey Road, London)







本CDは、ザルツブルク出身の作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲第1番、第2番、第4番と、ヴァイオリンと管弦楽の為のアダージョを収録したアルバムです。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は、一応第7番までケッヘル番号で管理されていますが、第6番はヨハン・フリードリヒ・エックによる偽作ではないかと言われ、第7番も自筆譜が紛失しているうえに19世紀に活躍したフランス人ヴァイオリニストのウジェーヌ・スゼーが作成した写譜も、独奏パートがモーツァルトの作品にしては名技主義に傾斜し過ぎているということで、信用されていません。ゆえに、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を全集で録音する際には、第6番と第7番は除外される傾向にあります。
また、真作とされる第1番から第5番までについても、かつては1775年の4月から12月にかけて順次作曲されたと考えられていましたが、1977年に第1番の協奏曲の自筆譜が発見されて鑑定にかけられた結果、第1番のみ1773年4月ごろの作品だと結論付けられることになりました。
また、古い解説では、これらのヴァイオリン協奏曲を、同僚のアントニオ・ブルネッティの為に書いたのではないかと書かれることがありますが、ブルネッティがザルツブルクにコンサートマスター待遇でイタリアからやってきたのは1776年になってからのことです。モーツァルト自身は1772年にザルツブルク大司教であるコロレド伯ヒエロニュムスの宮廷管弦楽団のコンサートマスターとして召し抱えられているので、一連のヴァイオリン協奏曲は、職務上、あるいは自分の音楽的才能のデモンストレーションのために書いたと考えるのが自然かもしれません。また、かねてよりモーツァルトの父が息子の為に出版社に作品を出版してくれるよう根回しを試みていたので、出版用のストックとしての意味があったのかもしれません。

なにはともあれ、ブルネッティがザルツブルク宮廷に招聘されてから、モーツァルトの協奏曲はブルネッティがレパートリーに入れていました。しかしブルネッティがすんなり演奏出来ていたわけではなく、モーツァルトはブルネッティの技量に合わせ、本CDに収録されているヴァイオリン協奏曲第5番第2楽章の差し替え用のアダージョや、ヴァイオリン協奏曲第1番第3楽章の差し替え用のロンド(K269)を作曲しています。
この差し替え用の楽章を作った翌年の1777年には、モーツァルト父子は演奏旅行(転職先探しも兼ねる)を大司教に2度に渡って申し出ましたが、2度目の時には演奏旅行の許可の代わりに解雇通告が届くことになります。父はびっくりしてザルツブルクに留まり、解雇通告の取り消しを取りなしてもらうことになりましたが、モーツァルトは父の代わりに母を連れてミュンヘン方面へと旅立ち、一時的に解雇状態に陥りました。以後、第6番以降が偽作だという仮定に立てば、ヴァイオリン協奏曲の分野には殆ど手をつけていません。

本CDでは、収録曲の全ての独奏をアンネ=ゾフィー・ムター(Anne-Sophie Mutter, 1963-)が担い、ヴァイオリン協奏曲第1番とアダージョをネヴィル・マリナー(Neville Marriner, 1924-)指揮するアカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(Academy of St.Martin in the Fields)が伴奏しています。残りの第2番と第4番のヴァイオリン協奏曲の伴奏は、リッカルド・ムーティ(Riccard Muti, 1941-)の指揮するフィルハーモニア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)が担当しています。これらの録音に先立ってムターはヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と第3番と第5番のヴァイオリン協奏曲を1978年にドイツ・グラモフォンに録音しており、そのカラヤンとの共演盤を合わせると、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の全集を形成します。

ムターはドイツのバーデン州ラインフェルデンに生まれたヴァイオリニストです。カール・フレッシュ門下のアイダ・シュトゥッキやヘンリク・シェリングらの薫陶を受けた人で、13歳の時にカラヤンに才能を認められて、カラヤンの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演を果たし、国際的名声を得ました。
イギリスのリンカンに生まれたマリナーは、1959年にアカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを結成した指揮者で、元々はヴァイオリニストでした。ロンドン王立音楽大学ではヴァイオリンを専攻し、20歳で卒業後はパリ音楽院でルネ・ベネデッティに学びました。1947年から母国のイートン・カレッジでヴァイオリンを教え、1949年に母校の王立音楽大学に転出して1959年までヴァイオリン教師として活動しています。ヴァイオリン奏者としては、イートン・カレッジで教えている頃からマーティン弦楽四重奏団の第二ヴァイオリン奏者を務め、自らも弦楽三重奏団を作って室内楽の方面で活動していました。1952年にはフィルハーモニア管弦楽団の団員になり、1956年にはロンドン交響楽団の第二ヴァイオリン・セクションの首席に就任。さらには親友の音楽学者で鍵盤楽器奏者でもあったサーストン・ダートとジャコビアン・アンサンブルを結成し、これを元手にアカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズが出来上がりましたが、自分の旗揚げしたアンサンブルの演奏会で指揮をしなければならなくなり、当時ロンドン交響楽団に来ていたピエール・モントゥーに弟子入りして指揮法を学ぶことになりました。1968年には指揮者稼業に専念すべくロンドン交響楽団を退団し、1969年から1979年までロサンジェルス室内管弦楽団の音楽監督、1979年から1986年までミネソタ管弦楽団の首席指揮者、1983年から1989年までシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者をそれぞれ務めあげて指揮者としての名声を確立しています。アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの首席指揮者の座は、1978年にアイオナ・ブラウンに引き渡しましたが、その後も密接な関係を保っています。なお、アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズは、創立当初は"Academy of St.Martin-in-the-Fields"というハイフン付きの表記を用いていましたが、1988年からハイフンを取り除いた表記を正式に用いています。
イタリアのナポリ出身のムーティは、元々ピアニスト志望でした。ヴィンツェンツォ・ヴィターレの下でピアノを学んだムーティは、進学したバーり音楽院で院長のニーノ・ロータの計らいにより学生オーケストラの指揮を任され、それを契機に指揮者の道に進むようになりました。ミラノのヴェルディ音楽院に進学してアントニーノ・ヴォットーに指揮法を学んだムーティは、1967年にグィド・カンテッリ国際指揮者コンクールで優勝しています。1968年から1980年までフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督、1973年にはニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者となり、1979年から1983年まで音楽監督を務めました。1980年から1992年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務め、1986年から2005年までミラノ・スカラ座の音楽監督を歴任しました。以後はフリーランスの立場で演奏活動に従事しています。
フィルハーモニア管弦楽団は、1947年にEMIのプロデューサーのウォルター・レッグが創設したオーケストラで、1964年にレッグが運営から手を引いてからニュー・フィルハーモニア管弦楽団として自主運営で活動していました。自主運営化の際に、首席指揮者だったオットー・クレンペラーを名誉総裁に担ぎあげて気を吐いていましたが、1973年にクレンペラーが亡くなり、後任の首席指揮者としてムーティが後を繋いでいます。ムーティ在任中の1977年に「フィルハーモニア管弦楽団」の名称権を取得して、以後、元のフィルハーモニア管弦楽団の名称で活動することになりました。

本CDの演奏内容について、マリナーと共演した第1番とアダージョでは、マリナーの溌剌とした伴奏が音楽全体の基調を成しています。特に第1番の協奏曲は、モーツァルトがギャラント様式に傾斜する前の作風なので、アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの小回りの利いたアンサンブルが軽やかで推進力に富んだ印象を作り出しています。ムターの独奏は、そうしたマリナーの音楽作りに引っ張られる形で水際立った独奏を披露しています。その爽快感は特に両端楽章で味わうことが出来るでしょう。
第2楽章およびK261のアダージョでは、ムターのしっとりとしたヴァイオリンの音色が上手く作用し、急速楽章との絶妙なコントラストを作り上げています。
ムーティと共演した第2番と第4番の協奏曲は、モーツァルトの作品がギャラント様式に傾斜していることもあり、軽妙さよりは落ち着きはらった余裕さが基調になっています。ティーンエイジャーとは思えない貫録あるムターのヴァイオリン独奏を軸に据え、ムーティが豊潤な響きで適宜まろやかさを演出しています。事を荒立てることなく、あるべき所に当然のように必要な音が置かれているような自然体の優美さが秀逸で、特に第4番でその美質が発揮されています。第2番も上品な仕上がりで、弾むようなマリナーのアプローチとは違った雅やかさがあります。


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