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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Franz Joseph Haydn: Symphony No.103 in E flat major, Hob.I-103 "Paukenwirbel"
Franz Joseph Haydn: Symphony No.100 in D major, Hob.I-100 "Militär"
Carameta Academica des Salzburger Mozarteums / Bernhard Paumgartner
(Rec. 10-14 April 1960, Mozarteum, Salzburger)








フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Jpseph Haydn, 1732-1809)ことヨーゼフ・ハイドンは、オーストリアのローラウに生まれた作曲家です。8歳の時にウィーンのシュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入隊して音楽の素養を身に着けています。変声期のために聖歌隊から離れてからは自己研鑽を重ね、1759年にモルツィン伯爵家の宮廷楽長に就任しました。この頃から交響曲の作曲を始めましたが、すぐにモルツィン家の財政逼迫により解雇を余儀なくされ、1761年にエステルハージ侯爵家の副楽長として再就職しました。そこでも交響曲をはじめとする多彩な作曲活動を行い、1766年には楽長だったグレゴール・ヴェルナーの死去に伴って楽長に昇格しました。
1790年にハイドンの主人だったエステルハージ侯ニコラウス・ヨーゼフが亡くなり、ニコラウス・ヨーゼフの息子アントンが跡を継ぎましたが、アントンは家計の緊縮を行って宮廷の管弦楽団を解散させ、ハイドンに年金を与えて退職させてしまいました。
生活に不自由のないものの仕事のなくなったハイドンのところに、イギリスで興行師として成功していたヨハン・ペーター・ザロモンがロンドンでの演奏会の話を持ち掛け、新しい交響曲の作曲を依頼しました。ハイドンはザロモンの依頼を受けて1791年から翌年にかけてロンドンに滞在して第93番から第98番までの交響曲を書き上げました。ハイドンの新作交響曲の大成功に気を良くしたザロモンは、一旦ウィーンに戻ったハイドンに再度オファーをかけ、ハイドンは1794年から翌年まで二度目のイギリス訪問を行いました。このイギリス訪問までにハイドンは、第99番と第100番の交響曲をウィーンで完成させ、第101番は途中まで書き上げてイギリスに持っていき、第104番までの交響曲をロンドンで書き上げました。これらの曲のうち、第101番までザロモン主催の演奏会で取り上げられましたが、折しもフランス革命でヨーロッパ全体が政情不安定になっており、ザロモンの演奏会の企画も頓挫してしまいました。そこで、ロンドンのオペラ関係者たちが共同で出資してハイドンの残りの交響曲を演奏しています。
このハイドンが作った第93番から第104番の交響曲は、ザロモンのロンドン招聘を契機に作られたことから「ロンドン・セット」または「ザロモン・セット」と呼ばれ、彼が作った104曲の交響曲のクライマックスに位置付けられます。
この大成功を手土産にウィーンに戻ったハイドンでしたが、エステルハージ家の家長だったアントンが急逝し、アントンの息子のニコラウスが家督を継いだことで楽長職に復職しています。この頃に《天地創造》や《四季》といったオラトリオの名作を書き上げ、1804年にヨハン・ネポムク・フンメルにその座を譲るまで、楽長職を全うしました。引退後は何らかの病気で作曲活動ができなくなり、要介護者になってしまいました。この頃と思しきハイドンの筆跡からは、書痙と思しき書字障害の痕跡が見受けられます。そんな作曲家としての不遇の晩年を過ごしたハイドンは、ナポレオン・ボナパルトが侵攻するウィーンの地で亡くなっています。

本CDでは、いわゆるザロモン・セットから第103番と第100番が選ばれています。
第103番は、第一楽章冒頭のドラム・ロールから「太鼓連打」のニックネームがつけられていますが、これはハイドンの命名ではありません。第100番は第二楽章にトランペットのファンファーレを加えたことと、楽想からの連想で「軍隊」と呼ばれています。このニックネームはザロモン・コンサートでの初演時から用いられていたとかで、ハイドン自身が命名に関与したのではないかと言われていますが、確証はありません。

演奏は、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner, 1887-1971)指揮するザルツブルグ・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカです。
パウムガルトナーはウィーンの音楽一家に生まれ、法学博士の学位をとりつつウィーン音楽院でブルーノ・ヴァルターに指揮法を学んだ音楽家です。1911年からウィーン国立歌劇場のコレペティートル(歌手の下稽古をつける役職)としてキャリアをはじめ、1914年からウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の指揮者として活動しています。1917年から1959年までザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の院長を務め、1952年にこのモーツァルテウム・カメラータ・アカデミカを設立して亡くなるまでそこの首席指揮者を務めました。
音楽学者として18世紀のヨーロッパ音楽の権威と目されていたパウムガルトナーは、後進の指導にも余念がなく、ヘルベルト・フォン・カラヤンはパウムガルトナーの門下生です。

本録音は、自らが得意とするハイドンの交響曲ということもあって、均整の取れたアンサンブルで、確信に満ちた演奏を展開しています。この録音が行われたころは、18世紀の音楽の時代考証が進み、例えばここに収録されている《太鼓連打》交響曲の冒頭に出てくるティンパニのトレモロ演奏は、クレッシェンド(暫時的に音を大きくする効果)とデクレッシェンド(暫時的に音を小さくする効果)をつけずに演奏するのが当世風だったことが突き止められていました。しかし、パウムガルトナーは、こうした知見を知った上で、音楽的に表現として面白いのはどちらかを考え、ティンパニ・ロールにクレッシェンドとデクレッシェンドをつけて演奏しています。
学問的正しさに拘泥するのではなく、作品としてどう演奏すれば、より音楽的効果が高いかということを考えて演奏しているあたりに、パウムガルトナーの音楽家としての見識の高さとこだわりを感じます。

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