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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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CD1:
Johannes Brahms: Violin Concerto in D major, op.77
Jacques Thibaud (Vn.)
Orchestre des concerts Padeloup / Jean Fournet
(Rec. 18 January 1953, Paris) Live Recording with Applause

CD2:
Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.4 in D major, K218
Jacques Thibaud (Vn.)
Amsterdam Concertgebouw Orchestra / Eduard van Beinum
(Rec. 28 December 1949, Amsterdam) Live Recording without Applause
Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.3 in G major, K216
Jacques Thibaud (Vn.)
Orchestre des concerts Lamoureux / Paul Paray
(Rec. 1950, France)
Ernest Chausson: Poème, op.25
Jacques Thibaud (Vn.)
Orchestre des concerts Lamoureux / Eugène Bigot
(Rec. 1950, France)







本CDセットは、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)のヴァイオリン協奏曲、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲第3番&第4番、エルネスト・ショーソン(Ernest Chausson, 1855-1899)の《詩曲》の4曲を2枚のCDに収録しています。1枚目にブラームスの協奏曲、残りの3曲を2枚目のCDにそれぞれ収録しています。

ドイツ出身の作曲家であるブラームスのヴァイオリン協奏曲は、1878年にヨーゼフ・ヨアヒムを助言者に据えて作曲した、急-緩-急の三楽章構成の作品。初演は1879年の元旦にライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏会でヨアヒムの独奏とブラームス自身の指揮でなされ、作品はヨアヒムに献呈されています。
ブラームスの生きた時代の協奏曲は、独奏パートとオーケストラが主従のような関係にあり、独奏パートが映えるようにサポートするのがオーケストラの役目でした。こうした名技的協奏曲に於いて、独奏はオーケストラが用意したモチーフを超絶技巧を駆使して飾りつけ、曲の進行を引っ張っていきます。しかし、ブラームスの協奏曲は、若かりし頃に作ったピアノ協奏曲第1番から、独奏とオーケストラが主従の関係を結ばず、オーケストラには隙あらば独奏のイニシアチブをとるくらいの存在感があります。この作り込まれたオーケストラ・パートの充実っぷりは、ブラームスがヨアヒムの忠告を振り切って交響曲風の四楽章構成に仕上げようとしていたという創作過程上の話を彷彿とさせます。特に古典的な「協奏風ソナタ形式」の流儀で書かれた第1楽章冒頭のオーケストラによる主題提示は、まるで交響曲の様。一方で独奏ヴァイオリンのパートも名技的協奏曲を凌ぐほどの難易度で書かれており、この協奏曲でもヨアヒムが難易度を下げるよう交渉をしたほどでした。
こうした従来の協奏曲とは異なる独奏とオーケストラのバランスは、ピアノ協奏曲では、ピアノが大見得を切って大きな音を鳴らすことでなんとかオーケストラと張り合えますが、ヴァイオリンはピアノほどに音量が出ないので力負けしてしまいます。録音ではヴァイオリンの音を積極的に拾うことで、ヴァイオリン独奏がオーケストラにかき消されないよう対処できますが、実演ではヴァイオリンの音をかき消さないようにオーケストラ側が配慮しなければなりません。
こうした独奏ヴァイオリンとオーケストラのバランスの問題はブラームスの生前から問題になっていたらしく、ウィーンでの再演の際にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世から「ヴァイオリンの『ための』(für)じゃなくて『反抗する』(gegen)協奏曲だ」と皮肉を言われています。この曲を聴いたピョートル・チャイコフスキーは「ポエジーがないのに意味深ぶっている」といい、ブラームスから楽譜を送付されたパブロ・デ・サラサーテも第二楽章に「オーボエが美しいメロディを吹いている間に、俺はどの面を下げて突っ立ってればいいんだ」とコメントをしたっきり、この曲を弾こうとしませんでした。
なにはともあれ、献呈を受けたヨアヒムは、この曲を果敢にヨーロッパ中で弾き、この曲の名曲としての評価の土台を作り上げました。

ザルツブルクの宮廷副楽長の息子として生まれたモーツァルトは、父親から英才教育を受け、作曲から各種楽器演奏までこなすマルチ音楽家に育ちました。少年時代からザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世の計らいで父親に連れられてヨーロッパ各地に旅行にでかけ、各地で音楽の天才少年として評判になりましたが、1771年にコロレド伯ヒエロニュムスの代に代わってからは宮廷オーケストラに常勤することになりました。以前のように演奏旅行に簡単に出られなくなったモーツァルトは息苦しさを感じるようになり、1777年には大司教と喧嘩してザルツブルクを去ることになりました。
本CDに収録されているヴァイオリン協奏曲第4番&第3番は、そんなザルツブルク宮廷に奉職していた頃の1775年に作曲されたものです。1775年には、既に第2番の協奏曲を書き上げており、その年の12月にはヴァイオリン協奏曲第5番を仕上げていますが、これらのヴァイオリン協奏曲が何の用途で作曲されたのかはっきりしておらず、いつ、どこで、誰によって初演されたのかも判然としていません。これら一連の曲は、推測では、当時ザルツブルクの宮廷オーケストラのコンサートマスターを務めていたアントニオ・ブルネッティのために書かれたのではないかと考えられています。実際、第5番の第2楽章はブルネッティのサイドからケチがつき、差し替え用のアダージョ楽章が書かれています。一方で、ザルツブルクから去ったあと、モーツァルトと父親との往復書簡では、自分のヴァイオリン協奏曲を披露した話もあるので、自分が演奏することを視野に入れて作曲していたことも十分に考えられます。
作品は、いずれも18世紀に確立された急-緩-急の三楽章構成。第1楽章は、オーケストラによる主題提示のあとにヴァイオリン独奏が再度主題を提示する「協奏風ソナタ形式」の定石に基いています。ブラームスのように登場時から重音奏法を要求するようなアクロバティックな超絶技巧を要求しないので、独奏ヴァイオリンのテクニカルな負担は少なめです。しかし、技術的に平易に見える作品は、別の難易度があります。つまるところ、ただの運弓と指使いの練習にならないよう、聴き手を惹きつける素質が常に問われます。第2楽章の息の長いメロディをどのように歌わせるか、第3楽章のロンド主題とエピソードの差をどのようにつけるかなど、表現者として疎かにできない基礎が出来ていなければ、独奏者として聴き手を魅了することができません。その基礎を徹底的にチェックされるという意味では、お金を払って聴いてもらうプロフェッショナルのヴァイオリン奏者にとっては心してかからなければいけない作品です。
なお、本CDセットの富永壮彦による解説において、第4番は「『軍隊ふう』という呼び名でも知られている」と書かれていますが、そういった呼称はモーツァルト自身がつけたものでないこともあって、最近はあまり見かけません。また本CDの解説とは別に、モーツァルト父子の書簡で、ーツァルトの作ったヴァイオリン協奏曲が「シュトラスブルガー協奏曲」として言及されているのを見つけることができます。かつては第4番の協奏曲を指すと考えられていましたが、最近は第3番を指すのではないかといわれるようになってきました。かつては「軍隊ふう」という呼び名とともに、「シュトラスブルガー」という愛称を使うような動きも見られましたが、このように「シュトラスブルガー協奏曲」がどの曲を指すのかについては説を定めるのが不安定なので、今となってはそのような動きは立ち消えになっています。

本CDセットに収録の《詩曲》の作者、ショーソンはフランスはパリ出身の作曲家です。裕福な土木技師の家庭に生まれ、病弱だったことから家庭教師のレオン・ブルトゥス=ラファルグの下で勉学に励みました。この家庭教師を通じて15歳のころからベルテ・ド・レイサックのサロンに出入りするようになり、芸術の素養を身に着けていきました。20歳の時に父親の意向でパリ大学の法学科に進学し、弁護士の資格を取るに至りましたが、音楽への情熱止み難く、1878年には近所に住むジュール・マスネに個人的に作曲法を学ぶようになりました。1880年にはパリ音楽院に入学してマスネのクラスに入りましたが、セザール・フランクのオルガン科の授業にも出席し、フランクに私淑するようになりました。1881年にはマスネに太鼓判を押されてローマ大賞に挑戦しましたが、予選で落ちてしまい、パリ音楽院を自主退学してフランクに個人的に作曲を教えてもらうようになりました。1882年にはバイロイト音楽祭に出かけ、その後も度々通うほどにリヒャルト・ヴァーグナーの音楽に心酔するようになりました。
ショーソンは義理堅く家庭的な人であったらしく、1883年にジャンヌ・エスキュディエと結婚してフランクとの師弟関係を解消した後も、フランクがレジョン・ドヌール勲章を受勲できるよう腐心したり、同じフランク門下のアンリ・デュパルクの作品を世に出そうと奔走したりしました。カミーユ・サン=サーンスの創設した国民音楽協会の書記を務め、フランスの中堅作曲家としての地位を確立してからも、エスキュディエとの間に5人もの子供を作り、家族との時間を大事にしました。リメーで自転車の転倒による脳挫傷で死んだのも、パリからやってくる母ジャンヌを子供たちと迎えに行っている途中での出来事です。家族思いのショーソンにとっては、クロード・ドビュッシーの女癖の悪さは苦々しいものだったらしく、1894年にドビュッシーが愛人のガブリエル・デュポンを捨ててテレーゼ・ロシュと婚約を結び、デュポンがピストルで自殺未遂を図るというスキャンダルが起きたときに、ショーソンはドビュッシーを非難する側に回り、両社の交友関係は途絶してしまいました。
高潔な人物としてフランスの作曲家の間で尊敬されていたショーソンでしたが、彼の作風はフランク譲りの構成の堅牢さとヴァーグナーの音楽にみられる婀娜やかさを両立しています。禁欲と官能の鬩ぎ合いで生じる抒情を持ち味としたことで、フランスにおけるヴァーグナー受容の先陣かつフィルターの役割を果たしたというところが、音楽史的なショーソンの位置づけといえます。
《詩曲》は、ショーソンが亡くなる三年前に仕上げ、完成した年の12月27日にナンシーでウジェーヌ・イザイの独奏により初演された作品。ナンシーでの初演で好評を得たので翌年の4月4日にパリのコンセール・コロンヌでの演奏会でも再演されましたが、その時には賛否が分かれました。
この作品は、ロシアの文豪イヴァン・トゥルゲーネフの『勝ち誇れる愛の詩(恋の凱歌)』からのインスパイアで生まれた作品です。この小説は、ルネッサンス期イタリアのフェラーラを舞台にしたもので、絵を得意とするファビオと音楽を得意とするムツィオの2人の貴族が美女ヴァレリアを巡って争う三角関係を軸に据えた奇譚です。ヴァレリアは結局ムツィオと結婚し、ムツィオは傷心のまま東洋に旅に出かけました。4年後にセイロンで「恋の凱歌」の秘術を会得してムツィオたちのもとに帰ってきました。その秘術を使ってムツィオはヴァレリアの心を篭絡しにかかりましたが、ファビオに刺殺されてしまいました。平和が戻った二人でしたが、しばらくしてヴァレリアのお腹の中にムツィオの子を宿していることがわかる―というのが大まかな筋書きです。
ショーソンはトゥルゲーネフの小説の愛読者でしたが、この小説に創作意欲を掻き立てられ、小説の題名をそのまま曲名にして作曲しました。作曲するにあたっては、曲の初演者となった親友のイザイが発案した「詩曲」の様式で作られています。「詩曲」は、フランツ・リストの考案した交響詩を、もっと感覚的に抽象化するように推し進めたもの。イザイはアクロバティックな名人芸を披露するような楽曲づくりに表現上の行き詰まりを感じ、名人芸を前面に出さずに詩的表現を試みるという目的で、こうした様式を発案しました。イザイに至っては、自分の内面から湧き上がってきた感興を掬い取って作品を作り、あとでそれらしい題名をつけるような作り方を好みましたが、ショーソンは交響詩のように題材を先に定め、それを抽象的な表現に練り上げて曲を作っています。仕上げにトゥルゲーネフの小説のタイトルを外して現行のシンプルな題名に変え、トゥルゲーネフの作品を題材にしたとは安易に悟られないようにしています。こうしてヴァーグナーの音楽由来の官能的な作風に神秘を加えて爛熟させ、アンニュイな雰囲気すら漂わせる独特の作品として、フランコ=ベルギー奏派のヴァイオリン奏者たちをはじめとする世のヴァイオリンの名手たちに愛されるようになりました。

本CDセットのすべての曲でヴァイオリン独奏を務めるジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880-1953)は、フランスのボルドーに生まれたヴァイオリン奏者です。父親は先述のイザイと親交を持つヴァイオリン教師でしたが、当初ティボーは父親の意向でピアノを学んでいました。9歳の時にはヴァイオリンを学ぶようになりましたが、その経緯については、彼の自伝『ヴァイオリンは語る』でも語られています。その自伝によれば、ピアノを学んでいた頃から、ジャック少年は兄イポリートにヴァイオリンを学んでいましたが、その兄がなくなる少し前にセザール・トムソンの弾くルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏を聴いて感銘を受けたとのことです。ほどなくして兄が亡くなり、意を決して父親に頼み込んでヴァイオリンを習うようになったことで、ヴァイオリン奏者への道を歩むことになりました。なにはともあれ13歳でパリ音楽院に入学し、マルタン・ピエール・マルシックの門下生になっています。音楽院で1894年からプルミエ・プリの取得に挑戦していましたが、プルミエ・プリを取得して卒業できたのは1898年のことでした。また実家が裕福でなかったこともあって、カフェ・ルージュのミュージシャンとして音楽活動をスタートさせましたが、カフェの客だったエドゥアール・コロンヌに腕前を認められてコンセール・コロンヌに入団。そこでコンサートマスターのギヨーム・レミーの急病により、カミーユ・サン=サーンスの《ノアの洪水》の前奏曲のヴァイオリン・ソロを代役で弾いて頭角を現しました。1903年には独奏者としてアメリカへの演奏旅行を成功させ、1905年からはアルフレッド・コルトーとパブロ・カザルスとでピアノ三重奏団を結成し、ヨーロッパ中にその名を轟かせました。1928年と1936年には来日もしています。1953年9月1日にパリ=オルリー空港からエールフランス178便が42人の乗客を乗せて飛行しましたが、その乗客の中には、カルカッタ経由で三度目の来日をしようとしていたティボーが乗り合わせていました。この飛行機はバルスロネットのアルプス山中に激突して大破し、生存者はいませんでした。この事故でティボー所有のストラディヴァリウスのヴァイオリンも道連れになっています。
20世紀前半のフランスにおけるヴァイオリン奏者の花形として声望を集めたティボーですが、1925年にアップルトン&カンパニーから出版されていたアルベルト・バッハマンの『ヴァイオリン百科事典』(現在はドーヴァー社による復刻版が入手可能)の人名事典の項目で、アメリカではヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの作品解釈の専門家と見做されている旨の紹介が書かれています。このCD2枚組セットの一枚目に収録されるブラームスのヴァイオリン協奏曲は、ティボーの没年に収録されたもの。ティボーの盤歴からすれば唯一の録音ですが、バッハマンが記したアメリカでの評価を裏付ける貴重な資料だといえるでしょう。2枚目のCDに収録されているモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の録音は、それぞれ第4番が1949年、第3番が1950年のもの。バッハマンの百科事典ではモーツァルトに関する言及はありませんが、ティボーの自伝でモーツァルトの幻と会話していたように、ティボーにとってモーツァルトは特別な作曲家です。このCDセット唯一の「本場もの」といえる1950年録音(別資料では1947年録音)のショーソンの作品も、単純に「本場もの」で片付けられるレパートリーではありません。ティボーは《詩曲》の初演者のイザイと面識があっただけでなく、若かりし頃にはショーソンの家にも出入りしていたことがありました。こうした交友関係を重視する人にとっては、世界遺産レベルの貴重な演奏の一つに数えられるでしょう。

これらの録音の内容については、歴史的音源ということもあり、最新録音の明晰さを求めるのは筋違いでしょう。しかし、ブラームスの録音は、シャイヨー宮で行われたコンサートの実況放送の記録ということもあって、演奏前や演奏後の拍手、チューニングや演奏終了後のアナウンスまで入っています。原盤であるアセテート盤の傷に由来すると思われる周期的なスクラッチ・ノイズも入っているので、そういうノイズに抵抗のある人には勧められません。
このブラームスの録音でティボーの伴奏を務めるのは、ジャン・フルネ(Jean Fournet, 1913-)の指揮するコンセール・パドルー管弦楽団(Orchestre des concerts Padeloup)です。フルネはフランスのルーアンに生まれた指揮者。地元のフルート奏者で指揮者でもあった父にフルート奏法と音楽理論を叩き込まれ、パリ音楽院でガストン・ブランケットとマルセル・モイーズにフルートを学んでいました。一方でフルート奏者から指揮者に転向したフィリップ・ゴーベールにも指揮法を師事していました。その後は地元の芸術劇場のフルート奏者として活動していましたが、1936年に急遽父の代役で指揮をし、以後指揮者としてキャリアを積んでいきました。1940年からマルセイユ歌劇場の第二指揮者となり、1944年から1957年までパリのオペラ・コミック座の音楽監督に転出する一方で、エコール・ノルマル音楽院の指揮法講師を務めました。1950年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と共演してからオランダとの関係を深め、1961年から1978年までオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、1968年から1973年まではロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督をそれぞれ歴任しました。世界各地のオーケストラや歌劇場にも客演していましたが、日本にも東京都交響楽団にたびたび客演して縁が深く、2005年の12月に東京都交響楽団との演奏会で現役引退を表明しています。
コンセール・パドルー管弦楽団は、ジュール・パドルーが1861年に発足させたコンセール・ポピュレールを起源とする民営オーケストラの老舗です。エドゥアール・コロンヌやシャルル・ラムルーらの台頭に押されて1884年にコンセール・ポピュレールは演奏活動を一時停止しましたが、1918年に実業家のセルジュ・サンベールの出資で復活し、1921年から「コンセール・パドルー」に名称を変更して演奏活動を継続しています。
フルネの伴奏は、コンセール・パドルー管弦楽団の面々を自由に泳がせながら、総奏など要所要所ではしっかりと手綱を締めており、音楽が散漫になりません。やりたい放題なティボーの独奏を前にしても彼に振る舞わされることなく、テンポの外枠をきっちり決めてティボーが脱線しないように脇を固めているので、堅固なブラームスのイメージは保たれています。
ティボーのヴァイオリン独奏は、第1楽章冒頭の登場時こそ突撃兵の突進のような気迫を感じさせますが、力みが取れてくると、適宜ポルタメントをかけたり、ルバートを使ったりと自由に振る舞うようになります。カデンツァはヨアヒムの作を使っていますが、音符を改竄している風でもないのに、それがヨアヒム作だとすぐに気づけないほど、自分の流儀に引き付けています。しかし、傍若無人に振る舞うのではなく、伴奏の骨格を壊さないように節度を保ち、その所作が優雅で洗練された美しさを醸し出しています。ティボーのヴァイオリンの音色は往時の艶やかさが薄れ、ところどころしわがれていますが、それがかえって生身のシャンソンのようなリアリティを生み出しています。第2楽章のヴァイオリンが奏でるメロディは、本来感じられる高潔さの代わりに、弾き手と聴き手の意思疎通を感じさせる親愛の情のこもった音楽になっています。ティボーのヴァイオリン演奏の特徴は、パルラント・アーティキュレーション(語りかけるような抑揚の付け方)にあるといわれますが、本演奏を聴いても、それをまねるのは至難の業です。このアーティキュレーションの肝である、わざと正調の音程から上下に外したり弾き崩したりといった表現上のコンビネーションは、楽譜に書かれた音を語り口として読み込んだうえで、お客さんや自分の体調を含めた諸々のコンディションを勘案して臨機応変に対応する直観力を必要とします。おそらくティボーは別の演奏会では、また違った弾き方で聴衆を魅了したことでしょう。第3楽章など、散りばめられた超絶技巧の難所を紙一重で躱しながら茶目っ気を振りまいており、聴いているこちらのほうが楽しくなります。聴いた後は充実感より幸福感を感じる面白い演奏でした。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番は、エドゥアルド・ファン・ベイヌム(Eduard van Beinum, 1901-1959)率いるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(Amsterdam Concertgebouw Orchestra)との共演。ベイヌムはオランダのアーネム出身の指揮者。音楽一家に生まれたベイヌムは、家族から音楽の手ほどきを受け、アムステルダム音楽院でヴァイオリン、ピアノや作曲などを学んでいました。一方でアンヘルム管弦楽団のヴァイオリン要員として潜り込んで指揮法を実地的に学び取り、一旦ピアノ奏者としてリサイタル・デビューを果たしたものの、アマチュア合唱団の指揮者として経験を積み、1927年にハールレム交響楽団の音楽監督に就任して指揮者としての活動を始めました。1929年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演すると、ピエール・モントゥーとウィレム・メンゲルベルクにその能力を認められ、メンゲルベルクの補佐としてアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と友好関係を結ぶようになりました。1938年には同管弦楽団の次席指揮者となりましたが、第二次世界大戦終結後は追放されたメンゲルベルクの後任として単独で首席指揮者を務めるようになりました。戦後のベイヌムは、ロンドンにアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と公演に出かければロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者就任を懇請され、アメリカに演奏旅行に行けばロサンゼルス・フィルハーモニックから首席指揮者就任を頼まれるほどの人気を獲得しました。ただ、あまり丈夫ではなかったベイヌムは、それにもかかわらずロンドン・フィルハーモニー管弦楽団やロサンゼルス・フィルハーモニックの仕事をアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との兼任で引き受けたため、次第に体調を悪化させ、アムステルダムで手兵に稽古をつけている最中に致命的な心臓発作起こして急逝してしまいました。
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、アムステルダムのコンセルトヘボウ(英語でコンサートホール)落成の1888年に、そのホール専属のオーケストラとして、ウイレム・ケスを初代指揮者に迎えて発足しました。1895年にメンゲルベルクが首席指揮者の任を継いものの、先に述べた通り第二次世界大戦のあおりでメンゲルベルクがナチスへの協力を疑われて追放され、ベイヌムが三代目の首席指揮者になりました。ベイヌム急逝後はベルナルト・ハイティンクが跡を継ぎ、1888年にハイティンクの退任に合わせて、正式にオランダ王室から「ロイヤル」の称号を下賜され、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を名乗るようになりました。 

本録音もライヴ録音とのことですが、先のブラームスのように演奏前の拍手及びチューニングは収録されておらず、演奏後の拍手も割愛されています。音質は時代相応というよりも、1949年の録音にしてはあまり良くない部類に入ります。
ベイヌムの伴奏は総じて生真面目で、第1楽章のオーケストラによる主題提示からしっかりとした足取りで、当時としてはスマートな演奏を聴かせています。最初のうちは、ティボーのヴァイオリン独奏を受け損ない、アンサンブルが乱れる箇所もありますが、ティボーが帳尻を合わせてくれることが分かってくると、自分のテンポ設定を堅持する姿勢を見せ、前倒し気味に進もうとするティボーを牽制しています。第二楽章ではしっとりと歌いこむティボーに歩調を合わせつつ、音楽が散漫にならないようにヴァイオリンが休んでいるときにしっかり音楽を整えています。
ティボーのヴァイオリンは第一楽章の初登場時にはぶっきらぼうに出てきて速足で駆け抜けようとし、オーケストラ伴奏を慌てさせていますが、これはティボー一流の遊びでしょう。基本的にベイヌムの築いた土台を踏み外すことはなく、時折歩を早めるようなフェイントをかけるのも、音楽の流れがルーティン化しないようにする計算です。ヨアヒム作のカデンツァでは自分のやりたいように喋りまくっているような演奏で、第一楽章のカデンツァ終了時にはオーケストラに出迎えのドミナント和音を鳴らさせています。第三楽章のロンドは、2拍子の主題で拍節を堅守し、8分の6拍子の主題で弾き崩すという対比で音楽に生き生きとした表情を与えています。ベイヌムも緩急を弁えた伴奏でしっかりティボーに張り付いており、楽しく品のいいコーダを作り上げています。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番は、ポール・パレー(Paul Paray, 1886-1979)の指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団(Orchestre des concerts Lamoureux)との共演です。パレーはフランスのル・トレポールのゴルワ系の家系に生まれた指揮者です。彫刻家で地元のオルガン奏者をしていた父に音楽の手ほどきを受けたパレーは、ルーアンに行ってアンリ・ブルジョワ、アドルフ・ブールドン、ジュール・アリンにオルガンを含めた教会音楽の理論を学びました。その後パリ音楽院に入学してグザヴィエ・ルルーに和声、ジョルジュ・コサードに対位法、ポール・ヴィダルやシャルル・ルヌヴーに作曲をそれぞれ師事し、1911年にローマ大賞に作品を応募して見事優勝しましたが、第一次世界大戦で従軍して戦時中はドイツ軍の捕虜になりました。もともと作曲家、あわよくば鍵盤楽器奏者として独立したかったパレーでしたが、1918年に生活の困窮の打開のために指揮法を学ばぬままカジノ・デ・コートレーのオーケストラの指揮の仕事を引き受け、それが縁となってコンセール・ラムルーやコンセール・コロンヌなどの演奏会に呼ばれるようになり、指揮者としてのキャリアを積み上げていきました。1928年にはモンテカルロ国立歌劇場の首席指揮者に就任し、1932年からはコンセール・コロンヌ管弦楽団の首席指揮者となりましたが、第二次世界大戦中に占領下のパリでナチス当局からユダヤ人を排斥するよう命令を受けたのを撥ね付けて辞任を余儀なくされたのだとか。マルセイユに逃れて当地のオーケストラを指導しにいくと、そこはドイツの同盟国であるイタリアの占領下で、そこでもユダヤ人排斥を命令されたので、ユダヤ人音楽家たちを引き連れてモンテカルロに移動し、レジスタンス活動に身を投じることになりました。戦後はしばらくコンセール・コロンヌの首席指揮者のポストに戻り、1951年から1962年までデトロイト交響楽団の首席指揮者として黄金時代を作り上げました。デトロイト交響楽団の職を勇退後はフリーランスの指揮者として活躍し、生涯現役のままモンテカルロで急逝しました。
コンセール・ラムルー管弦楽団は、1881年にシャルル・ラムルーによって旗揚げされた「ヌーヴォー・コンセール協会」を起源に持つオーケストラです。私設コンサートとして先述のコンセール・ポピュレールやコンセール・コロンヌと覇を競い、1897年にラムルーが引退してカミーユ・シュヴィヤールが首席指揮者に収まってから「コンセール・ラムルー協会」に名称変更して、その名を今に引き継いでいます。パレーはシュヴィヤールの後任として1923年から5年間ここの首席指揮者を務めたことがあり、その後もたびたび指揮台に上っていました。
パレーは、誘惑術のようにオーケストラをコントロールする当時のフランスの指揮者たちとは違って、シャキッとしたリズム感を武器に溌剌とした音楽を作ることに長けており、このティボーとの共演でも、そうした彼の美質が出ています。やや気分屋なところのあったコンセール・ラムルーのオーケストラのアンサンブルを縦の線できっちり揃え、メリハリをつけて演奏することで、きびきびとした動作が生まれています。また、ティボーの変則的なテンポのギア・チェンジができないようにしっかりとテンポを保持しており、独奏が伴奏をひっかきまわすような隙を一切見せていないところも、本CDセットに収録されているほかの演奏とは違う点です。
では、パレーの伴奏により、ティボーが窮屈相違しているのかといえばそうでもなく、パレーの創りだすノリの良いテンポに乗っかっていつになくキレの良いヴァイオリンさばきを聴かせています。また、変則的な動きをしない分、オーケストラとの掛け合いがルーティンにならないように独特な装飾音を織り込んだり、同じフレーズの繰り返しで微妙に音程や音量を変えたりして表情の変化をつけています。イザイ作の技巧的なカデンツァでは奔放にテンポに粘りを持たせているのも、演奏全体の中でのコントラストを作っており、オーケストラとの掛け合いの整然とした感じが一層引き立つようになっています。他のティボーの演奏で見られる即興的なテンポ・チェンジは、彼がそういうふうにしか演奏できないのではなく、あくまで数ある表現手段の一つに過ぎないということが、この録音から明らかにできます。

ショーソンの詩曲はウジェーヌ・ビゴー(Eugène Bigot, 1888-1965)の指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団との共演です。
ビゴーはブルターニュ地方のレンヌに生まれた指揮者。パリ音楽院でルルーとヴィダルに学んだ点ではパレーと同門ですが、アンドレ・ジェダルジェに対位法も学んでいます。1912年に音楽院を卒業してシャンゼリゼ劇場の合唱指揮者になるものの、第一次世界大戦に従軍して音楽的経歴を中断し、戦後にコンセール・パドルーのヴィオラ奏者として音楽活動に復帰しています。その後すぐにデジレ=エミール・アンゲルブレシュトの助手としてバレエ・スエドワを指揮するようになり、1923年にはパリ音楽院管弦楽団の副指揮者に転出しました。1925年から1927年までシャンゼリゼ劇場の首席指揮者、1927年から1934年までプティ・パリジャン放送の指揮者を務め、かつての上司だったアンゲルブレシュトのフランス国立放送管弦楽団設立にも協力しました。第二次世界大戦中はパレーと一緒にコンセール・ラムルーとコンセール・コロンヌの共同コンサートの指揮をしてフランスの音楽文化の死守に奔走する一方で、ヴィシー政権が1941年に作った職業音楽家のための委員会に事務員として働いていたこともあります。戦後はパリ音楽院の指揮科の教授を1957年まで務めたり、フランス各地でフランス各地でマスター・クラスを開いたり、ブザンソン国際音楽祭の指揮者コンクールの審査員長を務めたりと、後進の指導に熱心に取り組む一方で、ヨーロッパ各地の歌劇場に客演するなど指揮者として健在を示していました。パリで亡くなっています。
この《詩曲》の録音も音が籠もり気味で状態の良くありませんが、それでもその情報量は少なくありません。ビゴーの指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団は、独奏ヴァイオリンを導き出す序奏からして、何か解いてはいけない封印を解いてしまったかのような雰囲気が漂います。満を持して登場するティボーのヴァイオリンは、本CDセットのどの演奏にも当てはまらない妖艶な気を放っており、思わず息を呑む凄みがあります。この演奏においては、オーケストラは心の闇を抱え、ヴァイオリンはそんなオーケストラを救おうとせず堕落の道に誘惑しようとしているかのようです。ティボーのヴァイオリン演奏は、誘惑的というには少々音色が枯れ気味ですが、気だるそうなオーケストラに悪知恵をし込んだり、爆発しそうなオーケストラを嗾けたりと、いろんな手管を使ってオーケストラを炊きつけています。溜め込んでいたものを放出するような終盤のオーケストラの爆発は、あまり良くない音質であるにもかかわらず、宇宙が鳴動するようなスケールを感じさせます。妖艶でアンニュイな雰囲気作りで終わりがちなこの曲に、凄絶な物語性をしっかり持たせた演奏として、ティボーとビゴーの演奏は十分傾聴に値すると思います。

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