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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Ferruccio Busoni: Indianische Fantasie, op.44
Sergio Fiorentino (Pf.)
"A. Scarlatti" RAI Orchestra of Naples / Massimo Freccia
(Rec. 29 December 1959, Sala del Conservatorio, Naples) Live Recording with Applause
Alfredo Casella: Scarlattiana, op.44
Sergio Fiorentino (Pf.)
"A Scarlatti" RAI Orchestra of Naples / Feruccio Scaglia
(Rec. 10 March 1972, RAI Auditorium, Naples) Live Recording with Applause
Emilia Gubitosi: Concerto per pianoforte e orchestra
Sergio Fiorentino (Pf.)
RAI Orchestra of Rome / Peter Maag
(Rec. 3 March 1964, RAI Auditorium, Rome) Live Recording without Applause






セルジオ・フィオレンティーノ(Sergio Fiorentino, 1927-1998)のピアノ協奏曲集と題して、フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866-1924)のインディアン幻想曲、アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella, 19883-1947)のスカルラッティアーナ、エミリア・グビトージ(Emilia Gubitosi, 1887-1972)のピアノ協奏曲の3曲を収録しています。このCDに収録されているのは、これまで発売されてこなかった放送音源とのことですが、大きく二つの残念な点があります。
まずは、その音源の保存状態があまりよくないことです。ライヴ録音なので、当時の聴衆の発するノイズは許容範囲内ですが、その音質全体が劣化している点です。ブゾーニの作品は1950年代末ということで、モノラル方式の録音からステレオ録音の方式への過渡期でもあったので致し方なしとは思うのですが、カゼッラの作品は1972年の録音で世界的にステレオ方式の録音が可能な時期に、何故ブゾーニ作品と大差ない音質になっているのでしょうか。グビトージの作品は1964年の録音ですが、これもまたブゾーニ作品の録音とあまり変わらない音質になっています。その音質の劣化具合は、1940年代後半のNBC交響楽団の放送音源といい勝負なレベルです。ただ、残響感のない生々しさは、残響を好まぬリスナーには好まれるでしょう。
二つ目はトラック処理の問題です。ブゾーニのインディアン幻想曲は単一楽章の作品、グビトージの協奏曲は切れ目なく演奏される三楽章構成の作品です。これらの作品について、それぞれ3つのトラック分けをしていますが、そのトラック分けの処理が杜撰で、次のトラックに移るときに0.5秒から1秒程度の無音状態が発生します。この無音状態は、作品の鑑賞の妨げになるでしょう。復刻はオリジナル音源を損なわないような方法でなされるべきです。

閑話休題、本CDに収録された作品の作曲家と作品自体について書きます。

ブゾーニはイタリアのエンポリに生まれた作曲家です。父フェルディナンドはコルシカ島生まれのイタリアの旅回りのクラリネット吹きで、母アンナ(旧姓ヴァイス)は母方がイタリア人で父方がユダヤ系のドイツ人という家系にトリエステで生まれたピアノ奏者でした。つまり、ブゾーニはドイツ人とイタリア人のクウォーターということになります。なにはともあれ、両親に音楽の英才教育を受け、7歳でピアノの天才少年として両親のプロデュースでデビューを果たし、作曲も始めるようになりました。11歳の時にはフランツ・リストと面会し、13歳から15歳頃までグラーツのヴィルヘルム・マイヤー=レミーに作曲法を教わっています。その後はコンサート・ピアニストとしての活動の傍らで作曲をこなし、1888年にはヘルシンキ音楽院の講師となりました。1890年にはモスクワで開かれたアントン・ルビンシテイン国際音楽コンクールにピアノと作曲で応募して作曲部門で優勝し、モスクワ音楽院に就職しましたが、1891年にはアメリカはボストンに行き、ニューイングランド音楽院に移籍しています。しかし、その翌年には音楽院を退職し、1894年にはヨーロッパに戻ってベルリンに居を構え、ピアノ奏者兼作曲家としての活動に専念しました。晩年は腎臓病を患い、1922年以降はピアノ奏者としての活動を停止し、そのままベルリンで亡くなっています。
作曲家としてのブゾーニは、過去の作曲家達の作品の編曲や校訂を熱心に行い、またその編曲作業を自らの芸風の確立に生かしていました。本CDに収録されているインディアン幻想曲はブゾーニが1913年から翌年にかけて作った作品で、ブゾーニがアメリカ・インディアンの音楽を書きとめた《インディアン日誌》からテーマが採られ、超絶技巧のピアノとオーケストラが丁々発止と渡り合うスリリングな作品に仕上がっています。作品はブゾーニの弟子のナタリー・カーティスに献呈され、1914年3月12日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でブゾーニ自身のピアノで初演されたそうです。

カゼッラもまた、ブゾーニ同様にピアニスト、作曲家、音楽理論家、教師と、マルチな音楽家ぶりを発揮した作曲家です。ナポリの音楽家の一族の家に生まれ、ピアノ教師だった母親から幼少時より音楽の手ほどきを受けました。13歳でパリ音楽院に留学してルイ・ディエメにピアノを学び、作曲をガブリエル・フォーレに師事しました。フォーレのクラスで学んだことで、モーリス・ラヴェルやジョルジェ・エネスクらと知り合い、クロード・ドビュッシー、イーゴリ・ストラヴィンスキー、グスタフ・マーラー、リヒャルト・シュトラウスやブゾーニらとも親交を結びました。1915年にはイタリアに戻って1923年までローマ聖チェチーリア音楽院で教鞭を執り、1923年にはイタリア新音楽協会の発起人に名を連ね、マリオ・カステルヌォーヴォ=テデスコやゴッフレド・ペトラッシ等の作曲家の新人発掘に尽力しました。また、一方でオットリーノ・レスピーギやフランチェスコ・マリピエロらと共に、18世紀以前のイタリア音楽の研究にも熱心に取り組み、アントニオ・ヴィヴァルディ等の作品を積極的に紹介しました。ただ、第二次世界大戦中のカゼッラは、ベニート・ムッソリーニとも親交を結び、ファシズム政権を熱烈に支持したため、戦後はローマで失意の晩年を送りました。
《スカルラッティアーナ》はカゼッラが1926年に作った、シンフォニア、ミヌエット、カプリッチョ、パストラーレ、フィナーレの5つの部分からなるピアノとオーケストラのためのディヴェルティメントです。1927年1月27日にカーネギー・ホールで行われたニューヨーク・フィルハーモニー協会の演奏会で、オットー・クレンペラーの指揮と作曲者自身のピアノによって初演されました。20世紀前半のイタリアは、古楽復興運動が盛んに行われており、既にレスピーギが《リュートのための古風な舞曲とアリア》第1組曲(1917年作)で古の作曲家の作品をかき集めて焼き直すことに成功し、フランスではイーゴリ・ストラヴィンスキーも《プルチネルラ》(1919-1920年作)でジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの作とされていた音楽を利用して、古楽復興の動きに弾みをつけていました。カゼッラの作品はドメニコ・スカルラッティのソナタ集から数曲ピックアップして引用しており、こうした古楽復興の潮流に合わせています。この時期の古楽復興は、原曲の復元ではなく、それを素材にして当時の聴衆の趣味に合うように編曲し、その作曲家のことを一般に知ってもらうことを重視しました。古楽の研究が発展した今日では、原曲復元の観点から、これらの作品はとんでもないことをしていると思われがちですが、彼らのプロパガンダが古楽復興の呼び水になったことを考えると、感慨深いものがあります。

グビトージは、ナポリに生まれ、ナポリに没した作曲家です。地元のサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院(以後「ナポリ音楽院」とする)でベニアミーノ・チェシ、コンスタンティーノ・パルンボ、フロメスコ・シモネッティ、カミロ・デ・ナルディス、ニコラ・ダレンツィオの各氏の薫陶を受け、1906年にピアノと作曲の学位を得て卒業しましたが、女性で作曲の学位を得たのはグビトージが初めてなんだとか。1914年から母校のナポリ音楽院で教鞭を執り、1918年にはアレッサンドロ・スカルラッティ音楽協会の発起人の一人に名を連ねて、イタリア音楽の復古主義の一翼を担いました。
ここに収録されるピアノ協奏曲は、1914年に作曲されたものとのことですが、1943年まで出版されなかったのだとか。19世紀からのヴィルトゥオーゾ風の協奏曲の特徴を、三章立ての20分程度の作品に手際よく纏めた感じに仕上がっており、1943年に刊行された時には、既に時代遅れの作品と見做されてしまっていた節があります。楽章間のつなぎ目が途切れることのない作品ですが、本CDではトラック分けの際に失敗したのか、わずかながら音が途切れてしまうのが残念です。

本CDでピアノ独奏を担当するフィオレンティーノは、グビトージと同じようにナポリに生まれ、ナポリに没したピアノ奏者です。グビトージも学んだナポリ音楽院でルイジ・フィニツィオとパオロ・デンツァらにピアノを学び、カルロ・ゼッキにも弟子入りしています。1953年にはアメリカのカーネギー・ホールでのリサイタルを成功させて一躍有名になりましたが、南米への演奏旅行中に飛行機のトラブルに遭遇したことで海外への演奏活動を控えるようになり、母校のピアノ教師になってからはイタリア国内での散発的な演奏活動のほかは後進の指導に専念するようになりました。1993年に母校の職を引退し、活発な演奏活動を再開させましたが、その矢先にナポリの自宅で急逝しました。
フィオレンティーノは、1960年代初頭までそれなりに録音活動をしていましたが、その録音を行っていた会社が倒産して音源が投げ売りされたこともあって、別レーベルからマルセル・プロコポリスという偽の名義で販売されていたことがあります。晩年に録音活動も再開し、アッピアン・パブリケーション&レコーディングス社がフィオレンティーノの録音を積極的に販売したことで、それらの音源の整理が行われ、ピアノの名手として世界的に注目を集めるようになりました。このフィオレンティーノの人気に便乗して、コンサート・アーティスツ・レコーディングスというレーベルが彼の未発表音源と称するCDを販売したことがありましたが、これは既発売の録音を利用した紛い物だということが判明しています。
このファブラ・クラシカというレーベルが使っている音源は、ナポリやローマの放送局に残っていたものを使用したものとのことで、原盤の保存状態があまり良くなかったのか、1940年代の音源だといわれても信じてしまうような音質です。
ブゾーニとカゼッラの作品は、ナポリ・イタリア放送アレッサンドロ・スカルラッティ管弦楽団(Orchestra Alessandro Scarlatti di Napoli della RAI)が伴奏のオーケストラとしてクレジットされています。かつて、イタリア放送にはローマ、ミラノとトリノの放送局にお抱えの交響楽団がありましたが、ナポリにあったのが、このアレッサンドロ・スカルラッティ管弦楽団でした。元々アレッサンドロ・スカルラッティ協会の室内管弦楽団だったようですが、いつの間にかナポリの放送局のオーケストラとして活動するようになり、1994年にイタリア国立放送交響楽団に再編される形で消滅してしまいました。グビトージの作品の伴奏オーケストラであるローマ・イタリア放送交響楽団(Orchestra Sinfonica della RAI Roma)は、ここではローマ・イタリア放送管弦楽団という表記になっていますが、1936年に発足したイタリア放送のローマ局のお抱えのオーケストラでした。このオーケストラも、他の局お抱えのオーケストラ同様に1994年にイタリア国立放送交響楽団に吸収再編されて消滅しています。
ブゾーニ作品で指揮を執るマッシモ・フレッチャ(Massimo Freccia, 1906-2004)は、ピストイア近郊ヴァルディブーレのイタリア貴族の家に生まれ、ローマ近郊ラディスポリで亡くなった指揮者です。フィレンツェのケルビーニ音楽院に入学して学生オーケストラを組織し、その指揮者として経験を積んだ後にウィーンに留学して晩年のフランツ・シャルクに指揮法の教えを乞いました。1933年からブダペスト交響楽団、1939年から1943年までハバナ・フィルハーモニー管弦楽団、1944年から1951年までニュー・オルレアン交響楽団、1952年から1959年までボルティモア交響楽団、1959年から1963年までローマ・イタリア放送交響楽団の首席指揮者をそれぞれ歴任しています。その後はフリーランスの指揮者として92歳まで演奏活動を継続しました。
カゼッラの作品で指揮を執るフェルッチョ・スカーリア(Ferruccio Scaglia, 1921-1979)は、トリノ出身でローマに没した指揮者です。地元の音楽院を経てシエナ音楽院でアリゴ・セラートにヴァイオリンを学び、ヴァイオリン奏者として活動を始めましたが、1959年から1963年までフレッチャと共同でにローマ・イタリア放送交響楽団の首席指揮者を務めました。
グビトージの作品でローマ・イタリア放送交響楽団を指揮するペーター・マーク(Peter Maag, 1919-2001)は、スイスのザンクトガレンに生まれ、ヴェローナで没した指揮者です。元々ピアノ奏者としてアルフレッド・コルトーの下で学んでいましたが、共演したヴィルヘルム・フルトヴェングラーの進言で指揮法を学ぶようになり、エルネスト・アンセルメ等に師事しました。第二次世界大戦後の1952年にデュッセルドルフ歌劇場の指揮者陣に加わったことで指揮者に本格的に転向し、1955年にはボン市の音楽監督に就任しています。しかし、1960年代に入ってから一旦音楽活動を停止して禅を学び、1964年にウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督として返り咲きました。その後は1970年からパルマ歌劇場の音楽監督を務め、1974年からトリノのレージョ劇場の音楽監督に転任。1983年よりパドヴァ・エ・ヴェネト管弦楽団の首席指揮者を務め、1984年から1986年までスペイン国立管弦楽団の首席指揮者、1985年から1991年までベルン市の音楽監督のそれぞれを兼任しました。一方で1988年にトレヴィーゾ市立歌劇場に客演した際に、歌劇場側にオペラの研修施設の設立を提案し、その研修施設の運営にも携わりました。

演奏について、その保存状態の悪そうな音質からでも、フィオレンティーノの達者なピアノの技を堪能することが可能です。フレッチャと共演したブゾーニ作品では、細かい完成度に疑問符のつくパッセージも散見されますが、フィオレンティーノは勢いのある弾きっぷりで難点をカバーしています。オーケストラは、録音が管楽セクションを優先的に集音する仕様なのか、カゼッラの作品共々もっさりしています。録音上のハンディを抜きにしても、ナポリのオーケストラがアンサンブルの精度の点で今一つですが、トラック2の中間部ではフレッチャがオーケストラから伸びやかな歌を引き出しており、このCDの名場面の一つに数えられるかと思います。
カゼッラの作品でのフィオレンティーノのピアノ演奏は、瞬発力と弾力性があり筋肉質な作品のオーケストレーションの骨格の役割をガッチリとこなしています。オーケストラはしばしばフィオレンティーノに煽られており、シンフォニアの部分のトランペットなど前のめり気味です。パストラーレ冒頭の管楽セクションの合奏などオーケストラの音色の練り上げ不足なところもあり、録音の妙に生々しい力感も相まって全体的に雑然とした印象が残りますが、フィオレンティーノのピアノに慰められるようなミヌエットの表情が出色の出来栄えです。
グビトージの作品では、オーケストラが同じイタリア放送系列のオーケストラかと思えるほどに音色のブレンドに気が払われており、オーケストラと指揮者の力量を考えさせられます。名義主義に傾倒した協奏曲のピアノ・パートをフィオレンティーノは難なくこなすだけでなく、各楽章の性格に適した語り口で表現力の高さも見せつけており、オーケストラ共々この曲の価値を高めるのに十二分の働きをしています。

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