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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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◈Béla Bartók: Concerto for Violin No.2
Zoltán Székely (Vn)
Concertgebouw Orchestra of Amsterdam/ Willem Mengelberg
(Rec. 23 March 1939, Radio Hilversum) Live Recording with Applause
◈Béla Bartók: Rhapsody No.1 for Violin and Piano
◈Béla Bartók: Rhapsody No.2 for Violin and Piano
Zoltán Székely (Vn)
Isobel Moore (Pf)
(Rec. 1974, CBX Radio, California)



人名について、アメリカでは、ファースト・ネーム(名)の後にファミリー・ネーム(姓)を持ってくるのが一般的です。
ヨーロッパでも、大雑把に言えば、イギリス、フランス、ドイツやイタリアなどでは、ファースト・ネームの後にファミリー・ネームを持ってくるのが普通ですが、ハンガリーに行くと、ファミリー・ネームを先に書き、本来のファースト・ネームを後に持ってくることが多いようです。例えば、「ゾルターン・コダーイ」の場合、「コダーイ家のゾルターンさん」という意味なので、ハンガリーでは「コダーイ・ゾルターン」となります。
そんなわけで、ここで紹介するベーラ・バルトークやゾルターン・セーケイといったハンガリーの人たちは、それぞれ、「バルトーク・ベーラ」,「セーケイ・ゾールタン」と書くのがハンガリーでのしきたりに合った書き方となります。しかし、こうした姓→名という名前の配列よりも、名→姓という配列のほうが人口に膾炙していることや、名→姓という配列で姓名を表記する国に帰化した人もいるとういうことを鑑みて、「ベーラ・バルトーク」,「ゾルターン・セーケイ」という表記で紹介していくことにします。

ベーラ・バルトーク(Béla Bartók, 1881-1945)は、ゾルターン・コダーイと並ぶ、20世紀ハンガリーを代表する作曲家です。
19世紀生まれのバルトークは、最初はドイツ・ロマン主義の作曲家の影響下にありましたが、次第にハンガリー人としてのアイデンティティに目覚め、コダーイと共に民謡採集の仕事に従事しました。民謡採集で得られた知見を元に、自らの語法を開拓し、ハンガリー民謡を元に近代的な音楽を創造することに成功しました。
バルトークは、生涯に2曲のヴァイオリン協奏曲を書いており、第1番のほうは1907年から1908年にかけて作曲され、ステフィ・ゲイエルに献呈されました。しかし、ゲイエルは、この作品を仕舞い込んでしまったため、ゲイエルが亡くなる1956年まで幻の作品とされていました。
第2番のほうは、ゾルターン・セーケイ(Zoltán Székely, 1903-2001)の依頼に応じて1937年から1938年にかけて作られた作品で、第1番がゲイエルの遺品から発見されるまで、一般的に、この協奏曲がバルトークの唯一の協奏曲だと思われていました。
バルトークは、元々この曲を変奏曲の単一楽章の形式で作ることを提案しましたが、セーケイは、演奏効果の観点から従来の3楽章構成で作曲することを望み、バルトークは形式上、その形式を墨守する形で作曲を進めました。
しかし、実際のところは、第1楽章で提示された主題を、変容させていく形で第2楽章を書き上げ、さらに第3楽章も、第1楽章の主題を基にするということで、曲全体を一つの変奏曲と捉えられるような作品に仕上げました。
この作品は、1939年の3月23日に、オランダのヒルヴェルサム放送局で、セーケイを独奏に立てて放送初演されることになり、伴奏をウィレム・メンゲルベルク(Wilem Mengelberg, 1871-1951)指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が担うことになりました。
このCDに収録されている演奏は、その初演時のライヴ録音です。

セーケイは、イェネー・フバイ門下のヴァイオリニストで、ハンガリー弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者として活躍した人です。ハンガリー弦楽四重奏団は、バルトークの弦楽四重奏曲の初演を数多く手がけ、バルトークから信頼されていた弦楽四重奏団でした。セーケイは、弦楽四重奏団での活動に重きを置いていたため、ソリストとしての録音が、その名声に比べて多いとはいえませんが、この初演ライヴの記録は、セーケイのソリストとしての実力をしっかりと示してくれます。

メンゲルベルクの指揮は、初演にもかかわらず、この曲を何度も取り上げたベテランの如く説得力の強い演奏を繰り広げています。メンゲルベルクは、この初演の約一週間後に、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》のライヴ録音を敢行しており、気力が充実していたものと思われます。
セーケイは、第1楽章においては、意図的に感情を煽るような表現を巧みに避け、クールな演奏に徹していますが、第2楽章の中間部から豹変し、それまでのポーカー・フェイスから快刀乱麻を断つような技巧の冴えで、オーケストラをグイグイと引っ張っていきます。

1940年にバルトークはアメリカに亡命し、セーケイと再会することなくアメリカで世を去りましたが、セーケイのほうは第二次世界大戦を生き延び、バルトークの音楽の伝道者としてハンガリー弦楽四重奏団を率いて、演奏・録音活動を積極的に行いました。
このハンガリー弦楽四重奏団は、1974年に活動を停止することになりましたが、ここに収録されている2曲のラプソディは、まさにハンガリー弦楽四重奏団が解散する年に録音されたものです。

この2曲のラプソディは、1928年に作曲され、第1番のほうを親友のヨーゼフ・シゲティに捧げ、第2番をセーケイに献呈しています。第2番については、亡命後の1844年に改訂を施しています。

もはや70代になったセーケイは、イギリス人ピアニストのイザベル・ムーア(Isobel Moore, 1935-)―本CDでは"Isabel Moore"と表記―を伴奏者に指名して録音を行っていますが、ムーアはピアノのほかにもハープを演奏する多才な人でした。
しかし、ベテランのセーケイの70代とは思えない程に快活なセーケイの演奏と比べると、ムーアの演奏が引っ込み思案に聴こえます。もっとも、ムーアの演奏が下手というわけではなく、凡百の伴奏であればセーケイの勢いを殺いでいたことでしょう。メンゲルベルクとの共演で聴かせた技の冴えそのままに、自由奔放に動き回るセーケイの演奏の見事さもさることながら、セーケイの奔放さを殺さず、音楽が破綻することのないようにしっかりと纏め上げたムーアの手腕にも拍手を送りたいものです。

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