1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈ | Ludwig van Beethoven: Violin Concerto in D major, op.61 |
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Wolfgang Schneiderhan (Vn.)
Berliner Philharmoniker / Eugen Jochum
Berliner Philharmoniker / Eugen Jochum
(Rec. May 1962, Jesus-Christus-Kirche, Berlin)
◈ | Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.5 in A major, K219 |
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Berliner Philharmoniker / Wolfgang Schneiderhan (Vn. & Cond.)
(Rec. February 1967, Ufa-Studio, Berlin)
本CDは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)のヴァイオリン協奏曲とヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲第5番を収録しています。演奏はヴォルフガング・シュナイダーハン(Wolfgang Schneiderhan, 1915-2002)のヴァイオリン独奏と、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)の伴奏で、ベートーヴェンの作品のみオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum, 1902-1987)が指揮台に立ち、モーツァルトの作品はシュナイダーハンが弾きながら指揮をしています。
ベートーヴェンの家系には、「ルートヴィヒ」を名乗る人が、1770年生まれのベートーヴェン以外に4人います。
一人目は、1769年生まれのベートーヴェンの兄ルートヴィヒ・マリア。この人は生後すぐに亡くなっています。
二人目は、1712年生まれのベートーヴェンの祖父。この人は、これから話を展開するベートーヴェンと同じ名前です。
三人目は、二人目の兄弟だった人物で、この人は生後三か月で亡くなっています。
四人目は、ベートーヴェンの弟カスパール・アントン・カールの息子カールの長男がルートヴィヒ・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンです。
1770年生まれのベートーヴェン以外で音楽家として成功したルートヴィヒは、二人目として紹介した、ベートーヴェンの祖父です。この人は、フランドル地方メヘレンのパン職人の家に生まれた人で、21歳で神聖ローマ帝国のケルン大司教選帝侯領のボンに移住してバス歌手として宮廷に入り、1761年にはそこの宮廷楽長にまでなりました。一方で葡萄酒製造業でも一定の成功を収め、金満家であったようです。ベートーヴェンの父ヨハンは、1739年頃にボンで生まれ、六歳ごろから父の伝手で宮廷のオーケストラで無休のエキストラとして経験を積み、13歳ごろに宮廷のテノール歌手として本採用になりました。1767年に宮廷料理人ケフェリヒ家の娘マリア・マグダレーナと結婚しましたが、父ルートヴィヒほどの才能には恵まれず、酒に溺れて1789年には宮廷歌手の職を解雇されています。その後も飲酒癖は止まらず、1792年に亡くなったときには、ケルン大司教選帝侯から「酒税による歳入が大幅に減る」と皮肉を言われたほどでした。
1770年にボンで生まれたベートーヴェンは、祖父と同じ名前を付けられたことから、宮廷楽長になった祖父と同じように音楽家として成功することを期待されたと見てよいでしょう。1773年末に、その祖父が亡くなったことで、祖父からの仕送りに頼っていたベートーヴェン家は困窮することとなりました。ヨハンは4歳からベートーヴェンにスパルタ式で音楽教育を施し、酒飲み仲間でグロスマン劇団の歌手だったトビアス・フリードリヒ・プファイファーからピアノ、同居していた宮廷ヴァイオリン奏者で遠戚のフランツ・ゲオルク・ロヴァンティーニにヴァイオリン、フリアー・ヴィリバルド・コッホにオルガンを学んでいます。10歳の時にはボンの宮廷オルガン奏者として赴任したクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェの門下となり、ミュンスター協会のオルガン奏者だったヨハン・ツェンゼンにもオルガンを師事しました。
父ヨハンは、こうしたベートーヴェンの音楽修行と並行して、家計の為に7歳から人前で演奏することを強制し、その際に実年齢より1歳低く人々に紹介したので、ベートーヴェンが40歳の時に自分の出生に関わる書類を取り寄せるまで、自分の本当の年齢を知りませんでした。また、ヨハンによって舞台に立たされ続けたベートーヴェンは、賃金労働としてしか音楽のことを考えられなくなっており、そうした音楽への考え方を改めさせたのが、ベートーヴェンにとってのネーフェの功績でした。
ネーフェの元で腕を上げ、肯定的に音楽に取り組むようになったベートーヴェンは、11歳でネーフェの代理を務め、13歳で正式にボンの宮廷楽師(ネーフェの次席のオルガン奏者)に採用されるまでになりました。1787年にはウィーンに行ってヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに面会し、弟子入りを志願しましたが、直後に母親の危篤の知らせを受けてボンに引き返し、母亡き後、無職になった父と兄弟を自らのピアノの腕で養わざるを得なくなりました。
ボンで活躍したベートーヴェンは、1792年にロンドンからウィーンに戻る途中のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの知己を得、ハイドンからウィーン留学を勧められたことでウィーンに留学しましたが、それから間もなく父ヨハンが亡くなっています。
ウィーンでは多忙を極めるハイドンに満足なレッスンを受けられなかったベートーヴェンは、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに和声法と対位法、アントニオ・サリエリにオペラと歌曲の作法を学んで作曲技術に磨きをかけ、ピアノ奏者兼作曲家として頭角を現すようになっていきました。
ウィーンで順風満帆な音楽家生活を送っていたベートーヴェンでしたが、20代から難聴の症状が出始め、20代後半には中途難聴者になりました。1802年にハイリゲンシュタットで遺書をしたためて作曲家として生きる覚悟を決め、1804年にピアノ奏者としての活動から手を引いて専業の作曲家として成功を収めていきました。晩年に至るまで旺盛な作曲意欲を保ったベートーヴェンですが、しばしの静養でグナイクセンドルフにある末弟ニコラウス・ヨハンの家に滞在したのち、冬場にウィーンに牛乳馬車に乗って帰ったことで風邪をひき、これが命取りになりました。この風邪をこじらせた肺炎でベートーヴェンの肝機能は著しく低下し、四か月に及ぶ闘病生活の末、1827年3月26日にウィーンの自宅で亡くなっています。
ベートーヴェンは、耳疾により演奏活動から遠ざかるまで、ピアノ奏者として高い名声を誇りましたが、ヴァイオリンの腕にも少々覚えがありました。9歳の時から、当時ヨハン家に同居していた宮廷楽師のロヴァンティーニにヴァイオリンの稽古をつけてもらっていましたし、ボンの宮廷楽師として登用されて以降も、宮廷のオーケストラで折に触れてヴィオラを弾き、宮廷楽長のフランツ・アントン・リースにヴァイオリンの手ほどきを受けていました。18歳の時にはボンの国民劇場のオーケストラでヴィオラ奏者としてモーツァルトのオペラ上演に参加したこともあります。ただ、ピアノ奏者としての活動のほうが成功していたこともあり、ヴァイオリンの独奏者として立つことはありませんでした。ウィーンでは、侯爵のカール・アロイス・フォン・リヒノフスキーの伝手でイグナーツ・シュパンツィヒに出会い、シュパンツィヒにヴァイオリンを教えてもらいましたが、あまり上達しなかったようです。
ただ、ヴァイオリンという楽器にはそれなりに執着もあったようで、ハイドンに弟子入りする頃にはハ長調のヴァイオリン協奏曲の作曲を試みて挫折しています。この挫折した断章は、ベートーヴェンの没後に加筆され、単一楽章の作品として仕立て直されましたが、挫折したままの未完成稿のまま演奏されることもあります。
ここに聴くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、1806年に完成した作品。1804年頃から作品を書く準備が進められていたと考えられています。技術上の助言者として、アン・デア・ウィーン劇場のオーケストラのコンサートマスターを務めていたフランツ・クレメントを据え、きっちり三楽章構成の作品として完成させています。ベートーヴェンはアン・デア・ウィーン劇場の音楽監督をしており、そのコネクションでクレメントを起用できたのでしょう。ベートーヴェンとクレメントは、この作品の草稿にベートーヴェンが"per Clemenza pour Clement"(慈悲をもってクレメントに)という駄洒落のような献辞を書き込むほど良好な関係を保ちましたが、1806年12月23日にアン・デア・ウィーン劇場で行われた初演については、初演後の1807年1月7日にウィーンの新聞に掲載されたヨハン・ネポムク・メーザーの批評が参考になるかと思います。以下にメーザーの批評の原文と意訳を載せてみます。
Der vortreffliche Violinspieler Klement spielte unter anderen vorzüglichen Stücken, auch ein Violinconcert von Beethhofen, das seiner Originalität und mannigfaltigen schönen Stellen wegen mit ausnehmendem Beyfall aufgenommen wurde. Man empfieng besonders Klements bewährte Kunst und Anmuth, seine Stärke und Sicherheit auf der Violin, die sein Sclave ist, mit lärmenden Bravo. Der gebildeten Welt fiel es auf, wie Klement sich zu manchen Schnacken und Possen herabwürdigen konnte, um etwa den Pöbel zu ergötzen, da er doch in jeder ersteren Produktion Schönheit und Erhabenheit auszudrücken vermöge. Wir sind dieser Meinung nicht entgegen. Ueber Beethhofens Concert ist das Urtheil von Kennern ungetheilt, es gesteht demselben manche Schönheit zu, bekennt aber, daß der Zusammenhang oft ganz zerrissen scheine, und daß die unendlichen Wiederholungen einiger gemeinen Stellen leicht ermüden könnten. Es sagt, daß Beethhoven seine anerkannten großen Talente, gehöriger verwenden, und uns Werke schenken möge, die seinen ersten Symphonien aus C und D gleichen, seinem anmuthigen Septette aus Es, dem geistreichen Quintette aus D dur, und mehreren seiner frühern Compositionen, die ihn immer in die Reihe der ersten Componisten stellen werden. Man fürchtet aber zugleich, wenn Beethhofen auf diesem Weg fortwandelt, so werde er und das Publicum übel dabey fahren. Die Musik könne sobald dahin kommen, daß jeder, der nicht genau mit den Regeln und Schwierigkeiten der Kunst vertraut ist, schlechterdings gar keinen Genuß bey ihr finde, sondern durch eine Menge unzusammenhängender und überhäufter Ideen und einen fortwährenden Tumult einiger Instrumente, die den Eingang charakterisiren sollten, zu Boden gedrückt, nur mit einem unangenehmen Gefühl der Ermattung das Koncert verlasse. Dem Publikum gefiel im allgemeinen dieses Conzert und Clements Phantasieen außerordentlich.
卓越したヴァイオリン奏者のクレメントは、優れた小品の数々とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏したが、その曲の独創性と多彩な美しさの箇所ゆえに拍手喝采を受けた。人々は特にクレメントの折り紙付きの至芸と輝き、そのヴァイオリンの力強さと心地よさ―彼のヴァイオリンは彼の下僕だ―に騒々しいブラボーで応えた。知的な世界においては、クレメントは大方の民衆を楽しませるためのおしゃべりや道化に堕するかもしれないが、彼の演奏の全体は表現の美徳としての優美さと壮大さを表現できているように感じられる。我々は以上のような意見を妨げるものではない。ベートーヴェンの協奏曲についての目利きたちの判断は一致しており、それはいくつか美しいところはあるものの、その繋がりはバラバラで、ありきたりな部分の限りない繰り返しにうんざりするだろうということである。この判断が言わんとするところのものは、ベートーヴェンが人々に知られた偉大な才能でもって、彼の初期のハ長調やニ長調の交響曲、優美な変ホ長調の七重奏曲や機知に富んだニ長調の五重奏曲のような作品を世に送ってほしいということであり、またそういうものが彼を一流の作曲家に列せしめているということだ。しかし同時に人々が恐れるのは、彼がこの道へと変容するのであれば、彼と公衆は悪しき道に進むだろうということである。その音楽は至芸の規則と難しさに本当に精通していない人々が全く楽しみを見出すことのできないような所へすぐにたどり着いてしまい、脈絡のない雑然たるアイデアと、楽器間の絶え間ない混乱は、その初めのところで特徴づけをするにしても、不快感と疲労感ばかりでコンサートを後にすることになろう。全体的には、この協奏曲とクレメントによる特別な幻想曲は一般的な聴衆の受けが良かった。
メーザーの批評を概観すると、クレメントの演奏については評価が高いものの、ベートーヴェンの作品自体の評価は低く、初演は手放しの成功とはいえないことがわかります。
「繋がりはバラバラ」という評価は、主題労作と構成の堅牢さという作品の意匠を正しくとらえているとは言えませんが、そんな楽式の把握なんかよりも作品全体の冗漫さが評論家の槍玉に挙げられていることが読み取れます。ベートーヴェンの先達たちの協奏曲は、三楽章構成でも30分未満なのが普通の規模だったので、30分を優に超えるこの協奏曲の規模に評論家たちはうんざりしてしまったのです。
しかし、初演の微妙な評価の原因は、ベートーヴェンの作品自体だけにその責を負わせるものではないとも考えられています。例えば、講談社プラスアルファ文庫の一冊として売られていた志鳥栄八郎の『クラシック不滅の名曲名盤』(1994年刊)を見れば、「ベートーヴェンは、筆の遅いことにかけては、横綱クラスの作曲家だったから、新作の演奏会には、いつも予定した期日ギリギリまで譜面が完成せず、関係者はハラハラしどおしであった。この曲も、その例にもれず、そのためオーケストラは練習する暇がなく、独奏ヴァイオリンを受け持ったクレメントは、ベートーヴェンの読みにくい草稿を見ながら、初見で弾いたという。だから初演は、この曲の真の美しさを伝えるには、ほど遠いものだったのである。」(289頁)と書かれているのを見つけられます。志鳥によれば、ベートーヴェンの遅筆からくる初演準備の粗末さも、この曲の初演時の評価に影を落としているということです。
なんにせよ、この曲に対する芳しくない評価は尾を引き、ベートーヴェンの生前にこの曲を取り上げためぼしい演奏記録としては、1818年にベルリンでルイジ・トマジーニ2世が取り上げたというくらいに留まります。しかし、ベートーヴェンの死後は折を見て演奏されることがあり、ピエール・バイヨやニコロ・パガニーニといった人たちがこの曲の演奏に挑戦し、アンリ・ヴュータンもこの曲を研究してレパートリーに入れ、自らの作曲の糧にしていました。しばしば、初演後長い間埋もれ、1844年5月27日に当時12歳のヨーゼフ・ヨアヒムがロンドンに於いてフェリックス・メンデルスゾーンの指揮で演奏したのが再評価の契機になった旨の説明が為されますが、実際は先に述べたように、腕に覚えのあるヴァイオリン奏者たちの挑戦によって再評価が試みられていました。
ベートーヴェンのこの曲は、彼の交響曲第5番に匹敵する労作で、交響曲第5番の第1楽章の冒頭のモチーフを執拗に第1楽章全体にちりばめたように、この曲の第1楽章冒頭に出てくるティンパニの拍打ちのモチーフを第1楽章のいたるところに使っています。
第2楽章は平明な主題を纏綿と歌い上げることに集中した音楽ですが、第3楽章に切れ目なくつなげられるようにドミナント和音をオーケストラに鳴らさせ、そこに独奏ヴァイオリンのエピソードをつなげて第3楽章の導入にしています。こうした楽章間をつなげるような協奏曲の作曲法は、後の世代の協奏曲作曲の一つの手本になりました。
モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷の副楽長の息子として1月27日に生まれた作曲家です。姉のナンネルも父レオポルトの英才教育を受けて確かな音楽の腕前を示し、モーツァルトも3歳で鍵盤楽器を操って曲を作るなどの才能を見せました。少年時代にヨーロッパ各地を父と共に巡って見聞を広め、また天才少年としての実力を世に示しました。
しかし、モーツァルトが15歳の時、モーツァルト一家の外遊に寛容だったザルツブルク大司教のシュラッテンバッハ伯ジークムント3世が亡くなり、コロレド伯ヒエロニュムスが新しい大司教になると、前任者の時のような自由な生活は制限されることになりました。コロレド伯はモーツァルトに宮廷に仕える音楽家としての職務をこなすように促しましたが、天才少年としてのちやほやされた生活に慣れたモーツァルトは不満を募らせ、1781年にはコロレド伯と大喧嘩をして解雇されてしまいました。以後はウィーンを中心に音楽活動を展開しています。ウィーンの宮廷と関係を持ちながら、自ら演奏会を企画する売れっ子作曲家として活躍しましたが、1791年にレクイエムの作曲を引き受けたころには体調を崩し、その年の12月5日にレクイエムを完成させぬまま亡くなっています。
モーツァルトもベートーヴェン同様にピアノ奏者として高い名声を持っていましたが、ベートーヴェンと違うところは、1769年にザルツブルクの宮廷管弦楽団のコンサートマスターを努めていたように、ヴァイオリン奏者としても秀でていたことです。
ここに聴くヴァイオリン協奏曲第5番は、ザルツブルクで奉職していた頃に書かれた作品です。昔は1780年までに書かれた作品と考えられてきましたが、今では1775年12月に完成した作品とみなされています。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は、イタリアからザルツブルクに来たアントニオ・ブルネッティに関連付けられますが、ブルネッティがザルツブルクの宮廷管弦楽団のオーケストラにコンサートマスターとして着任したのは1776年でした。モーツァルトがブルネッティ用にアダージョ楽章の差し替えを行ったように、ブルネッティがこの曲を曲がりなりにも弾いたであろうことは明らかですが、いつどこで初演されたか、また初演の時の独奏がブルネッティだったかどうかはよくわかっていません。
作品は当時の典型的な三楽章構成ですが、第1楽章冒頭の管弦楽提示部のモチーフは、聴き進めればわかるように、ヴァイオリン独奏が提示する主題の伴奏という仕掛けを使っています。第2楽章のアダージョは、ブルネッティ用のアダージョよりもわずかに音の動きが多く、しっとりとした情感の中にも艶のある音楽に仕上げられています。第3楽章はロンド形式のメヌエットですが、中間部に唐突なアレグロの箇所を置いています。このアレグロ部は、当時ヨーロッパで流行していたトルコの音楽にインスパイアされたものと考えられており、この部分のためにしばしば「トルコ風」と呼ばれています。また、その部分では弦楽器はコル・レーニョという奏法を使っていることでも特筆されます。コル・レーニョとは、弦楽器の弓の棒の部分で弦を叩く演奏法で、現存する最古の使用例が16世紀イギリスの作曲家であるトバイアス・ヒュームの〈耳をすませば〉(Harke! Harke!)に見られます。協奏曲で打楽器的な効果を狙って使っているところにモーツァルトの創意が感じられます。
本CDで演奏するシュナイダーハンは、ウィーンに生まれ、ウィーンに没したヴァイオリン奏者です。5歳からヴァイオリンをはじめ、オタカール・シェフチークとユリウス・ヴィンクラーに師事し、10歳でヨハン・ゼバスティアン・バッハのシャコンヌを弾きこなしたほどの早熟ぶりを示しました。1933年からウィーン交響楽団のコンサートマスターに就任しましたが、1937年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに転身し、アルノルト・ロゼーの亡命後は、ロゼーの後任として1949年まで第一コンサートマスターの任に当たりました。1949年からはソリストとして活動し、1956年にはルドルフ・パウムガルトナーとルツェルン弦楽合奏団を組織しました。室内楽の分野でも1938年から1951年まで自らの名前を冠した弦楽四重奏団を結成したほか、病死したゲオルク・クーレンカンプの後を継いでエンリコ・マイナルディ及びエトヴィン・フィッシャーとのピアノ三重奏も頻繁に行ったり、ピアノ奏者のカール・ゼーマンとデュオを組んだりしていました。
ベートーヴェンの協奏曲で指揮を務めるヨッフムは、バイエルン王国領バーベンハウゼンに生まれたドイツの指揮者。アウグスブルクのレオポルト・モーツァルト音楽院を経てミュンヘン音楽院でヘルマン・ヴォルフガング・ヴァルタースハウゼンとジークムント・フォン・ハウゼッガーに音楽理論や指揮法を学び、1926年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団でアントン・ブルックナーの交響曲第7番を演奏して指揮者デビューを飾りました。1927年から1929年までキール歌劇場の音楽監督、1929年から1930年までマンハイム国立歌劇場の音楽総監督、1930年から1932年までデュースブルク市の音楽総監督、1932年から1934年までベルリン放送交響楽団の首席指揮者、1934年から1949年までハンブルク国立歌劇場の音楽総監督、1949年から1960年までバイエルン放送交響楽団の初代首席指揮者を歴任し、1961年から1964年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のベルナルト・ハイティンクの後見役として首席指揮者の任につきました。1968年にヨゼフ・カイルベルトの急死を受けてバンベルク交響楽団の音楽顧問に就任し、1971年から1973年まで同交響楽団の首席指揮者を務めました。ドイツ音楽の権威として世界各地のオーケストラに客演し、1977年にはロンドン交響楽団から桂冠指揮者の称号を贈られました。ミュンヘンで亡くなっています。
シュナイダーハンとヨッフムの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、特に第一楽章のカデンツァが特別なものとして知られています。
シュナイダーハンの使用しているカデンツァは、この曲をベートーヴェン自身でピアノ協奏曲化したときに書き加えたものです。このピアノ協奏曲版は、ベートーヴェンがヴァイオリン協奏曲の出版を巡ってイタリア出身の作曲家兼出版業者だったムツィオ・クレメンティに相談したとき、クレメンティから編曲を提案されて生み出されたものでした。ヴァイオリン協奏曲の楽譜にはカデンツァを演奏者に任せましたが、ピアノ協奏曲版ではカデンツァを含めて筆を加えています。余談ながら、ヴァイオリン協奏曲とそのピアノ協奏曲版は、クレメンツィが出版する前にイグナーツ・フォン・グライヘンシュタイン男爵の仲介で1808年にウィーン美術工芸社から初版として出版され、クレメンティはロンドンでの専売権を得てイギリスで出版することになりました。また出版に際して、ヴァイオリン協奏曲のクレメントへの献辞はウィーン宮廷軍事参事官のシュテファン・フォン・ブロイニングに書き換えられ、ピアノ協奏曲版はブロイニング夫人ユーリエに献呈されました。ブロイニングはベートーヴェンのボン時代からの友人で、この曲が出版される頃にユーリエと結婚したということもあって、その結婚祝いに出版されたと考えられます。
閑話休題、このベートーヴェンがピアノ協奏曲版で書き加えたカデンツァは、特に第一楽章で意外な仕掛けが施されています。カデンツァは、大概独奏者の即興に任されるのが習わしで、これをあらかじめ作る際には他の楽器を絡めない暗黙のルールがありましたが、ベートーヴェンは第1楽章のカデンツァでティンパニを登場させています。シュナイダーハンは編曲に際して、このティンパニを削除することなく使っているので、ヴァイオリンとティンパニの競演という珍しい趣向が楽しめます。第2楽章から終楽章へのブリッジと終楽章のカデンツァではティンパニは出てきませんが、概ねピアノ協奏曲版に書かれてあるものを参照しています。
シュナイダーハンの独奏の出来栄えは、若かりし頃に振りまいていた甘美さを抑制した音色で引き締まった音楽の像を作り上げようとしています。ボウイングも務めてスマートにこなそうとしていますが、わずかにポルタメントをかける箇所があり、そこにウィーンの演奏家という出自を思い出させる片鱗があります。オーケストラと合わせている際にはシュナイダーハンは高めのピッチを取っていますが、これは協奏曲を演奏するときに独奏者がよく使う方策です。しかし、シュナイダーハンのダイエットした音色で聴くと、フィンガリングやボウイングに大きな瑕疵が見られないにもかかわらず、高い声が昔ほど出なくなった歌手が頑張って高音を振り絞っているように聴こえます。特に優美さを醸し出すはずの第2楽章では高音の硬質な響きが神経質に響き、伸び伸びと安らぐ音楽に一歩届きません。これがシュナイダーハンの責任なのか、はたまた録音エンジニアの技術的問題なのか、リマスタリングのプロセスで生み出されたものなのかはわかりません。
一方でヨッフムの伴奏は、高性能なオーケストラとのドライヴを楽しんでいるように晴れやかな音楽を作り上げています。オーケストラの音色に十分な厚みはありますが、テクスチュアも的確にとらえられ、耳を澄ませばオーケストラの各パートが有機的に動いていることを確認できます。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのように音楽を深刻化させるのではなく、颯爽としたテンポで独奏ヴァイオリンに若葉のような生気を送り続けるヨッフムの伴奏は、緊張気味にも聴こえるシュナイダーハンの独奏を立派にサポートし得ています。総合的に、現代楽器の演奏としては、軽薄にならない程度に音楽の流れを軽量化して成功した演奏といえるでしょう。ヨッフムはその功績の多くを担っています。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番は、シュナイダーハンの弾き振りですが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めていただけあって、オーケストラを手際よくコントロールしています。その無駄のない所作は、現代楽器によるこの曲の演奏の模範といえます。カデンツァはシュナイダーハンの自作を使っていますが、そのカデンツァだけ耳にしても、シュナイダーハンが並ならぬ腕の持ち主だと感じられます。ただ、古典主義的な均整を重んじた演奏は、モーツァルトの音楽に流れる遊戯性を表出するという点は不徹底で、むしろそうした遊戯性を諫める方にベクトルが向いています。弾きながら聴衆の女性たちを口説くようなジャック・ティボーのごとき芸風に魅力を感じる人には、少々物足りないでしょう。また弾き振りで細部まで統御している点は素晴らしいのですが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の合奏は強面で真面目すぎます。指揮者を立てて演奏する際にみられる鬩ぎあいの面白さを期待する向きには、予定調和的傾向が強すぎると感じるでしょう。遊戯性やハプニングの予感のようなドキドキよりも、モーツァルトが楽譜に書いた音を細部までしっかり刻印してほしいという人には需要のある演奏です。
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