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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Ernest Bloch: Concerto Grosso No.1 for String Orchestra with Piano obbrigato
Ernest Bloch: Concerto Grosso No.2 for String Orchestra
Eastman-Rochester Orchestra / Howard Hanson
(Rec. 5 May 1959, Eastman Theatre, Rochester, New York)
Ernest Bloch: Schelomo
Georges Miquelle (Vc.)
Eastman-Rochester Orchestra / Howard Hanson
(Rec. 16 December 1960, Eastman Theatre, Rochester, New York)







ハワード・ハンソン(Howard Hanson, 1896-1981)は、ネブラスカ州ワフーに生まれた、アメリカの指揮者です。本業は作曲家で、世界初のアメリカ人が作ったオペラ《メリー・マウント》や7曲の交響曲などを書き上げています。また、1924年から1964年までイーストマン音楽学校の校長を務め、ユリシーズ・ケイやロバート・ウォードといった作曲家たちを育てています。
ハンソンが好調を務めていたイーストマン音楽学校は、イーストマン・コダック社の創立者のジョージ・イーストマンが出資して1921年に設立した音楽学校でした。イーストマンは1922年にロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団(Rochester Philharmonic Orchestra)も創設し、音楽学校内のイーストマン劇場を本拠に定めました。ハンソンを校長に指名したのも、イーストマンでした。本CDでハンソンの指揮で演奏している「イーストマン=ロチェスター管弦楽団」(Eastman-Rochester Orchestra)は、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団の別名義です。

エルネスト・ブロッホ(Ernest Bloch, 1880-1959)はスイスのジュネーヴに生まれた作曲家。9歳から地元のヴァイオリン奏者のアルベルト・ゴスの下でヴァイオリンを学び、1981年にジュネーヴ音楽院に入学して、ルイ・レイにヴァイオリン、エミール・ジャック=ダルクローズに作曲を師事しました。1896年にはブリュッセルに行ってウジェーヌ・イザイに短期間ながら入門し、また作曲家のフランソワ・ラッセの下で作曲の腕を磨いています。イザイの勧めでジャック・ティボーやジョルジェ・エネスクにヴァイオリンを指導してもらった後、1900年にはフランクフルトのホーホ音楽院に行ってイヴァン・クノールに対位法を学び、ルートヴィヒ・テュイレにも作曲法を教わっています。
ブロッホは作曲家としてだけでなく、教師としても非常に優秀で、音楽修行を終えてスイスに戻っていた時には、後に指揮者となるエルネスト・アンセルメに音楽の基礎を叩きこんでいます。1916年に自作の演奏のためにアメリカに渡ると、すぐにマネス音楽学校の講師に迎えられ、1920年には新設されたクリーヴランド音楽院の音楽監督に引き抜かれています。その後、サンフランシスコ音楽院の教授を経てカリフォルニア大学のバークレー校で後進の指導に当たり、オレゴン州ポートランドで癌のために亡くなっています。名教師として鳴らしただけあって門下生も多く、アンセルメのほかは、ジョージ・アンタイル、ロジャー・セッションズ、ダグラス・ムーア、クインシー・ポーター、フレデリック・ジャコビやバーナード・ロジャースなどが数えられます。
本CDに収録された2曲のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)は、弦楽合奏の教材として書かれた作品で、ピアノのオブリガートが付きます。第1番のほうは1925年頃に完成した作品で、〈前奏曲〉〈服喪の歌〉〈牧歌と田舎の踊り〉〈フーガ〉の4楽章からなります。初演は1925年の5月29日にクリーヴランド音楽院で、ウォルター・スコットのピアノと作曲者の指揮する学生オーケストラで行われました。その翌年には、エディス・ヘンチュ=フンベルトのピアノとアンセルメの指揮するスイス・ロマンド管弦楽団によってジュネーヴでもお披露目されました。
1920年代はオットリーノ・レスピーギやイーゴリ・ストラヴィンスキーらの活躍で新古典主義音楽が流行しており、ブロッホもその流儀を型にしながら、濃密な表情の音楽を鋳造しています。オブリガートのピアノが第4楽章ではフーガの一端を担う重要な役どころを演じるのも聴きものでしょう。
第2番のほうは1952年に作曲された弦楽合奏曲。この曲を作曲した年にバークレー校の職を辞して隠遁生活に入っており、この曲はバークレー校への置き土産だったのかもしれません。1953年12月2日にボストン交響楽団の演奏会でシャルル・ミュンシュの指揮で初演されました。こちらは前作と四楽章構成であることは共通しているものの、ピアノのオブリガートがつきません。アルカンジェロ・コレッリからの合奏協奏曲のスタイルを第1番より徹底したつくりになっています。この曲が出来た頃には、既に新古典主義の流行も落ち着いていましたが、ブロッホは合奏協奏曲の原理に創意を刺激されたようです。小規模合奏(コンチェルティーノ)と大規模合奏(リピエーノ)の掛け合いというコレッリの合奏協奏曲の原理を踏襲していますが、第1番の時同様に、必ずしもコレッリの時代の音楽の再現を目指したものではありません。第3楽章など、ガヴォットをブロッホ好みに引き寄せたようなダイナミックな音楽になっており、第4楽章も変幻自在な変奏曲でブロッホの作曲技術の粋が凝らされています。第1楽章と第2楽章を切れ目なく演奏させているのも、コレッリの様式から逸脱しています。

《シェロモ》は1916年に作られたチェロとオーケストラのための協奏的な作品です。この作品が生まれたきっかけは、ロシア出身のバルヤンスキー夫妻との出会いでした。アレクサンドル・バルヤンスキーは高名なチェロの名手で、その妻カタリンも彫刻家として名を馳せていました。ブロッホは、バルヤンスキーのチェロに人の声を連想し、カタリンの彫った古代のイスラエル王国の王ソロモン像にインスピレーションを得て、この曲を書き上げました。「シェロモ」というのは、「ソロモン」をヘブライ読みにしてアルファベットに転写したもので、曲にはヘブライ狂詩曲(Rhapsodie Hébraïque)という副題がつけられています。1917年5月13日に、ニューヨークはカーネギー・ホールのニューヨーク・フィルハーモニー協会の演奏会で、アルトゥール・ボダンツキーの指揮とハンス・キンドラーのチェロ独奏で初演されました。この成功からブロッホはアメリカ定住への道を進むことになり、この作品はブロッホのヨーロッパ時代最後の作品となってしまいました。余談ながら、第二次世界大戦がはじまるまで、ブロッホはスイスに度々戻り、ヨーロッパでの活動を模索していましたが、家系としてユダヤ人だったため、ナチスの台頭でヨーロッパでの活動を断念しています。
この作品は、狂詩曲と銘打たれたように、自由な形式でソロモン王と王国の栄枯盛衰を20分くらいの音楽に凝縮したもの。ソロモン王たるチェロを狂言回しにし、オーケストラがソロモン王から見た現実や心象を司ると考えるとイメージしやすいと思います。訥々とした最初のチェロのモノローグは、望むものを与えようとする神に「知恵を下さい」と応じるソロモン王の慎みを表しています。オーケストラは、様々な響きでチェロを籠絡しようとし、チェロはそれに抗うように自分のペースで歌を紡ぎます。チェロの紡ぎ出すモチーフを利用して、オーケストラは時には艶めかしく、時には威圧的にチェロに接しますが、中間部の豪華絢爛な響きは古代のイスラエル王国の繁栄と民衆及びソロモンの中の虚栄心の増幅を表現します。次第にオーケストラの収拾がつかなくなり、破裂すると、おずおずとソロモンのチェロが現れ、うらぶれた響きで自らの歌を奏でながら消えていきます。いかなる知恵者も物欲に走れば虚栄しか残らないという教訓を身をもって説くような音楽です。

このCDでハンソン率いるイーストマン=ロチェスター管弦楽団の伴奏でチェロを弾くのは、フランスはリール生まれのジョルジュ・ミケル(Georges Miquelle, 1894-1977)です。
ミケルについては、生年が1896年とする資料もあり、詳細な情報はあまりありません。ブックレットなどの情報で分かっているのは、5歳でチェロを始め、7歳でリール音楽院に入学してエミール・ディエンヌの下で学び、19歳でパリ音楽院に入学しているということ。1918年にフランス軍楽隊と一緒にアメリカにやってきて、ボストンでピアノ教師のレネー・ロンギーと結婚し、1920年までボストン交響楽団に在籍しています。1920年からニューヨーク室内楽協会のチェロ奏者となり、翌年にはボストン弦楽四重奏団のチェロ奏者になりましたが、1923年にネリー・メルバとティート・スキーパの演奏旅行に帯同した後、すぐにデトロイト交響楽団の首席チェロ奏者として就職し、オシップ・ガブリロヴィチらとの室内楽やシャトークア・サマー交響楽団への参加などをこなしていました。1954年から1996年までイーストマン音楽学校のチェロの教師を務めた後は、1977年の7月ごろに亡くなったということ以外は明らかではありません。

各作品の演奏について、特に2曲のコンチェルト・グロッソは、簡にして要を得たハンソンの表現が功を奏し、作品の新古典主義的な作風を際立たせることに成功しています。特に第1番のフーガの各声部の処理の明快さは、フーガ演奏の模範と言えるでしょう。マーキュリー・レーベルお得意の「リヴィング・プレゼンス」の克明な録音も、非常に生々しいもので、きっちりとした演奏をより一層映えるものにしています。
《シェロモ》も、ハンソンならではのスマートな音づくりが透明な美しさを醸し出しています。ミケルのチェロは、技巧的には何の問題もなく、あらゆる局面をそつなくこなしていますが、ミケルのチェロ演奏でソロモン王を想像すると、栄養失調気味に聴こえます。これは録音の生々しい響きが楽器の響きの含蓄を減じさせている為ではないかとも考えましたが、ミケルの演奏の表情づけ自体が薄いのが主な原因のようです。映画『ベン・ハー』のような一大叙事詩的な表現にうんざりしている人には、低カロリーな演奏として歓迎されるでしょう。

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