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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Felix Mendelssohn: Violin Concerto in E minor, op.64
Joseph Szigeti (Vn.)
Philharmonic-Symphony Orchestra / Bruno Walter
(Rec. 2 February 1941) Live Recording with Applause
Johannes Brahms: Violin Concerto in D major, op.77
Joseph Szigeti (Vn.)
Philharmonic-Symphony Orchestra / Dimitri Mitropoulos
(Rec. 24 October 1948) Live Recording with Applause







このCDは、ウォード・マーストンの復刻により、フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn, 1809-1847)とヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)のヴァイオリン協奏曲が収録されています。

メンデルスゾーンはイマヌエル・カントと張り合った哲学者のモーゼスを祖父に持つドイツの作曲家です。
メンデルスゾーンの父アブラハムはモーゼスの次男にあたり、兄ヨーゼフと共に金融業で巨万の富を得、メンデルスゾーン家の銀行は20世紀にナチスの手で取り潰されるまで世界有数の大銀行として盛名を轟かせました。
メンデルスゾーンの母レアは、プロイセンの裁判官ダニエル・イツィヒの娘です。イツィヒ家は芸術家のパトロンでもあった家柄でした。レアはアブラハムと同じくベルリンのジングアカデミーの卒業生で、ピアノを堪能にし、高い教養を持っていました。レアがメンデルスゾーンを産んだ頃、アブラハムの一家はハンブルクに居を構えていましたが、1811年にフランスのナポレオン軍の侵攻を受けてベルリンに避難しています。
レアは自分の子供たちに音楽の早期教育を施しましたが、姉のファニーとメンデルスゾーンが高い楽才を示したため、アブラハムの計らいで、パリに行ってピアノ奏者のマリー・ビゴーのレッスンを受けたり、ルードヴィヒ・ベルガーやカール・フリードリヒ・ツェルター(両親のジングアカデミー時代の恩師)を家庭教師にしたりして、その才能を伸ばすことになりました。
アブラハムの一家は、ドイツでの社会的成功のために、ユダヤ教からプロテスタントに改宗しています。1816年に息子達にプロテスタントの洗礼を受けさせ、メンデルスゾーンは「ヤーコプ・ルートヴィヒ」の名前を貰います。さらに1822年にアブラハムとレアが揃って改宗し、その際にメンデルスゾーンの母方の伯父から名字を分けてもらって、「バルトルディ」を家名とするようになりました。ゆえに、メンデルスゾーンの正式名は「ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)となります。ただ、アブラハムの子供たちは「バルトルディ」の名前に馴染むことはなく、メンデルスゾーンも父親の顔を立てる時以外は「バルトルディ」を省略していました。

音楽家としてのメンデルスゾーンは、20歳の時に師のツェルターを説得してヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》をベルリンのジングアカデミーで一般公開蘇演を成功させ、18世紀以前のドイツ音楽の再評価の先鞭をつけています。ジョージ・フレデリック・ハンデルことゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの音楽をイギリスから持ち帰り、この作曲家の再評価を促したのも、メンデルスゾーンの功績です。1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任してからは、盟友のロベルト・シューマンが発掘したフランツ・シューベルトの交響曲を演奏したり、頻繁にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品を取り上げたりして、彼らの音楽の評価の高さを維持していました。
ライプツィヒ音楽院(現:フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学)創設の音頭を取ったのもメンデルスゾーンの功績で、この音楽院から数多くの作曲家や演奏家を輩出しています。
作曲の方面では、交響曲第2番のようにオラトリオ仕立ての交響曲を書いたり、《フィンガルの洞窟》のように完成度の高い標題音楽を書いたりして、19世紀ドイツの音楽界に刺激を与え続けました。
他にも楽譜の校訂をしたり、ピアノ奏者として名声を博したりと、生前は八面六臂の活躍を見せましたが、それが却ってやっかみを生むことにもなり、後続世代のリヒャルト・ヴァーグナーなどは、メンデルスゾーンを凡庸な作曲家として攻撃していました。ナチスの時代には、メンデルスゾーンのユダヤ人としての出自からタブー扱いされていました。メンデルスゾーンは、こうした毀誉褒貶を経ながらも、ドイツの愛すべき作曲家として、しばしば作品が演奏会で取り上げられています。

本CDに収録されたホ短調のヴァイオリン協奏曲は、そんなメンデルスゾーンの作品の中でもとりわけ演奏機会の多いものに属します。1838年から1844年にかけて熟考の末に完成された作品で、作曲に当たっては、被献呈者のフェルディナント・ダヴィットに技術上のアドヴァイスを貰っていました。ダヴィットはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務め、メンデルスゾーンの創設したライプツィヒ音楽院でも教鞭をとっていたこともあって、メンデルスゾーンと深い付き合いのあった人です。
1845年3月13日のライプツィヒ・ゲヴァントハウスでの初演では、ダヴィットが独奏者を務めましたが、この時指揮をするはずだったメンデルスゾーンは体調を崩してフランクフルトで療養を余儀なくされ、メンデルスゾーンの部下だったニルス・ゲーゼが代役で振っています。この頃よりメンデルスゾーンは次第に病気がちになっていきました。
このヴァイオリン協奏曲は、1831年に作ったピアノ協奏曲同様に第1楽章の管弦楽のみによる主題提示の定石を廃して、独奏ヴァイオリンが印象的な主題を提示し、第2楽章との間を休みなしにしています。こうすることで、メンデルスゾーンの生前に行われていた、各楽章の間に別の曲を挟むという慣例を牽制していました。第3楽章でも、第2楽章の雰囲気を受け継いだ前奏をつけ、楽章ごとの分断がされないような配慮を見せています。

メンデルスゾーンが脳卒中で急逝した時、ハンブルク生まれのブラームスは、未だ14歳でした。
ブラームスは地元の市立劇場のコントラバス奏者である父親から音楽の手ほどきを受け、10歳の頃からエドゥアルト・マルクスゼンに作曲とピアノを学んでいます。20歳の時にシューマン夫妻を訪問するまでには、ヴァイオリン奏者のエドゥアルト・レメーニーのピアノ伴奏を務めながらピアノ奏者としての名声を高めていました。シューマン夫妻を訪ねた時、ブラームスは自らが書きためた作品をシューマンに見せ、シューマンはそれを見て「新しい道」と称する評論を書いて、作曲家としてのブラームスの才能を激賞しました。シューマンの激賞で作曲家として注目されるようになったブラームスは、ベートーヴェンの後継者と目されることとなり、22歳の頃から構想を重ねた最初の交響曲を21年かけて完成させています。
この交響曲の完成でポスト・ベートーヴェンの地位を確立し、19世紀ドイツを代表する作曲家の一人と目されるようになりました。
その堅固な構成力を持ち味とする作風から、ブラームスは、ウィーンの音楽評論家であるエドゥアルト・ハンスリックに大変高く評価されました。しかし、ハンスリックが反ヴァーグナーの論陣を張る時にブラームスの作品を形式美の代表例として事あるごとに引き合いに出したため、19世紀後半のドイツ・オーストリアの音楽業界では、ブラームスの堅牢な形式美を支持するか、ヴァーグナーのドラマティックな音楽を支持するかで立場が分かれました。

本CDに収録されるヴァイオリン協奏曲は、ブラームスが1878年にスイスのペルチャッハで書き上げた作品で、作曲に当たってヨーゼフ・ヨアヒム(ダヴィットの弟子)に技術上の助言を求めています。
ただ、この曲を書くきっかけになったのは、作曲の前年にバーデン=バーデンで聴いたパブロ・デ・サラサーテの演奏です。サラサーテの演奏に感心したものの、演目だったマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲に不満を持ったブラームスは、ブルッフ以上の曲を書こうと、この曲の作曲に着手しました。
父親から弦楽器の作法を幼い頃から教わっていたブラームスは、しばしばヨアヒムの助言に従わず、ヨアヒムを困らせています。例えば、独奏パートで9~10度音程の重音を使っていますが、これはヨアヒムの反対を押し切って使っています。
また、ヨアヒムが三楽章形式での作曲を望んだのに対し、ブラームスは全く譲ろうとしませんでした。その後、中間の2楽章を削って現行の第2楽章に差し替えましたが、これはヨアヒムの助言に従ったと言うよりも、中間の2つの楽章の仕上がりに不満を感じたからにほかなりません。
作品が完成した後も、どこで初演するかでブラームスとヨアヒムは議論をし、ヨアヒムが説得する形で1879年の元日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でヨアヒムの独奏とブラームスの指揮で初演されました。
初演は成功を収めましたが、ヴァイオリン奏者の間ではあまり評判は良くなく、ウィーンでの初演で指揮をしたヨーゼフ・ヘルメスベルガーJr.からは「ヴァイオリンのためのというよりも、ヴァイオリンに刃向う協奏曲だ」といわれています。ブラームスはサラサーテにも演奏してもらおうと楽譜を郵送しましたが、サラサーテは第2楽章を見るなり「オーボエがテーマを吹いている間にどの面下げて突っ立ってればいいんだ!」と言い、演奏しようとしませんでした。
ヴァイオリン独奏に対してオーケストラが重厚に書かれているため、実演ではしばしばヴァイオリン独奏がオーケストラの音にかき消されることも多く、ヴァイオリンを引き立てるためにオーケストラが音量を押さえなければいけません。録音では独奏の音を重点的にマイクで拾えば、こうしたアンバランスさを解消できます。

本CDで2曲とも独奏を務めるのは、ハンガリーはブダペスト出身のヴァイオリン奏者、ヨーゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti, 1892-1973)です。
シゲティは、イェネー・フバイの門下で、少年時代は「パガニーニの再来」と言われたほどの名手でした。しかし、フェルッチョ・ブゾーニと親交を結ぶようになってから、客に媚びない選曲でリサイタルを開くようになりました。同時代の音楽でも、自分が名作だと思ったものは積極的に演奏したことで知られています。
カール・フレッシュに運弓上の問題から弓を軋ませると指摘されたように、シゲティのヴァイオリン演奏の音色は人を陶然とさせるようなものではありませんでした。そうした音色と客に媚びない選曲がうまくマッチすることで、求道的な芸風としてシゲティの奏楽は広く知られるようになったのでしょう。

伴奏のオーケストラは、「フィルハーモニック交響楽団」(Philharmonic-Symphony Orchestra)と表記されていますが、これは後のニューヨーク・フィルハーモニック(New York Phlharmonic)のことです。このオーケストラは1842年にユーレリ・コレッリ・ヒルがウィリアム・ヴィンセント・ウォレスと共に設立した「ニューヨーク・フィルハーモニック協会」(Philharmonic Society of New York)を起源とし、1921年にニューヨーク・ナショナル交響楽団、1923年にニューヨーク市交響楽団を吸収して勢力を伸ばし、1928年にはニューヨーク交響楽団と合併して、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団(Phlharmonic-Symphony Orchestra of New York)と名乗るようになりました。「ニューヨーク・フィルハーモニック」という名称を用いはじめたのは、1958年にレナード・バーンスタインが音楽監督に就任してからのことです。なお、運営母体は株式会社として、創立時の名称を使っています。

メンデルスゾーンの協奏曲ではブルーノ・ヴァルター(Bruno Walter, 1876-1962)が指揮をしており、ブラームスの協奏曲ではディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos, 1896-1960)が指揮を務めています。
ヴァルターは元々の名前をブルーノ・ヴァルター・シュレジンガー(Bruno Walter Schlesinger)といい、ベルリン生まれのユダヤ人でした。シュテルン音楽院でピアノを専攻するも、ハンス・フォン・ビューローに心酔して指揮者へと転向し、1894年にケルン市立歌劇場で指揮者デビューを飾っています。その後、グスタフ・マーラーの知己を得てウィーンに移り、1911年にオーストリア国籍を取得した時にブルーノ・ヴァルターに改姓しました。その後は、ウィーン宮廷歌劇場(現:ウィーン国立歌劇場)やミュンヘン宮廷歌劇場(現:バイエルン国立歌劇場)の楽長やベルリン市立歌劇場(現:ベルリン・ドイツ・オペラ)の音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者等を歴任し、ドイツ・オーストリア圏の名指揮者として絶大な人気を誇りました。しかし、ユダヤ人だったことから、ナチスの台頭で亡命を余儀なくされ、第二次世界大戦中から亡くなるまで、アメリカを中心に演奏活動を展開することになりました。
ミトロプーロスは、ギリシャのアテネ出身で、本来のファースト・ネームはディミトリス(Dimitris)でした。1910年までにイタリア人ピアノ奏者のアキーレ・デルブオノの薫陶を受け、アテネ音楽院でフィロクティティス・イコノミディスに音楽理論、ゲオルギエス・アガピトスとテセウス・ピンディオスにピアノを学んだ後、ブリュッセル音楽院でルートヴィヒ・ヴァッセンホーヴェンにピアノ、アルマン・マルシックに和声と対位法を学んでいます。1921年にはベルリンでフェルッチョ・ブゾーニやエーリヒ・クライバーの薫陶を受け、1924年から母国に戻ってアテネ交響楽団の指揮者として活動しました。1930年にはベルリンでセルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾き振りしてセンセーションを巻き起こしましたが、1936年から活動の本拠をアメリカに移し、ミネアポリス交響楽団(現:ミネソタ管弦楽団)の首席指揮者を経て、1949年に本録音のオーケストラの首席指揮者に就任しています。

メンデルスゾーンの協奏曲の録音は、1941年。この頃のニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団は、ジョン・バルビローリが離任する頃に当たります。バルビローリの演奏は、前任のアルトゥーロ・トスカニーニと事あるごとに批評家筋に比べられてしまい、団員の士気も低下していました。本演奏で指揮を執るヴァルターは、そんなオーケストラの下支えとして度々客演しており、本録音でもその苦労が偲ばれます。
音質はシゲティの独奏をフォーカスした旧来通りのバランスで、高音寄りのガサついた響きになっていますが、この時期の録音としてはなかなかのものです。
ヴァルターの指揮は、シゲティの独奏に合わせるという名目でテンポを揺らして統率力をアピールし、音楽が単調になり過ぎるのを防いでいますが、第1楽章の総奏ではお互いの音のブレンドに構わず大きな音を喧しく鳴らしたり、弦楽セクションの響きの薄さをティンパニでカバーしたりと、オーケストラの総力として破れかぶれなところがあります。
第2楽章でも木管セクションで作るハーモニーが、吹く音のただ重なるだけを聴かされているようで、どこか白けて聴こえます。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と肩を並べる歴史を持つオーケストラとしては、随分寂しいサポートになりました。
シゲティの独奏は、流麗さを拒み、雰囲気に流されることを潔しとしない彼の哲学に沿った演奏といえますが、第1楽章の初っ端で音が擦れ、時折隣の弦を引っかくなど、第1楽章前半ではコンディションの悪さを危惧させます。ただ、抑えた弦の音程は外さず、次第にボウイングもこなれてくるので、曲を聴き終わった後には立派な演奏だったという感想を得ることが出来ます。
シゲティらしさが良く出ていると思われるのは特に第2楽章で、練り込むようなヴィヴラートと滑らかならざるボウイングで甘美さを排し、気の抜けたオーケストラの伴奏に喝を入れるかのような厳しい表情を作っています。結果としてオーケストラの表現の浅さがあまり気にならなくなっています。
第3楽章は、旧来的なスピード競争を想定したヴァルターの煽りと、弾き飛ばした爽快感を潔しとしないシゲティのアプローチの折り合いがついていないようで、所々歩調が合わないところがあります。

ブラームスの協奏曲は1948年の録音で、アナウンスも収録されているところから、ラジオ放送の実況中継からの音源と思われます。第1楽章終了時には盛大な拍手も入っています。音質は先のメンデルスゾーンの録音よりも少しオーケストラの解像度が上がり、経過年数相応の音質改善が見られます。
1948年のニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団は、前年にアルトゥール・ロジンスキが「音楽監督」を解任され、客演していたヴァルターが音楽顧問として空白をつないでいた時期に当たります。
バルビローリ辞任後に首席指揮者に着任したロジンスキは、人事権も含めた「音楽監督」というポストを運営母体に認めさせ、「血の浄化」と呼ばれる大規模なリストラクションでオーケストラの立て直しを図りました。しかし、こうした強引な手腕は、ロジンスキとオーケストラおよび運営母体の間に深刻な軋轢を生じさせてしまい、ロジンスキは任期半ばで辞任しなければならなくなりました。
この頃によく客演に来ていたのが、ミトロプーロスで、その手際の良いリハーサルと抜群の耳の良さでオーケストラの信任を得、本録音の翌年には正式に首席指揮者に就任しています。
また、ミトロプーロスは、同時代の作品の擁護者としてシゲティと共通項があり、折を見てしばしば共演していました。
ここに聴くミトロプーロスのサポートは、先のヴァルターの指揮するメンデルスゾーンのオーケストラとは比べ物にならないくらいに反応が良く、充実した演奏を聴かせています。音楽的な瑕疵といえば第1楽章の前奏でヴァイオリンの導入直前に弦楽セクションが勢い余って乱れるくらいでしょうか。
シゲティの独奏も、恰幅の良いオーケストラの鳴りっぷりに心なしか気分良く弾いているように聴こえます。
第2楽章に於いても、オーケストラとヴァイオリンの対話が親密で、先のメンデルスゾーン以上にシゲティの音色が磨かれています。
第3楽章は、ミトロプーロスのダイナミックでリズム感の良いサポートが推進力を生み、シゲティの気合の入った独奏共々アクセントが良く効いていて、こうでなくてはと思わせる説得力があります。

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