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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Franz Peter Schubert: Symphony No.8 in C major, D944
Warsaw States Philharmonic Orchestra / Carlo Zecchi
(Rec. 26 March 1955, Warsaw Philharmonic Hall) Live Recording with Applause
Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.39 in E-flat major, K543
Warsaw States Philharmonic Orchestra / Paul Kletzki
(Rec. 11-12 May 1962, Warsaw Philharmonic Hall) Live Recording with Applause







ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団(Warsaw States Philharmonic Orchestra)は、「ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団」とも紹介される、ポーランドを代表するオーケストラです。正式にはワルシャワ国立フィルハーモニー交響楽団(Orkiestra Symfoniczna Filharmonii Narodowej w Warszawie)といい、地元ポーランドでは"w Warszawie"は自明のものとして省略されます。
1901年にポーランド在住の貴族や財界人らが出資して設立し、初代首席指揮者のエミル・ムウィナルスキからずっとポーランド出身の指揮者が首席指揮者のポストを継いでいます。
第二次世界大戦中は戦禍の為に演奏活動がろくにできませんでしたが、なんとか持ちこたえ、1948年から国立のオーケストラとなり、ポーランドの音楽文化の主要窓口として現在も活発に活動しています。
そんなワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団は、2001年に創立100年を迎えたということで、アコードというレーベルから過去の音源をCDに復刻して散発的に市場に販売していました。
本CDは、そんな中の一枚です。
収録されている演目は、フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797-1828)の交響曲《ザ・グレート(グレイト)》とヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の交響曲第39番の2曲です。

シューベルトは、ウィーン近郊のヒンメルプフォルトグルントに生まれた作曲家です。
6歳でアマチュア音楽家の父からヴァイオリンを学んだ後、リヒテンタールの聖歌隊に入り、そこの指揮者であったミヒャエル・ホルツァーの薫陶を受けています。1808年にはウィーンの寄宿制神学校(ウィーン国立音楽大学の礎)に入学して聖歌隊のメンバーとして音楽に習熟し、1813年には父が経営していた学校の教師として働く傍らでアントニオ・サリエリの個人教授を受け、本格的な作曲活動を開始しています。
矢継ぎ早に多くの歌曲を作曲したため、日本では「歌曲王」というキャッチ・コピーが付けられていますが、器楽曲の作曲にも情熱を傾けており、晩年は交響曲作家としての成功を目指していました。
ウィーンで32歳になる前に早世しましたが、死因は腸チフスとも梅毒の亢進ともいわれています。
交響曲《ザ・グレート》は、1825年に作曲された交響曲です。しかし、初演するあてもなく、シューベルトの死後しばらく遺族が保管し、この交響曲の存在は、ロベルト・シューマンがシューベルト家を表敬訪問するまで知られないままとなっていました。
この交響曲は、しばしば番号が変わっており、未完成の交響曲や、幻の《グムンデン・ガシュタイン》交響曲を含めて、「第10番」と呼ばれたこともあれば、楽譜の存在しない《グムンデン・ガシュタイン》交響曲を割り引いて「第9番」と言われたこともあります。最近は、未完成の交響曲のうち、演目に乗せられる《未完成》の交響曲だけを交響曲としてカウントすることになり、「第8番」として扱われるようになっています。ただ、最近になって「第8番」という番号付けが定着してきたため、昔のレコードなどでは「第9番」などの番号付けが行われているものもあります。
なお、最近の研究では、幻の《グムンデン・ガシュタイン》交響曲は、この《ザ・グレート》か、その草稿ではないかといわれるようになっているということも申し添えておきます。
《ザ・グレート》という表題は、この楽譜を見つけたシューマンが「天国的な長大さ」と評したことから、そういわれているように思われていますが、実際は、この曲が、シューベルトのほかの交響曲と一緒に出版されたときに、同じ調性の第6番の交響曲との混同を避けるために、規模の大きいこの交響曲を「ザ・グレート」と名づけたのが始まりなのだとか。

モーツァルトは、シューベルトの前の世代の作曲家。神聖ローマ帝国の大司教領だったザルツブルクで、その地の宮廷副楽長だったレオポルト・モーツァルトの息子として生まれました。父レオポルトは、その教育の一環として、大司教のシュラッテンバッハ伯ジークムント3世の許可を得、地元オーストリアはもとより、フランス、イタリア、ドイツの各都市を巡ってモーツァルトに音楽的見聞を深めさせました。また、巡った先々でモーツァルトを音楽の天才少年として売り込んだレオポルトは、自らも優秀な音楽教師としての名声を恣にしました。ただ、レオポルトは、幼いモーツァルトを王侯貴族にちやほやさせたことで、宮廷使用人としてのパーソナリティ的な不適応を引き起こすことになりました。モーツァルトが15歳の時にシュラッテンバッハ伯爵が亡くなり、後任の大司教にコロレド伯ヒエロニュムスが着いたことで、モーツァルトの人生は一変してしまいます。前任者のように自由な旅行を許さず、宮廷楽師としての使命を果たすことを求めた一般的常識人のコロレド伯爵の方針にモーツァルトは反発し、20歳と25歳の時にザルツブルクを出奔しています。一度目の出奔の時には母親も帯同して新たな士官先を探しをしましたが、天才少年時代のプライドが災いして、三年間彷徨ってもどこにも雇ってもらえず、最終的にパリで母親を客死させて一人ザルツブルグに帰ってくるという顛末となりました。父はコロレド伯爵に掛け合って、高給な宮廷オルガン奏者としてモーツァルトを再就職させましたが、モーツァルトの勤務態度は悪く、結局放逐されています。両者の仲裁に入ったコロレド伯爵配下のアルコ伯カールに蹴りを入れられたくらいなので、モーツァルトの態度がいかに悪かったかは想像に難くありません。
ただ、ザルツブルクの宮廷から解雇されたモーツァルトは、意気揚々とウィーンに乗り込み、フリーランスの音楽家としてウィーンで成功を収めるに至ります。当地きっての音楽愛好家であったスヴィーテン男爵ゴットフリートと知り合ったことで、音楽を愛好する貴族たちとのコネクションが生まれ、モーツァルト自身で予約演奏会を開けるほどになりました。予約演奏会を矢継ぎ早に開いて自作の旧作から新作までせっせと演奏して名声を確立したモーツァルトは、クリストフ・ヴィリバルド・グルックの後任として1787年から神聖ローマ帝国直属の宮廷作曲家の肩書を手に入れるほどになりました。しかし、フランスの市民革命の波及を警戒するウィーン当局が秘密結社の取り締まりを強化し、晩年のモーツァルトはフリーメイソンに肩入れしていたことで、ウィーンの貴族社会で疎まれるようになり、予約演奏会が開けなくなっていきました。ただ、ボヘミアのプラハの方でモーツァルトの人気は、オペラを中心に高まっており、モーツァルトもオペラ作家としての活動に注力しようとしていましたが、レクイエムの作曲中に病気に倒れ、そのレクイエムを完成させることなく、ウィーンで世を去りました。
モーツァルトの交響曲第39番は、1788年6月22日に脱稿したという記録が残っている作品。
第40番や第41番《ジュピター》と並んでよく演奏される曲で、モーツァルトの作曲技術の円熟がよく現れた作品とされます。オーボエを排し、第3楽章でクラリネットに中間部のメロディを担当させるなど、クラリネットの重用が目立ちます。第41番の交響曲に負けない溌剌さと風格を備えており、第4楽章における主題の変幻自在な転調などは、当時としては斬新な書法でした。
この曲は第40番や第41番同様に何のために作曲したのかがよく分かっていません。かつて父レオポルトが生きていた頃は、モーツァルトは父と頻繁に書簡を交わして自分の作った曲について言及していましたが、1787年にその父が亡くなったことで書簡が途絶えてしまい、この曲が何に由来するのかが判然としなくなってしまいました。そのため、かつてはモーツァルトが生前にこれらの曲を実際に耳にできなかったのではないかといわれていました。しかしモーツァルトは、先述のシューベルトのように演奏される当てのない曲を書く人ではありません。今日では、何らかの形でモーツァルトの生前に演奏されたのではないかと考えられるようになってきています。

シューベルトの交響曲の演奏は、カルロ・ゼッキ(Carlo Zecchi, 1903-1984)がタクトを取っています。
ゼッキはローマに生まれ、ザルツブルクに没したイタリアの音楽家です。
元々ゼッキはローマの聖チェチーリア音楽院で作曲とピアノを学び、ベルリンに留学してフェルッチョ・ブゾーニとアルトゥル・シュナーベルに学んだピアニストでした。1920年にピアニストとしてデビューしたゼッキは、1932年のショパン国際ピアノ・コンクールに史上最年少の審査員として参加し、近衛秀麿にはピアニストとしてゼッキと共演することを切望したのだとか。
しかし、ソリストとしての活動は、腕の故障を理由に1930年代で区切りをつけ、第二次世界大戦期からエンリコ・マイナルディとコンビを組んで室内楽の分野で活躍しました。
ピアニストとして活動していた頃からオーケストラの指揮にも興味を持ち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの知己を得たり、イタリア人指揮者のアントニオ・グァルニエリに学んだり、スイス在住のハンス・ミュンヒに教えを請うたりして指揮法を会得し、1947年から世界各地のオーケストラに客演して指揮者としての知名度を上げていきました。
1955年のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団は、ヴィトルド・ロヴィツキが首席指揮者として徹底的なトレーニングを施していたころであり、第二次世界大戦の戦禍から復興しつつあった時期だけに、まだオーケストラのアンサンブルの水準は高いとはいえませんでした。
それでも、ゼッキのしなやかな音楽性を吸収し、彼の要求する歌心を体現しようと奮闘している姿は聴き取れると思います。第4楽章など、かなりオーケストラがオーバー・ヒート気味ですが、ゼッキの棒に積極的に反応しようとする気概がよく現れています。録音が1940年代水準であるため、強奏になるとビリつくという欠点があり、あくまでヒストリカル音源に興味のある人のためのリリースだといえそうです。
また、所々でゼッキがカットを施しているので、この曲を隅々まで知り尽くしている人はびっくりするかもしれません。

モーツァルトの交響曲のほうは、パウル・クレツキ(Paul Kletzki, 1900-1973)がタクトを取っています。
クレツキはポーランドのウッジ出身の指揮者です。本名はパヴェウ・クレツキ(Paweł Klecki)といい、15歳より地元のオーケストラの団員として経験を積み、ワルシャワ大学で哲学を専攻する傍らでムウィナルスキにヴァイオリン、ユリウス・ヴェルトハイムに作曲を学んでいます。1921年にはベルリンに行ってフリードリヒ・エルンスト・コッホの下で作曲の勉強を続け、1923年から作曲家兼指揮者として活動するようになりました。1935年にはイタリアのヴェニスやミラノの音楽院に作曲科の講師として招聘されましたが、ファシズムの台頭を嫌って一時ソ連に移り、ハリコフのオーケストラの指揮者を短期間務めています。
第二次世界大戦前までは作曲家としてヴィルヘルム・フルトヴェングラーやアルトゥーロ・トスカニーニに高く評価されたクレツキですが、ナチス・ドイツの手によって一族郎党が強制収容所に送られて殺されてしまい、亡命先のソ連でもヨシフ・スターリン政権下で粛清されそうになってすぐさまスイスに亡命せざるを得なくなったということも重なって、1942年までに完全に作曲活動への意欲を失ってしまいました。
戦後は専ら指揮者として活動し、1954年からは、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団、1958年からはダラス交響楽団、1964年からスイスのベルン交響楽団の首席指揮者を経て、1967年にエルネスト・アンセルメの指名を受けてスイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者に就任しています。
ただ、スイス・ロマンド管弦楽団ではなにかにつけて前任者のアンセルメと比較されて酷評され、1970年に辞任してからリヴァプールで亡くなるまで、フリーの指揮者として活動を続けました。
本CDに収録されているクレツキの演奏は、先のゼッキの録音からおよそ7年後ということもあって、音質やオーケストラのコンディションの面で、ゼッキよりも恵まれています。
クレツキの芸風は、ゼッキのように、オーケストラから自発的に湧きあがる感興を掬い取るものとは異なり、アンサンブルの折り目正しさを徹底することで生まれる高潔さを身上としているかのようです。
秩序という厳格な枠線を引きながら、その枠内で各セクションが微妙にニュアンスをつけているので、アンサンブルが揃っている割に、堅苦しさが感じられません。
特に第3楽章のシャキッとしたリズム感は、クレツキの統率力が細かいところまで行き届いているのを感じさせる見事な演奏です。優雅さはないものの、メリハリの効いたゴツゴツした感じの音楽運びには、上辺だけの流麗さに終わらせない指揮者の強い意志を感じさせます。

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