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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Felix Mendelssohn: Violin Concerto in E minor, op.64
Joseph Szigeti (Vn.)
Philharmonic-Symphony Orchestra / Bruno Walter
(Rec. 2 February 1941) Live Recording with Applause
Johannes Brahms: Violin Concerto in D major, op.77
Joseph Szigeti (Vn.)
Philharmonic-Symphony Orchestra / Dimitri Mitropoulos
(Rec. 24 October 1948) Live Recording with Applause







このCDは、ウォード・マーストンの復刻により、フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn, 1809-1847)とヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)のヴァイオリン協奏曲を収録したもの。1940年代の録音なので、歴史的音源に慣れた耳には十分鑑賞に堪える音質ですが、デジタル録音並みの解像度を求める向きには好適ではありません。

メンデルスゾーンはイマヌエル・カントと張り合った哲学者のモーゼスを祖父に持つドイツの作曲家です。
メンデルスゾーンの父アブラハムはモーゼスの次男にあたり、兄ヨーゼフと共に金融業で巨万の富を得、メンデルスゾーン家の銀行は20世紀にナチスの手で取り潰されるまで世界有数の大銀行として盛名を轟かせました。
メンデルスゾーンの母レアは、プロイセンの裁判官ダニエル・イツィヒの娘です。イツィヒ家は芸術家のパトロンでもあった家柄でした。レアはアブラハムと同じくベルリンのジングアカデミーの卒業生で、ピアノを堪能にし、高い教養を持っていました。レアがメンデルスゾーンを産んだ頃、アブラハムの一家はハンブルクに居を構えていましたが、1811年にフランスのナポレオン軍の侵攻を受けてベルリンに避難しています。
レアは自分の子供たちに音楽の早期教育を施しましたが、姉のファニーとメンデルスゾーンが高い楽才を示したため、アブラハムの計らいで、パリに行ってピアノ奏者のマリー・ビゴーのレッスンを受けたり、ルードヴィヒ・ベルガーやカール・フリードリヒ・ツェルター(両親のジングアカデミー時代の恩師)を家庭教師にしたりして、その才能を伸ばすことになりました。
アブラハムの一家は、ドイツでの社会的成功のために、ユダヤ教からプロテスタントに改宗しています。1816年に息子達にプロテスタントの洗礼を受けさせ、メンデルスゾーンは「ヤーコプ・ルートヴィヒ」の名前を貰います。さらに1822年にアブラハムとレアが揃って改宗し、その際にメンデルスゾーンの母方の伯父から名字を分けてもらって、「バルトルディ」を家名とするようになりました。ゆえに、メンデルスゾーンの正式名は「ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)となります。ただ、アブラハムの子供たちは「バルトルディ」の名前に馴染むことはなく、メンデルスゾーンも父親の顔を立てる時以外は「バルトルディ」を省略していました。
音楽家としてのメンデルスゾーンは、20歳の時に師のツェルターを説得してヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》をベルリンのジングアカデミーで一般公開蘇演を成功させ、18世紀以前のドイツ音楽の再評価の先鞭をつけています。ジョージ・フレデリック・ハンデルことゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの音楽をイギリスから持ち帰り、この作曲家の再評価を促したのも、メンデルスゾーンの功績です。1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任してからは、盟友のロベルト・シューマンが発掘したフランツ・シューベルトの交響曲を演奏したり、頻繁にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品を取り上げたりして、彼らの音楽の評価の高さを維持していました。
ライプツィヒ音楽院(現:フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学)創設の音頭を取ったのもメンデルスゾーンの功績で、この音楽院から数多くの作曲家や演奏家を輩出しています。
作曲の方面では、交響曲第2番のようにオラトリオ仕立ての交響曲を書いたり、《フィンガルの洞窟》のように完成度の高い標題音楽を書いたりして、19世紀ドイツの音楽界に刺激を与え続けました。
他にも楽譜の校訂をしたり、ピアノ奏者として名声を博したりと、生前は八面六臂の活躍を見せましたが、それが却ってやっかみを生むことにもなり、後続世代のリヒャルト・ヴァーグナーなどは、メンデルスゾーンを凡庸な作曲家として攻撃していました。ナチスが台頭していた時代には、メンデルスゾーンのユダヤ人としての出自からタブー扱いされていました。メンデルスゾーンは、こうした毀誉褒貶を経ながらも、ドイツの愛すべき作曲家として、しばしば作品が演奏会で取り上げられています。

本CDに収録されたホ短調のヴァイオリン協奏曲は、そんなメンデルスゾーンの作品の中でもとりわけ演奏機会の多いものに属します。1838年から1844年にかけて熟考の末に完成された作品で、作曲に当たっては、被献呈者のフェルディナント・ダヴィットに技術上のアドヴァイスを貰っていました。ダヴィットはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務め、メンデルスゾーンの創設したライプツィヒ音楽院でも教鞭をとっていたこともあって、メンデルスゾーンと深い付き合いのあった人です。
1845年3月13日のライプツィヒ・ゲヴァントハウスでの初演では、ダヴィットが独奏者を務めましたが、この時指揮をするはずだったメンデルスゾーンは体調を崩してフランクフルトで療養を余儀なくされ、メンデルスゾーンの部下だったニルス・ゲーゼが代役で振っています。この頃よりメンデルスゾーンは次第に病気がちになっていきました。
このヴァイオリン協奏曲は、急-緩-急の三楽章構成を取るという点では、従来の協奏曲の形式を踏襲していますが、当時としては革新的な仕掛けも施されています。
その仕掛けの中で明快なものは、第1楽章冒頭の主題提示で管弦楽のみによる主題提示の定石を廃し、初っ端から独奏ヴァイオリンを登場させたことです。こうした定石破り自体は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがピアノ協奏曲第9番で試み、ベートーヴェンがピアノ協奏曲第4番で用いた手法でしたが、ヴァイオリン協奏曲でこれをやったのは画期的でした。こうした前例があればこそ、アントニーン・ドヴォルジャークやカミーユ・サン=サーンス等が序奏を簡略化したヴァイオリン協奏曲を書いても、批判されることはありませんでした。
演奏者が即興芸を披露する場としてのカデンツァを廃止した点も、当時としては画期的です。下手な演奏者にカデンツァで失敗されて曲の価値を貶められるくらいなら、カデンツァの部分を自分で作曲して下手なことをされないようにしようとしたわけですが、こうすることで異物混入による曲全体のバランスの瓦解というリスクを回避できるようになりました。無論、カデンツァの作り付け自体はメンデルスゾーンの発案ではなく、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番が有名な先行例になります。メンデルスゾーン自身も、自分のピアノ協奏曲の作曲で、これらの効果を試していました。
さらに、第1楽章と第2楽章との間を休みなしにで接続している点も、当時のコンサートのプログラム編成のあり方に抗うという意味では価値ある処置でした。楽章間を休みなく続ける作曲技法を「アタッカ」といい、ベートーヴェンがよく使っていたものです。ベートーヴェンの生きていた頃から、楽章の間に別の人の曲を割り込ませるようなプログラム構成の仕方が横行していましたが、メンデルスゾーンの生前も、その慣習が改善されなかったのでしょう。他の作曲家の作品が割り込むという作曲者にとっては望ましくない状況を駆逐するために、メンデルスゾーンはベートーヴェンの使った方法を継承し、慣習的なプログラム構成と戦ったのです。

メンデルスゾーンが脳卒中で急逝した時、ドイツ連邦自由ハンザ都市のハンブルク生まれのブラームスは、未だ14歳でした。
ブラームスは地元の市立劇場のコントラバス奏者である父親から音楽の手ほどきを受け、7歳の頃からオットー・フリードリヒ・ヴィルバルト・コッセル、10歳の頃からコッセルの師であったエドゥアルト・マルクスゼンに作曲とピアノを学んでいます。20歳の時にシューマン夫妻を訪問するまでには、ヴァイオリン奏者のエドゥアルト・レメーニーのピアノ伴奏を務めながらピアノ奏者としての名声を高めていました。シューマン夫妻を訪ねた時、ブラームスは自らが書きためた作品をシューマンに見せ、シューマンはそれを見て「新しい道」と称する評論を書いて、作曲家としてのブラームスの才能を激賞しました。シューマンの激賞で作曲家として注目されるようになったブラームスは、ベートーヴェンの後継者と目されることとなり、22歳の頃から構想を重ねた交響曲第1番を21年かけて完成させています。かかる曲の完成でポスト・ベートーヴェンの地位を確立し、19世紀ドイツを代表する作曲家の一人と目されるようになりました。
その堅固な構成力を持ち味とする作風から、ブラームスは、ウィーンの音楽評論家であるエドゥアルト・ハンスリックに大変高く評価されました。しかし、ハンスリックが反ヴァーグナーの論陣を張る時にブラームスの作品を形式美の代表例として事あるごとに引き合いに出したため、19世紀後半のドイツ・オーストリアの音楽業界では、ブラームスの堅牢な形式美を支持するか、ヴァーグナーのドラマティックな音楽を支持するかで立場が分かれました。
ブラームスは歌曲を沢山書いたので、作品番号が100を超えますが、作曲姿勢は、石橋を叩いて渡るというより、しばしば叩き壊すくらいに慎重でした。10代の頃から作曲はしていたようですが、18歳の頃から自身の審美眼の水準に達しない作品を随時処分しており、19歳以前に作曲したものは全部処分されています。成人後は、推敲段階で作曲計画を変更し、その残滓を再利用することもありましたが、出来に満足したもの以外は出版せず、廃棄することもためらいませんでした。このため、彼の作品は、いずれも彼自身の厳しい審査に通った選りすぐりの作品に、作品番号かつけられて出版されているという事になります。

本CDに収録されるヴァイオリン協奏曲は、ブラームスが1878年にスイスのペルチャッハで書き上げた作品で、作曲に当たってヨーゼフ・ヨアヒム(ダヴィットの弟子)に技術上の助言を求めています。ちなみに、ヨアヒムとブラームスの出会いは、1848年の3月ごろにまでさかのぼることができますが、このときは、ハンブルクでヨアヒムの弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をブラームスが客席で聴いているというだけでした。ヨアヒムの側でブラームスを知ったのは、1853年の5月頃にハノーファーでレメーニが自分の伴奏者としてブラームスを紹介してからのこと。その後、ヴァイマルでレメーニはブラームスと別れましたが、ブラームスはヨアヒムを訪問し、その才能に驚いたヨアヒムがブラームスにシューマン宛ての紹介状を書いたことで、ブラームスとシューマンのコネクションが出来ました。このコネクション形成の過程でブラームスはヨアヒムと堅固な協力関係を築き、ブラームスはヨアヒムを助言者に立ててヴァイオリン協奏曲を作曲するに至りました。
ただ、この曲を書くきっかけになったのは、作曲の前年にブラームスがバーデン=バーデンで聴いたパブロ・デ・サラサーテの演奏です。この時、サラサーテは、マックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲を演奏したとされます。ブルッフのヴァイオリン協奏曲は第1番が有名ですが、こちらはヨアヒムに献呈された作品なので、サラサーテがヨアヒムの睨みの効いているドイツ語圏で、わざわざヨアヒムに献呈された作品を弾くという挑発的なことをするとは思えません。ブルッフは1877年に新作のヴァイオリン協奏曲第2番を作曲してサラサーテに献呈しているので、バーデン=バーデンでサラサーテが弾いていたブルッフのヴァイオリン協奏曲は第2番と考えるのが妥当な線でしょう。なにはともあれ、サラサーテの演奏に感心したブラームスでしたが、ブルッフの作品の出来栄えに不満を持ち、ブルッフ以上の曲を書こうと、この曲の作曲に着手しました。しかし、サラサーテとコネクションを持っていなかったブラームスは、サラサーテにではなくヨアヒムにヴァイオリン協奏曲の構想を打ち明け、ヨアヒムを助言者に据えて作品を書くことにしました。
しかしブラームスは、父親から弦楽器の作法を教わっていたので、一応弦楽器の扱いの心得があるという自負があり、ヨアヒムの助言に盲従することはありませんでした。例えば、独奏パートで9~10度音程の重音を使っていますが、これはヨアヒムの反対を押し切って使っています。また、ヨアヒムが三楽章形式での作曲を望んだのに対し、ブラームスは全く譲ろうとしませんでした。その後、中間の2楽章を削って現行の第2楽章に差し替えましたが、これはヨアヒムの説得に折れたのではなく、中間の2つの楽章の仕上がりに不満を感じたからにほかなりません。大概の助言者であれば、ブラームスが自分の助言に従わないのに呆れて助言者のポジションを降りるものですが、この時のヨアヒムは最後まで付き合い、曲が完成する前から、見せてもらった楽譜を参考にカデンツァを自分で書くほどの準備を万端に整えていました。
初演は1879年の元日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会に於いてブラームスの指揮とヨアヒムの独奏で行われましたが、この初演地を巡ってもブラームスとヨアヒムは議論したそうです。ブラームスには、1859年に自作のピアノ協奏曲第1番を自身のピアノで披露した時、3人しか拍手してくれなかったという苦い思い出がありました。その二の舞をブラームスが恐れたわけですが、ヨアヒムは絶対に成功するとブラームスを励まし続けて説得に成功しました。
初演は成功を収めましたが、ヴァイオリン奏者の間ではあまり評判は良くなく、ウィーンでの初演で指揮をしたヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世からは「ヴァイオリンのための(für)というよりも、ヴァイオリンに刃向う(gegen)協奏曲だ」といわれています。ブラームスはサラサーテにも演奏してもらおうと楽譜を郵送しましたが、サラサーテは第2楽章を見るなり「オーボエがテーマを吹いている間にどの面下げて突っ立ってればいいんだ!」と怒り、演奏しようとしませんでした。
この協奏曲のユニークさは、ヘルメスベルガー1世がいみじくも指摘したように、オーケストラの書法の重厚さにあります。形式面では、先のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲よりも古風な作りなのですが、独奏を主人とし、オーケストラを従僕とするヴァイオリン協奏曲のコンセプトから逸脱しています。ブラームスがピアノ協奏曲を書いた場合は、独奏楽器としてのピアノの生み出す響きのダイナミズムがオーケストラと対抗しう得るわけですが、ヴァイオリン独奏はピアノと同等のダイナミズムを発揮できるわけではありません。このため、実演ではしばしばヴァイオリン独奏がオーケストラの音にかき消されることも多く、ヴァイオリンを引き立てるためにオーケストラが音量を押さえなければいけません。録音では独奏の音を重点的にマイクで拾うことで、こうしたアンバランスさを解消しています。

本CDで2曲とも独奏を務めるのは、オーストリア=ハンガリー帝国はブダペスト出身のヴァイオリン奏者、ヨーゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti, 1892-1973)です。ハンガリー出身の人の名前は、当地では日本人の名前の日本語表記の語順と同じように「姓・名」の順で書かれるので、厳密にはシゲティ・ヨージェフ(Szigeti Jósef)とすべきですが、日本では西欧人やアメリカ人の語順に合わせた「名・姓」で親しまれているので、「ヨーゼフ・シゲティ」の表記を使うことにします。
シゲティは、出生時はシンガー(Singer)姓でしたが、3才の時に母親が亡くなったために、カフェのヴァイオリン弾きだった父の故郷であるマーラマロシュシゲト(現:ルーマニア領シゲトゥ・マルマツィエイ)で少年時代を過ごしました。 「シゲティ」を名乗ったのは、この父の故郷の地名に由来します。
シゲティの父の家系は音楽家が多く、シゲティも父を含む親族から音楽の手ほどきを受け、ヴァイオリンに適性を示したことから、ブダペスト歌劇場のオーケストラの団員のレッスンを経て、ハンガリー王立音楽院(後のリスト・フェレンツ音楽大学)のイェネー・フバイの門下になりました。また1904年にヨーゼフ・ヨアヒムの許を訪ねて激励を受けたことでシゲティはヴァイオリンの天才少年として知られるようになりましたが、14才のときにはフランクフルトのアルベルト・シューマン・サーカスに短期的に雇われて曲芸的にヴァイオリンを弾いたこともありました。「パガニーニの再来」と言われたほどの達者なヴァイオリンの天才少年だったシゲティですが、1907年にフェルッチョ・ブゾーニの知己を得たことで、単なる超絶技巧で客を喜ばせる演奏スタイルを捨て、客に媚びない選曲でリサイタルを開くようになりました。同時代の音楽でも、自分が名作だと思ったものは積極的に演奏し、生涯を通じて同時代音楽の擁護者と見做されました。1925年からアメリカを本拠にし、ヨーロッパ各国との往来をしながら演奏活動を展開しましたが、1960年以降は演奏活動を控えてスイスのルツェルンで後進の指導に当たり、ルツェルンの自宅で亡くなりました。
カール・フレッシュに運弓上の問題から弓を軋ませると指摘されたように、シゲティのヴァイオリン演奏の音色は人を陶然とさせるようなものではありませんでした。そうした辛口の音色と客に媚びない選曲がうまくマッチすることで、求道的な芸風としてシゲティの奏楽は広く知られるようになったのでしょう。

伴奏のオーケストラは、いずれも「フィルハーモニック交響楽団」(Philharmonic-Symphony Orchestra)と表記されていますが、これは後のニューヨーク・フィルハーモニック(New York Phlharmonic)のことです。「ニューヨーク」が省かれているのは、Music & Artsレーベルがニューヨークを本拠に活動しているので、一々書く必要がないとレーベル側で判断したものと思います。このレーベルはしばしば、このような表記の省略を平気で行うので、クラシック音楽に馴染み始めた人にとって優しいレーベルではありません。閑話休題、このオーケストラは1842年にユーレリ・コレッリ・ヒルがウィリアム・ヴィンセント・ウォレスと共に設立した「ニューヨーク・フィルハーモニック協会」(Philharmonic Society of New York)を起源とし、1921年にニューヨーク・ナショナル交響楽団、1923年にニューヨーク市交響楽団を吸収して勢力を伸ばし、1928年にはニューヨーク交響楽団と合併して、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団(Phlharmonic-Symphony Orchestra of New York)と名乗るようになりました。「ニューヨーク・フィルハーモニック」という名称を用いはじめたのは、1958年にレナード・バーンスタインが音楽監督に就任してからのことです。なお、運営母体は株式会社として、創立時の名称を使っています。
メンデルスゾーンの協奏曲ではブルーノ・ヴァルター(Bruno Walter, 1876-1962)が指揮をしており、ブラームスの協奏曲ではディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos, 1896-1960)が指揮を務めています。
ヴァルターは元々の名前をブルーノ・ヴァルター・シュレジンガー(Bruno Walter Schlesinger)といい、ベルリン生まれのユダヤ人でした。シュテルン音楽院でピアノを専攻するも、ハンス・フォン・ビューローに心酔して指揮者へと転向し、1894年にケルン市立歌劇場で指揮者デビューを飾っています。その後、グスタフ・マーラーの知己を得てウィーンに移り、1911年にオーストリア国籍を取得した時にブルーノ・ヴァルターに改名しました。その後は、ウィーン宮廷歌劇場(現:ウィーン国立歌劇場)やミュンヘン宮廷歌劇場(現:バイエルン国立歌劇場)の楽長やベルリン市立歌劇場(現:ベルリン・ドイツ・オペラ)の音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者等を歴任し、ドイツ・オーストリア圏の名指揮者として絶大な人気を誇りました。しかし、ユダヤ人だったことから、ナチスの台頭で亡命を余儀なくされ、第二次世界大戦中から亡くなるまで、アメリカを中心に演奏活動を展開することになりました。
ミトロプーロスは、ギリシャのアテネ出身で、本来のファースト・ネームはディミトリス(Dimitris)でした。1910年までにイタリア人ピアノ奏者のアキーレ・デルブオノの薫陶を受け、アテネ音楽院でフィロクティティス・イコノミディスに音楽理論、ゲオルギエス・アガピトスとテセウス・ピンディオスにピアノを学んだ後、ブリュッセル音楽院でルートヴィヒ・ヴァッセンホーヴェンにピアノ、アルマン・マルシックに和声と対位法を学んでいます。1921年にはベルリンでフェルッチョ・ブゾーニやエーリヒ・クライバーの薫陶を受け、1924年から母国に戻ってアテネ交響楽団の指揮者として活動しました。1930年にはベルリンでセルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾き振りしてセンセーションを巻き起こしましたが、1936年から活動の本拠をアメリカに移し、ミネアポリス交響楽団(現:ミネソタ管弦楽団)の首席指揮者を経て、1949年にヴァルターの後任として本録音のオーケストラの音楽顧問に就任しています。1951年から音楽監督に昇格して、同時代の音楽を積極的に演目に入れましたが、そうした斬新なプログラミングが裏目に出て楽員や聴衆の反感を買い、1957年にはレナード・バーンスタインと首席指揮者の座を分け合うことになり、翌年には辞任しています。晩年は心臓を病み、ミラノでのコンサートのリハーサル中に発作を起こして急逝しました。

メンデルスゾーンの協奏曲の録音は、1941年。この頃のニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団は、ジョン・バルビローリが離任する頃に当たります。バルビローリの演奏は、前任のアルトゥーロ・トスカニーニと事あるごとに批評家筋に比べられてしまい、団員の士気も低下していました。本演奏で指揮を執るヴァルターは、そんなオーケストラの下支えとして度々客演しており、本録音でもその苦労が偲ばれます。
音質はシゲティの独奏をフォーカスした旧来通りのバランスで、高音寄りのガサついた響きになっていますが、この時期の録音としてはなかなかの音質です。
ヴァルターの指揮は、シゲティの独奏に合わせるという名目でテンポを揺らして統率力をアピールし、音楽が単調になり過ぎるのを防いでいますが、第1楽章の総奏ではお互いの音のブレンドに構わず大きな音を喧しく鳴らしたり、弦楽セクションの響きの薄さをティンパニでカバーしたりと、オーケストラの総力として破れかぶれなところがあります。
第2楽章でも木管セクションで作るハーモニーが、吹く音のただ重なるだけを聴かされているようで、どこか白けて聴こえます。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と肩を並べる歴史を持つオーケストラとしては、随分寂しいサポートになりました。
シゲティの独奏は、流麗さを拒み、雰囲気に流されることを潔しとしない彼の哲学に沿った演奏といえますが、第1楽章の初っ端で音が擦れ、時折隣の弦を引っかくなど、第1楽章前半ではコンディションの悪さを危惧させます。ただ、抑えた弦の音程は外さず、次第にボウイングもこなれてくるので、曲を聴き終わった後には立派な演奏だったという感想を得ることが出来ます。
シゲティらしさが良く出ていると思われるのは特に第2楽章で、練り込むようなヴィヴラートと滑らかならざるボウイングで甘美さを排し、気の抜けたオーケストラの伴奏に喝を入れるかのような厳しい表情を作っています。結果としてオーケストラの表現の浅さがあまり気にならなくなっています。
第3楽章は、旧来的なスピード競争を想定したヴァルターの煽りと、弾き飛ばした爽快感を潔しとしないシゲティのアプローチの折り合いがついていないようで、所々歩調が合わないところがあります。

ブラームスの協奏曲は1948年の録音で、アナウンスも収録されているところから、ラジオ放送の実況中継からの音源と思われます。第1楽章終了時には盛大な拍手も入っています。音質は先のメンデルスゾーンの録音よりも少しオーケストラの解像度が上がり、経過年数相応の音質改善が見られます。
1948年のニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団は、前年にアルトゥール・ロジンスキが「音楽監督」を解任され、客演していたヴァルターが音楽顧問として空白をつないでいた時期に当たります。
バルビローリ辞任後に首席指揮者に着任したロジンスキは、人事権も含めた「音楽監督」というポストを運営母体に認めさせ、「血の浄化」と呼ばれる大規模なリストラクションでオーケストラの立て直しを図りました。しかし、こうした強引な手腕は、ロジンスキとオーケストラおよび運営母体の間に深刻な軋轢を生じさせてしまい、ロジンスキは任期半ばで辞任しなければならなくなりました。
この頃によく客演に来ていたのが、ミトロプーロスで、その手際の良いリハーサルと抜群の耳の良さでオーケストラの信任を得、本録音の翌年には正式に首席指揮者に就任しています。また、ミトロプーロスは、同時代の作品の擁護者としてシゲティと共通項があり、共演者として面識がありました。
ここに聴くミトロプーロスのサポートは、先のヴァルターの指揮するメンデルスゾーンのオーケストラとは比べ物にならないくらいに反応が良く、充実した演奏を聴かせています。音楽的な瑕疵といえば第1楽章の前奏でヴァイオリンの導入直前に弦楽セクションが勢い余って乱れるくらいでしょうか。
シゲティの独奏も、恰幅の良いオーケストラの鳴りっぷりに心なしか気分良く弾いているように聴こえます。
第2楽章に於いても、オーケストラとヴァイオリンの対話が親密で、先のメンデルスゾーン作品の演奏以上にシゲティの音色が磨かれているように聴こえます。
第3楽章は、ミトロプーロスのダイナミックでリズム感の良いサポートが推進力を生み、シゲティの気合の入った独奏共々アクセントが良く効いていて、こうでなくてはと思わせる説得力があります。

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