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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Joseph Haydn: Die Schöpfun
Regina Werner (S.: Gabriel, Eva)
Peter Schreier (T.: Uriel)
Theo Adam (Bs-Br.: Raphael, Adam)
Rundfunkchoir Berlin (Chorus master: Wolf-Dieter Hauschild)
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin / Helmut Koch
Wolf-Dieter Hauschild (Cemb.)
(Rec. 28 January - 9 February 1974, SRK Saal, Berlin)








日本語で「聖譚曲」という訳語の当てられるオラトリオ(Oratorio)は、礼拝堂を意味するラテン語”Oratorium”を語源とするように、宗教的音楽劇として説明することが出来ます。しかし、大衆演劇のように芝居をしたり、大道具や小道具を使ったりすることはありません。
その成り立ちは、直接的にはフィリッポ・ネリが1564年からローマで開いたオラトリオ会に由来します。このオラトリオ会は聖職者だけでなく一般の人にも祈祷に参加しやすいように修道会流の階級による絶対服従の会則を取り払い、祈りの文言に音楽をつけて聖歌とし、その聖歌の唱和を通してキリスト教信仰の啓発に努めました。短い章句にメロディ・ラインをつけるだけだったオラトリオ会の聖歌は、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナら音楽家たちの尽力で、次第に唱和し甲斐のあるものへと進化していき、これがオラトリオの基礎となりました。音楽劇としての性格を持つようになったのは、エミリオ・デ・カヴァリエーリが《魂と肉体の劇》を1600年に試作してからのことです。カヴァリエーリは、ギリシャ古典劇復興のための芸術集団「カメラータ」のメンバーで、《魂と肉体の劇》もその復興研究の成果として発表したものでしたが、それ以降宗教と音楽劇の融合を目指した表現が模索されるようになり、宗教的音楽劇たるオラトリオとして洗練、進化していきました。
似たようなものにカンタータ(Cantata)がありますが、カンタータの場合は「歌う」という意味のラテン語”Cantare”を語源とするように、元々は器楽曲としてのソナタとの対比で伴奏付歌曲集一般を指すものでした。
オラトリオは、その成り立ちから聖書に取材することが強く求められますが、カンタータはその題材を様々なものに求めることが出来ます。オラトリオとカンタータの根本的な違いは、題材の制約の緩さの度合いだったといえます。
しかし、時代が下るにつれ、その根本的な相違に頓着しなくなり、区別が不明確化していったため、総合的に両者を比べると、厳密な違いを定義しにくいという結果に陥っています。

オーストリアの作曲家であるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Jpseph Haydn, 1732-1809)ことヨーゼフ・ハイドンの書いた《天地創造》は、聖書に依拠した題材でオラトリオを書くのが普通だった時代の産物です。
ハイドンは神聖ローマ帝国領のローラウという町に車大工の息子として生まれた作曲家で、弟のミヒャエルも同じく作曲家になりました。6歳で音楽学校を経営していた叔父のヨハン・マティアス=フランクに音楽の手ほどきを受け、8歳から17歳までウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊の隊員となって、実地的に音楽の理論を吸収していきました。その後フリーランスの音楽家としてアルバイト生活に精を出しましたが、1759年にモルツィン伯爵家の宮廷楽長に就任しています。その後、モルツィン家が傾いたため、1761年にエステルハージ侯爵家の宮廷副楽長にトラバーユし、1766年に楽長に昇進。1790年にエステルハージ家の当主ニコラウス・ヨーゼフが亡くなり、家督を息子のアントンが継いだ際には、エステルハージ家の宮廷楽団は解散同然になり、ハイドンも年金を支給してもらうという形で楽長職から退くことになりました。楽長職を退いた後は、音楽興行師のヨハン・ペーター・ザロモンの呼びかけに応じてイギリスに旅行に行って新作の交響曲を矢継ぎ早に発表しています。1794年にはエステルハージ家の当主だったアントンの逝去により、アントンの息子で宗教音楽好きのニコラウスが家督を継ぎ、ハイドンは宮廷楽団の再建の為に楽長職に復帰し、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの内弟子だったヨハン・ネポムク・フンメルをコンサートマスターにつけて宮廷楽団を復活させました。また、ニコラウスの要望に応える形でミサ曲の作曲にも積極的に取り組み、その経験が《天地創造》の作曲で生かされることになりました。ただ、1803年後頃から、ハイドンは書痙を含む体の不調が顕在化し、作曲活動が出来なくなりました。1804年にはエステルハージ家の宮廷楽長の職をフンメルに譲り、音楽活動の第一線から退いています。隠遁後は、要介護の生活になりましたが、比較的体調の良いときには、自分の作った皇帝賛歌(オーストリア帝国国歌)をクラヴィーアで弾いてストレスを解消し、ナポレオン・ボナパルトの侵攻下のウィーンで亡くなる数日前にも、その曲を弾いていたとのこと。
閑話休題、1790年に引退後のハイドンは、1790年から1792年、1794年から1795年までの2回に渡ってイギリスに旅行に行きましたが、このイギリス旅行でジョージ・フレデリック・ハンデルことゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの作ったオラトリオを鑑賞して刺激を受けています。ジョン・ミルトンの『失楽園』や旧約聖書の詩篇を下敷きにした作者不詳の英語の「天地創造」の台本を入手したハイドンは、これをウィーンに持ち帰り、音楽仲間で男爵のゴットフリート・フォン・スヴィーテンにドイツ語に翻訳してもらい、その翻訳された台本を使って1796年から1798年までの二年間をかけてオラトリオ《天地創造》を完成させました。1798年4月29日にウィーンのシュヴァルツェンベルク宮殿で試演された後、1799年3月19日にウィーンのブルク劇場で公開初演が行われましたが、この初演は大反響を呼びました。この初演の打ち上げの席でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが「私は先生のような作品が作れません」とハイドンに語りかけた際、ハイドンは「そうだろう、君には作れないさ!」と切り返したのだとか。また、この作品の楽譜を、1800年にはハイドンが自費出版し、これも大いに売れたそうです。

この《天地創造》は、旧約聖書の創世記に取材しており、全部で三部に分けられています。
創世記では、神が1日目に混沌から秩序を作り、2日目に秩序化された世界を天と地に分け、3日目に地上に海と陸を作り、4日目に世界を昼と夜に分けて太陽と月と星を設定し、5日目に水生生物と鳥類を作り、6日目に陸地に人間を含めた生物を誕生させ、7日目に神が人間から祝福されるという話が語られます。ハイドンの作品では、この1日目から4日目までを第一部とし、5日目と6日目を第二部としたうえで、最後に人間の神への賛歌を歌い上げるようにしています。これらの創世物語の実況を天使ガブリエル、ウリエル、ラファエルの三人で分担し、神の手によって作られた世界を合唱とオーケストラで描写していくという手法を取ります。

本CDのキャストは、以下の通り。
レギーナ・ヴェルナー (ガブリエル&イブ)
ペーター・シュライアー (ウリエル)
テオ・アダム (ラファエル&アダム)
ベルリン放送合唱団 (合唱指揮:ヴォルフ=ディーター・ハウシルト)
ベルリン放送交響楽団 / ヘルムート・コッホ
ヴォルフ=ディーター・ハウシルト (チェンバロ)
コッホ(Helmut Koch, 1908-1975)は、ドイツのバルメン出身の指揮者です。12歳でヴァイオリンを始めたコッホはライン音楽院に進学し、ヘルマン・シェルヘンとフリッツ・レーマンの薫陶を受けています。1930年にベルリンの労働者合唱運動に参加する形で指揮活動を始め、1945年にベルリン室内管弦楽団、1948年にベルリン放送合唱団(Rundfunkchoir Berlin)をそれぞれ組織し、亡くなるまでこの両者の首席指揮者として活躍しました。旧東ドイツのオラトリオ演奏の大家として知られ、このハイドンの作品やヘンデルのオラトリオなども積極的に紹介して再評価を促していました。
ベルリン放送交響楽団(Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin)は、1923年に発足したベルリンのオーケストラで、第二次世界大戦後は東ドイツの代表的なオーケストラとして気を吐いていました。西ベルリンにも、日本語に直すと同じ名前のオーケストラがありましたが、そちらは1993年に「ベルリン・ドイツ交響楽団」と名称を変更しています。ちなみに、コッホの結成したベルリン室内管弦楽団は、この1923年発足のオーケストラからの選抜メンバーでした。
ガブリエル&イヴ役として歌うヴェルナー(Regina Werner, 1950-)はツヴィッカウ生まれのソプラノ歌手です。元々は聖トーマス教会の音楽学校でピアノを学んでいましたが、エヴァ・ブッチャーに声楽を学び、1972年にライプツィヒのバッハ国際音楽コンクールの声楽部門で入賞したのを機に声楽家として活動してきました。
シュライアー(Peter Schreier, 1935-)はマイセンの出身で、ドレスデンの聖十字架教会聖歌隊として音楽教育を受け、1959年に改めて歌手デビューを飾っています。テノール歌手としてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品を得意としたシュライアーですが、必要とあらばリヒャルト・ヴァーグナーの作品も歌い、多彩な表現でドイツ随一と言われました。指揮者としても活動しています。
アダム(Theo Adam, 1926-)はドイツのバス=バリトン歌手です。シュライアーと同じくドレスデンの聖十字架教会聖歌隊として声楽の訓練を積んだ後、1946年から3年間ルドルフ・ディートリヒの薫陶を受け、1949年にオペラ歌手としてデビューしました。1979年にウィーン国立歌劇場から宮廷歌手の称号を授与されています。
本CDで合唱指揮をしながらレチタティーヴォのチェンバロを弾いているのは、コッホの後継と目された、グライツ出身のハウシルト(Wolf-Dieter Hauschild, 1937-)です。ヴァイマル・フランツ・リスト音楽院でオトマール・ゲルスターにピアノ、ヘルマン・アーベントロートとゲルハルト・プフリューガーに指揮法を学んでいます。シェルヘンやセルジュ・チェリビダッケにも指導を受けたハウシルトは、ヴァイマール国立歌劇場やフランクフルトの歌劇場の首席指揮者を歴任し、コッホの死後はベルリン放送合唱団の指揮者としても活躍しています。

18世紀の音楽の演奏は、今日では、綿密な時代考証に基づいて、楽器を復元し、その時代に行われていた演奏法で演奏するのが良いとされています。こうした観点からすると、ここで演奏しているオーケストラやコーラスの規模は、作曲当時の規模から考えれば超過気味ですし、通奏低音で使っているチェンバロも、復元楽器ではなく、モダン・チェンバロです。豪勢な響きで奏でられるこのオラトリオは、ハイドンの生きていた時代の音の復元という面では、いささか問題がありますが、そういった時代考証に基づいた復元性に拘泥しなければ、大変しっかりとした、聴き応えのある演奏です。

ヴェルナーの若々しい歌声、端正さとドラマトゥルギーが同居したシュライアーの名唱、厳しさと優しさがブレンドされたアダムの歌唱など、声楽ソロ陣は大変美しく仕上がっています。オーケストラも編成の大きさにかまけることなく、当意即妙のニュアンスを加えながらスケールの大きな世界を築き上げています。ハウシルトの指導による合唱団も、対位法的処理に優れ、発音のしっかりした歌唱を聴かせてくれています。ヨーロッパの放送オーケストラ附属の合唱団は、往々にして時々荒い演奏なことがありますが、この録音からは、この曲の演奏の模範を目指すような凄まじい集中力を感じます。

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