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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Johannes Brahms: Violin Sonata No.1 in G major, op.78
Gioconda de Vito (Vn.)
Edwin Fischer (Pf.)
(Rec. 11-12 May 1954, No.3 Studio, Abbey Road)
Johannes Brahms: Violin Sonata No.2 in A major, op.100
Gioconda de Vito (Vn.)
Tito Aprea (Pf.)
(Rec. 29 March 1956, No.3 Studio, Abbey Road)
Johannes Brahms: Violin Sonata No.3 in D minor, op.108
Gioconda de Vito (Vn.)
Edwin Fischer (Pf.)
(Rec. 18-19 October 1954, No.3 Studio, Abbey Road)








ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)はドイツ連邦自由ハンザ都市のハンブルクで生まれた作曲家。
地元のオーケストラのコントラバス奏者だった父親から音楽の手ほどきを受け、7歳の頃からオットー・フリードリヒ・ヴィルバルト・コッセルにピアノを師事。そのまま10歳から地元の作曲家兼ピアノ奏者のヨーゼフ・マルクスゼンに作曲とピアノを学びました。
優れたピアノ奏者でもあったブラームスは、1853年にヴァイオリン奏者のエドゥアルト・レメーニと組んでヨーロッパ各地を演奏して回りましたが、この旅行時にレメーニの伝手でヨーゼフ・ヨアヒムの知己を得、ヨアヒムの紹介でロベルト・シューマンと面会しています。その時にブラームスが書き溜めていた作品をシューマンに見せたところ、シューマンはその才能を激賞し、「新しき道」と題する評論を発表してブラームスの名を知らしめました。
作曲家として着実にキャリアを積んでいったブラームスは、1862年から亡くなるまでウィーンに居を構え、音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリックから、彼の理想とする形式の美の体現者として広く称揚されるようになりました。

ブラームスはヨアヒムとも親交を結び、1853年にシューマンがヨアヒムの誕生日祝いにアルベルト・ディートリヒと一緒にヴァイオリン・ソナタを合作しようという計画を立てた時には、その計画に乗り、全四楽章のうちの第3楽章に当たるスケルツォを作っています。この合作のソナタはヨアヒムの座右の銘"Frei aber einsam"(自由で孤高)の頭文字を取ってF.A.Eソナタと名付けられました。一方で、ブラームス自身もヴァイオリン・ソナタを試作し、それをシューマンに見せたことがありますが、シューマンが出版を勧めたにもかかわらず、熟考の末に破棄してしまいました。その後も3~4曲ほどヴァイオリン・ソナタを作ったようですが、いずれも破棄されています。
ブラームスは他人の作品に対してだけでなく、自分の作品に対しても大変に批判的な人でした。他の作品の素材に使えるモチーフはちゃっかり保管して再利用したり、親友のヨアヒムの作ったオーケストラ曲のピアノ用編曲等を捨てずに手元に置くなど、例外的な措置を取ることもありましたが、特に自作の場合は、自分が設定する完成度に達しないと見做した作品を出版せず、ためらいなく処分したものです。そうやってブラームス自身の選別から生き残った作品のみが出版されており、結果として完成度の高い作品ばかりが後世に残ることになりました。このCDに収録された3曲のヴァイオリン・ソナタも、そんな厳しいブラームスの審査を通った名作であり、今日でもヴァイオリン奏者の大事なレパートリーになっています。

第1番のソナタは1878年から翌年にかけて、オーストリア南部のペルチャッハで作曲された三楽章構成の作品。ブラームスは風光明媚な場所を好み、作曲に集中したい時にはそうした避暑地に出かけて作曲していました。出来上がった作品は友人のヨーゼフ・ヨアヒムと試演し、完成した年の11月8日にボンでロベルト・ヘックマンのヴァイオリンと、マリー・ヘックマン=ヘルティの伴奏により初演されています。
この曲を作曲中に、シューマンとシューマン未亡人クララの間にできた息子で詩人のフェリックス・シューマンが25歳で病没しています。フェリックスの名付け親がブラームスだったこともあって、その死を悼む気持ちが第2楽章に投影されています。また、第3楽章では、ブラームスがかつて作った歌曲〈雨の歌〉op.59-3と〈余韻〉op.59-4が関連付けられており、この歌曲の引用が後年「雨の歌」というニックネームの元になりました。この引用した歌曲は、クララが好んだ曲であり、そうした歌曲の引用によって、悲しみの中にあるクララを慰めようとしたものと思われます。献辞は誰にも宛てられませんでしたが、作品全体にクララへの気遣いが込められています。

第2番のソナタは、1886年に、スイスの避暑地であるトゥーンで作曲されたもの。ブラームスの友人だったマックス・カルベックによれば、当地で一緒に過ごしたコントラルト歌手のヘルミーネ・シュピースを思って書かれたとのこと。しかし献呈は先のシューマン未亡人クララに宛てられています。
第1番と同じく三楽章構成をとり、第1楽章では歌曲の〈すぐにおいで〉op.97-5と〈メロディのように〉op.105-1、終楽章では〈我が眠りはますます浅くなり〉op.105-2と〈墓地にて〉op.105-4が使われています。
完成した年の12月2日にヨーゼフ・ヘルメルベルガー1世とブラームス自身のピアノで初演しています。
冒頭のメロディがリヒャルト・ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の〈懸賞の歌〉にそっくりだという指摘はブラームスの生前から言われていましたが、ブラームスは「愚か者にはそう見えるのだろう」といい、全く問題にしませんでした。

第3番のソナタは、1888年にトゥーンで作曲された作品。第1番のソナタを書いた頃から構想が練られており、破格の四楽章構成をとります。まるで交響曲を思わせる構成ですが、ヴァイオリンとピアノがイニシアチブを取り合うように作られています。1887年に友人の音楽学者であったカール・フェルディナント・パウルが亡くなったことを受け、他のソナタに比べて作風は内向的なものになりました。
作品は、完成されたその年の12月21日にイェネー・フバイのヴァイオリンと作曲者自身のピアノで初演され、ブラームスの擁護者となったハンス・フォン・ビューローに捧げられました。

本CDでは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全3曲のヴァイオリン・パートをジョコンダ・デ・ヴィート(Gioconda de Vito, 1907-1994)が担当し、第1番と第3番のピアノ・パートをエドウィン・フィッシャー(Edwin Fischer, 1886-1960)、第2番のピアノ・パートをティート・アプレア(Tito Aprea, 1904-1989)がそれぞれ担当しています。

デ・ヴィートはイタリアのマルティーナ・フランカに生まれたヴァイオリン奏者です。3歳からマンドリンを始め、8歳の時に母方の叔父でベルリンでヴァイオリン奏者として働いていたフランチェスコ・デル・ジュディスにヴァイオリンを学んでいます。その後はペーザロのロッシーニ音楽院でアティリ・クレパクス、ローマ聖チェチーリア音楽院でレミー・プリンチペに学び、1921年には卒業しています。1923年にはアルジェンティーナ劇場でピョートル・イリイチ・チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をマリオ・ロッシの伴奏指揮で演奏してデビューを飾り、翌年にはバリに新設された音楽院の講師に就任しています。1932年にはウィーン国際音楽コンクールで優勝し、1935年にはテレジーナ・トゥアの後任としてローマ聖チェチーリア音楽院の教授に迎えられました。1949年にはHMVの重役のデヴィット・ビックネルと結婚してロンドンを活動の拠点として活躍しましたが、1961年には演奏活動から身を引き、ローマで亡くなっています。

フィッシャーは、スイスのバーゼルに生まれたピアノ奏者。地元でハンス・フーバーの教えを受けた後、ベルリンに行ってマルティン・クラウゼの門弟になっています。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振りのスタイルの復活に一役買ったり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲を初録音したりした名手でしたが、第二次世界大戦中はナチス政権に近づく振りをしながら在ドイツのユダヤ人をヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共に国外に逃がす活動もしていました。
戦後もドイツ音楽界の重鎮として後進の指導と演奏活動を続けていましたが、このデ・ヴィートとの録音の後に体調を崩し、チューリヒの病院で亡くなっています。

そんなフィッシャーの後任としてデ・ヴィートの相方を務めたのがローマに生まれ、ローマに没した才人のアプレアでした。アプレアはナポリの音楽院でアレッサンドロ・ロンゴに学ん人で、作曲家としても活動していました。1963年から1973年までローマ聖チェチーリア音楽院の院長を務めており、イタリア音楽界の重鎮として知られていました。
ピアノ奏者としても有能で、請われればオーケストラと共演したり、伴奏者を買って出たりしていました。デ・ヴィートとは公私に渡って親交を結んでおり、何度も共演しています。デ・ヴィートとアプレアは、このブラームスの録音の他に、セザール・フランクやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタなどを録音しています。

本CDの演奏について、フィッシャーとの共演では、デ・ヴィートがフィッシャーにイニシアチブを譲りながら、19世紀ドイツ音楽の精髄について問答をするような形で仕上げられています。晩年のフィッシャーの訥々とした語り口の含蓄の深さは、特に第3番のソナタから醸し出される寂寥感と親和性が高く、それに対するヴァイオリンの音色も閑寂な風趣に上手く溶け込んでいます。
第1番のソナタも、フィッシャーとデ・ヴィートの掛け合いが、真理探究の為の対話の様相を呈しています。音楽を流麗に流すことを潔しとしない両者の音楽は、お互いがお互いのブラームス理解を開陳したうえで、より高い次元のブラームス像を練り上げようとするような、重厚さと厳粛さがあります。
派手な演奏効果を期待する耳にはぼんやりした演奏に聴こえますが、晩秋の残照の美しさに共感するような心性を持つことができれば、この演奏を通してブラームスの音楽の黒光りするような美感をじっくり味わうことができるようになるでしょう。時間をかけて味わいたい演奏です。

デ・ヴィートとアプレアによる演奏は、フィッシャーとの共演のような哲学的深淵をあぶり出すようなものではなく、風光明美な場所で親愛なる人と過ごす楽しみを期待するような心のはずみが掬い上げられています。デ・ヴィートは「アプレアとの共演は楽しい」と語っていましたが、気兼ねなく音楽でお互いの近況を伝えあうような親密さがあります。
問答によって得られる深みとは別の幸福感があり、フィッシャーとの共演の2曲の間にこの演奏を挟むことによって、アルバム全体の間奏曲のような働きを持つようになっています。

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