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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Serge Prokofiev: Piano Concerto No.3 in C major, op.26
Byron Janis (Pf.)
Moscow Philharmonic Orchestra / Kyrill Kondrashin
(Rec. 8 & 9 June 1962, Bolshoi Hall of the Tchaikovsky Concservatory, Moscow)
Sergei Rachmaninoff: Piano Concerto No.1 in F sharp minor, op.1
Byron Janis (Pf.)
Moscow Philharmonic Orchestra / Kyrill Kondrashin
(Rec. 13 June 1962, Bolshoi Hall of the Tchaikovsky Concservatory, Moscow)
Serge Prokofiev: Toccata, op.11
Byron Janis(Pf.)
(Rec. 10 & 11 June 1962, Bolshoi Hall of the Tchaikovsky Concservatory, Moscow)
Ronert Schumann: Variation on a Thema by Clara Wieck
Byron Janis (Pf.)
(Rec. 24 January 1964, New York City)
Felix Mendelssohn: Song without Words, op.62-1
Octavio Pinto: Three Scene from Childhood
Byron Janis (Pf.)
(Rec. 10 & 11 June 1962, Bolshoi Hall of the Tchaikovsky Concservatory, Moscow)







バイロン・ジャニス(Byron Janis, 1928-)は、本名をバイロン・ヤンクス(Byron Yanks)といい、ペンシルバニア州マッキースポートに生まれたピアノ奏者です。両親はロシアからの移民でした。幼時よりアブラハム・リトウにピアノを学び、8歳で初リサイタルを開きました。その後、ジュリアード音楽院でヨーゼフ&ロジーナのレヴィン夫妻の門下になりました。ただレヴィン夫妻はコンサートで多忙だったため、彼らの弟子のアデーレ・マーカスが稽古をつけ、ジャニス自身はロジャー・セッションズにも和声法や対位法を学んでいたのだとか。なにはともあれ、15歳でフランク・ブラックの指揮するNBC交響楽団と共演して成功をおさめ、過日、ピッツバーグで15歳のロリン・マゼールと共演してセルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff, 1873-1943)のピアノ協奏曲第2番を弾いたところ、客席にいたヴラディーミル・ホロヴィッツに才能を認められて、4年間彼の弟子として研鑽を積むことになりました。以後、ホロヴィッツに認められた超絶技巧のピアノ奏者として主にアメリカで名声を獲得し、RCAレーベルと契約して数々の録音をこなしましたが、1958年にロジーナ・レヴィン門下のヴァン・クライバーンがソ連のチャイコフスキー国際音楽コンクールで優勝したことで、ジャニスの人気をクライバーンにとられることになり、マーキュリー・レーベルに移籍して録音活動を続けました。
ジャニスの最盛期は1960年代であり、1970年代に入るとハード・ワークが祟って関節炎に悩まされるようになり、名声に見合うだけの活動ができなくなりました。1984年に当時アメリカ大統領だったロナルド・レーガンにホワイトハウスへ招待されたとき、関節炎により思うような演奏ができないことを告白しています。その後関節炎の手術を経て再起しましたが、高齢ということもあり、往時のような輝かしい活動は行っていません。

ジャニスの輝かしい活躍の一コマとして記憶されるのは、1960年と1962年にアメリカからソ連にプロフェッショナルなピアノ奏者として派遣されたことです。クライバーンは1958年にコンテスタントとしてソ連を訪問してセンセーションを巻き起こしましたが、ジャニスはプロフェッショナルとして初めてソ連に赴き、冷戦下のアメリカとソ連の間に文化交流の糸口をつけることに成功しました。1962年の訪問は、チャイコフスキー国際音楽コンクールのガラ・コンサートに出演するために訪問したもので、この時にはマーキュリー・レーベルの録音チームを連れて行き、コンサート終了後に改めて録音を行いました。本CDでは、セルゲイ・プロコフィエフ(Serge Prokofiev, 1891-1953)のピアノ協奏曲第3番と、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番のカップリングを中心に、プロコフィエフのトッカータ、そしてロベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810-1856)の《クララの主題による変奏曲》、フェリックス・メンデルスゾーン(Felix mendelssohn, 1809-1847)の無言歌集第5巻から〈5月のそよ風〉、ブラジル人作曲家であるオクタヴィオ・ピント(Octavio Pinto, 1890-1950)の《子ども時代の思い出》から3曲が収録されています。
シューマンの作品のみニューヨークで収録されたもので、他は先述したように1962年ソ連訪問時にマーキュリー・レーベルの録音クルーを連れて行って録音したものです。協奏曲録音でのジャニスの相手はキリル・コンドラシン(Kiryll Kondrashin, 1914-1981)の率いるモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団(Moscow Philharmonic Orchestra)ですが、この録音がアメリカの録音クルーによる初めてのソ連のオーケストラの録音ということで、スタッフの気合が鮮明な音質として体現されています。

コンドラシンは、モスクワ出身の指揮者で、ボリス・ハイキンの門下生です。1934年にスタニスラフスキー=ダンチェンコ劇場の副指揮者としてキャリアをはじめ、1937年からレニングラードのマールイ劇場の指揮者、1943年からモスクワのボリショイ劇場の常任指揮者のそれぞれに転任してキャリアを重ね、1958年にはチャイコフスキー国際音楽コンクールのピアノ部門で優勝したアメリカ人ピアノ奏者のヴァン・クライバーンの凱旋帰国公演に帯同する形でアメリカに行き、ソ連の指揮者として初めてアメリカを訪問した指揮者になりました。1960年にモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となり、1975年にこのポストを退任した翌年にオランダに演奏旅行に出たまま亡命しています。亡命後はバイエルン放送交響楽団の首席指揮者に内定しましたが、アムステルダムでクラウス・テンシュテットの代役を務めた翌日に、アムステルダムのホテルで急逝しました。
この録音が行われた頃は、コンドラシンはソビエト国立交響楽団の首席指揮者の座を逃し、ナタン・ラフリンの後を継いでモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となり、このオーケストラの活動を軌道に乗せていた時期にあたります。モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団は、1951年にサムイル・サモスードが設立したオーケストラで、エフゲニー・ムラヴィンスキーの率いるレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の後塵を拝していた感がありますが、チャイコフスキー国際音楽コンクール本選の伴奏オーケストラとして存在感を示し、コンドラシンの下でソ連のトップ・クラスのオーケストラとしての名声を確立しました。

プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は、1921年にブルターニュで作曲された作品で、全部で5曲あるプロコフィエフのピアノ協奏曲のうち、唯一急-緩-急の三楽章構成をとる作品です。第三楽章に日本舞踊《越後獅子》のメロディが挿入されているとよく言われますが、プロコフィエフはそうした引用を明言したこともなく、それを裏付ける資料も確認できていません。作品は、知人で同じくブルターニュに亡命していた詩人のコンスタンティン・バリモントに献呈されました。1921年12月16日にフレデリック・ストックの率いるシカゴ交響楽団と自分のピアノで初演しましたが、初演は成功しませんでした。ただし、セルゲイ・クーセヴィツキーがこの曲を気に入って方々でこの曲を宣伝して回り、その甲斐もあってプロコフィエフの代表作のひとつと見做されるようになりました。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番は、ラフマニノフとしては記念すべき初の出版作品です。
モスクワ音楽院の卒業制作として1890年から翌年にかけて作曲され、1892年にモスクワ音楽院の学生オーケストラの演奏会で、本人のピアノとヴァシリー・サフォノフの指揮により第一楽章のみが初演されました。全曲は1900年12月2日にモスクワ・フィルハーモニー協会の演奏会で作曲者本人のピアノと作品の被献呈者のアレクサンドル・ジロティの指揮で演奏されました。1892年にピアノ2台用に編曲した楽譜が出版され、当初はラフマニノフもこの作品を気に入っていましたが、次第に作品の出来に不満を覚えるようになり、1917年に思い切って改訂を施しました。この改訂版をアメリカに亡命する際にもこの楽譜を携え、亡命後も手直しをし、1919年1月29日にニューヨークに於いて自身のピアノとモデスト・アルトシュラーの指揮するロシア交響楽協会の演奏会で演奏しています。この1919年の改訂稿が決定稿となりました。作品は三楽章構成で、第2番や第3番の協奏曲ほどにメロディの強烈さはありませんが、それぞれの楽章で繰り出される主題の初々しさが魅力です。
プロコフィエフのトッカータは、シューマンの同名作品をもじって作曲されたもので、シューマンのリズミカルさをそのままに、機械的で難易度の高い作品にしています。プロコフィエフのモダニズムが鮮明に打ち出された作品として、よくピアニストたちに取り上げられます。
メンデルスゾーンはドイツの作曲家で、少年時代から作曲に手を染めていた天才でした。姉ファニーも音楽家としての才能が高く、無言歌集には弟の名義で出版してもらった作品が含まれているのだとか。この無言歌集には一つ一つタイトルがつけられていますが、メンデルスゾーンは出版の際にタイトルをつけないようにお願いしていました。結局、楽譜の売り上げを優先した出版社が勝手に名前を付けて出版しましたが、本CDに収録される「5月のそよ風」も、そうした勝手な命名によるものです。このCDでは、そうした事情を勘案して、タイトルの表記は省かれています。
ピントの《子ども時代の思い出》は、1932年に作られた作品で、夫人のギオマール・ノヴァエスに献呈されました。本来は5つの部分からなりますが、ここでは、そのうちの3曲〈走れ走れ〉、〈行進曲〉、〈おもちゃの木馬〉が演奏されます。どれも1分程度のコンパクトな作品ですが、ピアノの技が映えるよう、効率よく書かれています。
シューマンの変奏曲は、ピアノ・ソナタ第3番(1835年作)の第3楽章に組み込まれている作品。シューマンの妻となったクララ・ヴィークは、ピアノの天才少女であり、作曲も堪能にする多才な人でした。この変奏曲では、クララの作ったカプリースを主題にしています。

ジャニスの演奏は、ピントの作品は楽しそうに演奏し、はしゃぎまわる子どもたちの情景が浮かぶようです。俊敏で強靭なタッチを駆使したジャニスの芸風を如実に示すのは、プロコフィエフのトッカータです。感傷的な表情付けを排除していくことで、ヴァルター・グロピウスのバウハウスのようなシャープで合理的な建築物を思わせる音楽に仕上がっています。
本CDの目玉として収録された協奏曲録音は、工場生産物を思わせる最盛期のジャニスのピアノ演奏がオーケストラと互角に渡り合うだけの強度を持っていた証拠になることでしょう。プロコフィエフの協奏曲第3番では、トッカータで見せた屈強な打鍵を駆使しながら、物腰の柔らかい所作を織り交ぜることで、音楽のトリッキーな流れをうまく表現しています。
ラフマニノフのピアノ協奏曲も勧善懲悪のドラマのよう。どんなピンチに陥っても軽やかな身のこなしといざという時のパワフルな打鍵で並み居る敵をバタバタと倒していく様が浮かび上がります。ロイ・リキテンスタインの絵画を思わせる明快さで描き出されるラフマニノフの音楽は爽快です。
ただ、シューマンやメンデルスゾーンの作品の演奏では、演奏家としてのジャニスの欠点も現れています。曲線的な滑らかさを必要とする個所では、直截的なジャニスのピアノ演奏が大味な印象になります。ジャニスは音密度の高いところで大いに腕を振るえるものの、密度の低いところでその音のつながりを表情豊かにつなぐというところに課題を残していたといえるでしょう。この課題を積み残したまま、激しい打鍵で演奏活動をつづけたために、おそらく関節炎に苦しめられることになったのでしょう。
協奏曲におけるコンドラシンのサポートは、やや録音のせいで音質がテカテカしているものの、プロコフィエフの作品ではジャニスのピアノに鋭敏に反応し、引き締まった音で作品のモダニズムを引き出しています。一方でラフマニノフでは大波のようなうねりを生じさせるオーケストラ・コントロールでジャニスに対峙し、快刀乱麻を断つピアノに対する好敵手ぶりを発揮しています。曲の性格によってしっかりと振り分けるコンドラシンのサポートの上手さも、このCDの聴き所の一つでしょう。


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