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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Ludwig van Beethoven: Violin Concerto in D major, op.61
Mischa Elman (Vn.)
London Symphony Orchestra / Georg Solti
(Rec. 22-25 April 1955, Kingsway Hall, London)
Max Bruch: Violin Concerto in G minor, op.26
Mischa Elman (Vn.)
London Philharmonic Orchestra / Adrian Boult
(Rec. 21-22 March 1956, Kingsway Hall, London)




本CDは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)のニ長調のヴァイオリン協奏曲と、マックス・ブルッフ(Max Bruch, 1838-1890)のヴァイオリン協奏曲第1番を収録しています。演奏は、どちらもミッシャ・エルマン(Mischa Elman, 1891-1967)が独奏を担当しますが、ベートーヴェンの作品ではゲオルグ・ショルティ(Georg Solti, 1912-1997)の指揮するロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)、ブルッフの作品ではエイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889-1983)の指揮するロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(London Philharmonic Orchestra)がそれぞれ伴奏を担当しています。

ベートーヴェンは、神聖ローマ帝国のケルン大司教の領邦であるボンに生まれた作曲家です。ベートーヴェンの名前には"van"がつけられるので、彼は貴族の出身であるかのように思われがちですが、ベートーヴェン家は祖父の代にフランドル地方のメヘレンから移住してきました。フランドル地方では、"van+地名等"で姓を作ることが多く、"van Beethoven"もその例には漏れません。この"Beethoven"については、そういう地名があったという説と、その綴りにベートーヴェン家の出自が刻まれていて"Beet"(甜菜)と"hoven"(農場主)とをくっつけた成語と考えて、出自を農家と考える説があります。
なにはともあれ、ベートーヴェン家の中で「ルートヴィヒ」と名付けられた人物は、本稿で取り上げる作曲家のベートーヴェンの他に、少なくとも3人いたことがわかっています。1人は、ベートーヴェン家がメヘレンにあった頃の1710年にわずか3ヶ月で亡くなった男の子。もう一人は、その二年後に生まれた男子で、27歳の時にケルン大司教に宮廷歌手として奉公する為にボンに一家で移住し、その地で宮廷楽長の地位に上り詰めました。この宮廷楽長の息子のヨハンが、本稿で取り上げるニ長調のヴァイオリン協奏曲の作曲者の父親になります。さらにもう一人として、ベートーヴェンが生まれる一年半ほど前に、生後すぐに亡くなった兄がおり、彼も「ルートヴィヒ・マリア」と名付けられていました。余談として、ベートーヴェン家の卑属に「ルートヴィヒ」を探せば、甥のカールの長男として「ルートヴィヒ・ヨハン」と名付けられた人が確認できます。
閑話休題、ボンの宮廷楽長の孫として生まれたベートーヴェンは、父親の早期教育と、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェの薫陶を受けて音楽家として成長。紆余曲折を経てフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの門下生としてウィーンに移住し、アントニオ・サリエリやヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーらのもとで研鑽を積んでピアノ奏者兼作曲家として成功を収めました。20代後半で難聴を発症したとされ、作曲を専業としなければならなくなりましたが、数々の名曲を生み出し、今日でも重要レパートリーとしてベートーヴェンの作品が取り上げ続けられています。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、未完成のものを含めると2曲あります。一つはハイドンに弟子入りする1792年頃に手がけたハ長調のヴァイオリン協奏曲で、これは第一楽章の途中で挫折しています。本CDに収録のヴァイオリン協奏曲は、1806年に作曲されたものです。当時ベートーヴェンは、アン・デア・ウィーン劇場の音楽監督を務めいた関係で、コンサートマスターのフランツ・クレメントと懇意にしていました。クレメントは作曲家としてヴァイオリン協奏曲を作った経験もあるので、ベートーヴェンがヴァイオリン協奏曲を書くときには助言をし、1806年12月23日のアン・デア・ウィーン劇場での初演の独奏も担当しました。草稿の段階では"per Clemenza pour Clement"(慈悲をもってクレメントに)という駄洒落のような献辞が書かれていましたが、出版の折には、ウィーン宮廷の軍事参事官を務める友人のシュテファン・フォン・ブロイニング宛に献辞が書き換えられています。なお、出版前にムツィオ・クレメンティにピアノ協奏曲版も作ってはどうかと勧められており、出版の時にはピアノ協奏曲版も同時に出版し、こちらはブロイニング夫人ユーリエに献呈されました。
第1楽章は協奏風ソナタ形式で、楽章冒頭のティンパニの拍打ちが楽章全体の重要なモチーフになっています。第2楽章は三部形式でありながら、中間部が変奏曲の体を成しています。アタッカ(切れ目なく次の楽章につなぐ方法)で結ばれる第三楽章は、ロンド形式の溌剌とした音楽に仕上がっています。
ベートーヴェンがヴァイオリンを得意としなかったことと、コンサートマスターのクレメントに合わせて作曲したことで、後年のニコロ・パガニーニのように超絶技巧を要求する作品にはなりませんでしたが、その点は、今日の独奏者がカデンツァで技巧面での華やかさを補っています。カデンツァは、独奏者が作品で使われる動機を咀嚼して即座に音楽を作る場面で、独奏の即興演奏能力を問う見せ場で。ベートーヴェンは第1楽章の終結部への連結と、第2楽章と第3楽章の連結部と、第三楽章の終結部にカデンツァを置いています。ベートーヴェンはピアノ協奏曲版でこそピアノでのカデンツァ案を書き込みましたが、元のヴァイオリン版ではカデンツァ案を提示しませんでした。そこで、後年の演奏者たちが、カデンツァの案を作って自分の演奏会で使い、それが譜面として残っています。今日の演奏家は、よほど即興演奏に自身がない限りは、ヨーゼフ・ヨアヒムやフリッツ・クライスラーといった往年の名手たちのカデンツァ案を拝借します。場合によっては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲版のカデンツァをヴァイオリン用にアレンジして弾くこともありますが、本CDでは、エルマンはそうした他人の作例を拝借せず、自分のカデンツァを弾いています。

ブルッフはケルン出身の作曲家です。音楽教師だった母親から音楽の手ほどきを受けたブルッフは、9歳で作曲を始め、ボン在住の音楽学者だったハインリヒ・カール・ブライデンシュタインの下で音楽理論を学ぶようになりました。11歳の時には最初の交響曲を書いてケルンの音楽協会に注目されるようになり、同じ年に書いた弦楽四重奏曲を発表してフランクフルトのモーツァルト財団から奨学金を貰っています。この奨学金でケルン音楽院に行き、フェルディナント・ヒラーとカール・ライネッケの下で研鑽を積みました。1858年に卒業した後は、しばらく音楽教師をしながら作曲活動を行っていましたが、1865年にコブレンツの音楽監督に就任した頃から名声が高まり、1869年にはゾンダースハウゼンの宮廷楽長に転出しています。1880年から2年弱の間イギリスのリヴァプール・フィルハーモニー協会(後のロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団)の首席指揮者を務め、1883年にはブレスラウ演奏協会の会長に就任しています。1891年から1910年までベルリン高等音楽院の教授となり、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズや山田耕筰などを指導しました。1913年にはベルリン大学から名誉音楽博士号を贈られたり、プロイセン帝室芸術院の名誉会員になったりと、ドイツ音楽の重鎮としての存在感を示しましたが、ベルリン近郊フリーデナウで病没しています。
ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番は、ケルン音楽院にいた1857年ごろから構想を練っていた作品。しかし当時のブルッフはソプラノと合唱とオーケストラのための《白樺と榛の木》とか歌劇《ローレライ》とかといった声楽作品を手がけており、この曲の制作に本腰を入れたのは1864年になってからのこと。マンハイム宮廷管弦楽団のコンサートマスターを務めるヨハン・アネッテ・ケーニンクに技術上の助言をもらいながら作曲を進めました。赴任先のコブレンツで1866年に作品を脱稿したブルッフは、ケーニンクに初演してもらおうとするも、病気を理由に初演の依頼を断わられています。そこでブルッフの母校でヴァイオリン科の教授をしていたオットー・フォン・ケーニヒスロウに独奏を頼み、脱稿した年の4月24日にコブレンツで作曲者本人の指揮で初演を敢行しました。
初演の客受けは良かったものの、ブルッフは作品の出来栄えに違和感を感じたために出版を取りやめ、ケーニンクの知り合いで指揮者として誉の高かったヘルマン・レヴィ、ケーニヒスロウの師匠だったフェルディナント・ダヴィッド、友達のヨーゼフ・ヨアヒムといった人たちに楽譜を送って評価してもらいました。
一番辛い点をつけたのはレヴィでした。レヴィはブルッフとの手紙のやり取りでこの曲を形式的に脆弱だと主張し、もっと一杯ヴァイオリン曲や弦楽四重奏曲を手がけて経験を積むように説教めいた手紙を送りつけてくる始末。失敗作だと決めつけるレヴィに閉口したブルッフは、この曲については改訂の進捗状況を伝えるに留めました。本来であれば、未熟者と決めてかかるレヴィにブルッフは絶縁を申し入れても良かったのですが、ブルッフは当時駆け出しの作曲家で、レヴィは当時のドイツ音楽界の大物だったため、彼の機嫌を損ねないように注意を払いました。
ダヴィッドからどういう助言を受けたのかは明らかにされていませんが、1868年に改訂版が出来上がってからは好んでこの曲を取り上げており、レヴィほど辛辣な反応はしなかったものと思われます。また、ダヴィッドはフェリックス・メンデルスゾーンのホ短調のヴァイオリン協奏曲の初演者でもあったので、この曲の第1楽章と第2楽章がアタッカ(休みなし)で結ばれているのはダヴィッドの進言によるものとも考えられます。
一番親身にブルッフに意見したのはヨアヒムです。ヨアヒムはブルッフから渡された楽譜を試演して改善の余地のある箇所をチェックし、ブルッフと綿密に連絡を取り合いました。改訂前に「幻想曲風の序奏」という名称だった第1楽章を「前奏曲」(Vorspiel)という名称に変更するように助言したのはヨアヒムです。1868年1月7日のブレーメンでの演奏会でヨアヒムの独奏、カール・マルティン・ラインターラーの指揮により決定稿の初演が行われ、その演奏に感動したブルッフは、出版譜の献辞をヨアヒムに宛てました。
この曲は、レヴィが難色を示したように、協奏曲としては伝統的な型から少し外れています。「前奏曲」というタイトルをつけた第1楽章は、本来であれば協奏風ソナタ形式で書くところを形式に拘らない奔放さで書き切っています。レヴィの酷評を気にしていたブルッフは、この形式面での破格を整理すべきか悩みましたが、ヨアヒムがルイ・シュポアのヴァイオリン協奏曲第8番を破格の前例として持ち出し、ブルッフを勇気づけました。これを「前奏曲」とすることで、形式面での自由さを後の2つの楽章の前口上という位置づけにして際立たせるという効果を生んでいます。
第2楽章は緩徐楽章の役割を担いますが、ブルッフはこの楽章の主題を労作しました。形式的には三部形式の発展形とも取れますが、展開部を簡略化したソナタ形式として扱うのが妥当でしょうか。耽美的なメロディをおおらかな伴奏に乗せることで、充実感のある音楽を作り上げています。
第3楽章がソナタ形式で作られているというのも、終楽章をロンド形式にするという協奏曲の定石から外れています。第一主題は第一楽章のモチーフのように付点リズムでアクセントをつけており、起き上がり小法師のような音の動きが特徴的です。第二主題はレガートで朗々と歌い、第一主題とのコントラストをうまく作り上げています。こうしたリズム的な特徴のある主題を組み合わせることで、ロンド主題と同等のインパクトを聴き手に与えています。

本CDで独奏を担当するエルマンは、ロシア帝国領キエフ(1917年からウクライナ領)のタルノイという村の出身。クレズマーのヴァイオリン弾きだった父方の祖父に音楽の才能を発見され、アマチュアのヴァイオリン弾きだった父サウルにヴァイオリンの手ほどきを受けています。その後すぐにオデッサ帝室音楽院に入学してアドルフ・ブロドスキー門下のアレクサンデル・フィーデルマンにヴァイオリンを学び、1901年にペテルブルク音楽院のレオポルト・アウアーのクラスに編入されています。1903年からアウアーの伝手で資産家たちのサロンで演奏する機会を与えられ、1904年にはベルリンでの演奏会、1905年にはアレクサンドル・グラズノフのヴァイオリン協奏曲のロンドン初演、1908年にはカーネギー・ホールでの演奏会、1914年にはオーストラリアへの演奏旅行をそれぞれ、成功させて世界的な名手としての評価を確立しました。1923年にはアメリカに帰化し、活動の本拠をアメリカに移しました。1930年代以降は、ヤッシャ・ハイフェッツやナタン・ミルシテインといった後輩格のスピーディーでスタイリッシュな演奏様式が持て囃されるようになり、エルマンの人気は下降線を辿りましたが、引退することなく、マンハッタンの自宅で急逝するその日まで、数日後に控えたリサイタルのためにヴァイオリンの練習をしていました。
エルマンは1921年、1937年、1955年の3回にわたって来日していますが、1921年と1937年の来演時の演奏を耳にした野村あらえびす(作家としては「野村胡堂」名義で知られる)は、エルマンの演奏について、自著の『名曲決定盤』で「妖艶無比な媚と甘さとそして悪魔的な魅惑さえ持っていた」と評しています。野村の評からエルマン・トーンという言葉が生まれましたが、このエルマン・トーンは、野村に従えば、1937年に来日した時には、面影しか残っていなかったとのこと。本CDのブックレットで解説を書いている出谷啓が1955年の来演時のエルマンを目の当たりにして言うには、「禿げ頭から湯気を立てながら、ステージ上を所狭しと、動物園の熊のように動きまわり、大変な熱演」だったそうですが、その音色については、野村の評を踏まえて「往年のエルマン・トーンは失せていたのだろうが、低音の響きの独特のふくよかさと図太さは、ほかのヴァイオリニストの演奏とは違うユニークな魅力があった」と肯定的に評価しています。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で伴奏を務めるのは、ゲオルグ・ショルティ(Georg Solti, 1912-1997)の指揮するロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)です。
ロンドン交響楽団は1904年にクィーンズ・ホール管弦楽団から脱退したミュージシャンによって結成されたイギリスのオーケストラです。本録音が行われた頃は、ヨーゼフ・クリップスが首席指揮者の座を退き、後任不在のまま指揮者の客演で凌いでいた時期に当たります。ショルティは、1947年にデッカ・レーベルと録音契約を結んでイギリスとの関係を深めており、ロンドン交響楽団にも度々客演していました。1963年にはロンドン交響楽団と、ピエール・モントゥーに帯同する形で初来日を果たしています。
ショルティは、オーストリア=ハンガリー帝国領のブダペストの出身。元々はピアノ奏者志望で、フランツ・リスト音楽院でエルネー・ドホナーニ、ベーラ・バルトーク、レオ・ヴェイネル、ゾルタン・コダーイの各氏に指導を受けています。そのピアノの腕前は1942年のジュネーヴ国際音楽コンクールのピアノ部門で優勝したほどのもので、デッカ・レーベルと契約を結んだときは、ピアノ奏者としての採用でした。ピアノ奏者としての腕前を生かして1930年頃からハンガリー国立歌劇場のコレペティートルとして働いていたことから、指揮者としての素養も体得していったショルティは、1936年と1937年のザルツブルク音楽祭でアルトゥーロ・トスカニーニの助手に抜擢され、1938年にはハンガリー国立歌劇場のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《フィガロの結婚》の公演でピンチヒッターとして指揮者デビューも果たしています。1946年からバイエルン国立歌劇場、1952年からフランクフルト歌劇場のそれぞれの音楽監督を歴任し、シカゴ交響楽団の首席指揮者を1969年から1991年まで務めた時には、このオーケストラの黄金時代と言われました。シカゴ交響楽団の職を勇退後はフリーランスの指揮者として活躍しましたが、アンティープで自叙伝の出版の準備中に急逝しました。

ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番で伴奏するのは、エイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889-1983)の指揮するロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(London Philharmonic Orchestra)です。
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団は、1932年にトーマス・ビーチャムが私財を投じて作ったオーケストラですが、ビーチャムが首席指揮者のポストを保持したまま1939年にアメリカとオーストラリアに活動範囲を移したため、ビーチャムの手から離れて自主運営に方針を切り替えました。ビーチャム帰国後も、ビーチャムに客演は許したものの、専権の行使を拒否し、1947年にエドゥアルト・ファン・ベイヌムを二代目の首席指揮者に指名しています。蒲柳の質だったベイヌムが1950年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の職を辞したとき、後任に選ばれたのがボールトでした。
ボールトは、イギリス北西部チェスターの生まれ。石油貿易業者の一家でしたが、両親は大変な音楽好きで、2歳の時に一家はリヴァプールのブランデルザンズに引っ越してからは、リヴァプールで開かれるハンス・リヒターの指揮するオーケストラのコンサートにボールトを度々連れていきました。ボールトはウェストミンスター・スクールに進学後も、自由時間を使ってヘンリー・ウッド、アルトゥル・ニキシュ、クロード・ドビュッシー、フリッツ・シュタインバッハやリヒャルト・シュトラウスらのコンサートに通い、父の友人で音楽愛好家だったフランク・シュスターの伝手でエドワード・エルガーの知己を得ています。1908年にオックスフォード大学に進学した際には歴史学を専攻しましたが、ヒュー・アレンの下で音楽を学んだり、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズと親交を結んだりして、音楽の道にますます接近し、1912年に大学を卒業後はライプツィヒ音楽院に留学しています。留学先ではシュテファン・クレール、ハンス・ジットやマックス・レーガーに師事しつつ、ニキシュの指揮する演奏会に足繁く通って音楽解釈の極意を体得。1914年に帰国後、コヴェントガーデン王立歌劇場の指揮者陣に加わったり、1918年のグスターヴ・ホルストの《惑星》の試演を指揮したり、1920年にエドワード・エルガーの交響曲第2番の再演やレイフ・ヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲の初演を指揮したりして着実に業績を重ねていきました。1924年にバーミンガム市交響楽団の首席指揮者に就任し、1930年にBBC交響楽団の初代首席指揮者として転出し、1950年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団から首席指揮者として引き抜かれました。1959年にバーミンガム市交響楽団に一年間音楽監督として舞い戻った後は、フリーランスの指揮者として1981年まで活動を続けました。ロンドンで没しています。

収録された演奏は、特に独奏に限って言えば、エルマン以外の人がこのように演奏するとは思えない独特のスタイルを持っています。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲など、弟弟子のハイフェッツであれば早めのテンポでサクサクと進めるものですが、エルマンは中膨らみのトロリと甘い音でゆったりと弾きます。放っておけばベートーヴェンの音楽を弾くのをやめてユダヤ音楽の嘆き節でも浚いそうな雰囲気ですが、ショルティが要所要所でオーケストラから引き締まった響きを出して、エルマンが脱線しないように、音楽の進む道を舗装しています。快速調のスタイリッシュな演奏を好む向きには支持されませんが、第2楽章の子守歌のようなエルマンの歌い口にはホロリとさせられることでしょう。酸いも甘いも噛み分けたエルマンでこそ出せる味わいです。
ブルッフの作品では、ボールトの伴奏がショルティのように先回りしてエルマンの歩む道を整えるのではなく、エルマンの弾きっぷりを軸にして、その軸が倒れないように支えながら一緒に歩くスタンスを取っているようです。エルマンのオーバー・アクション気味なテンポの揺らしをそのまま引き受けて、その身振りを増幅させているので、ダブダブの服を着た奴さんが千鳥足でふらついているような演奏になっています。その自由自在な弾き崩しの中に、ロマンティシズムの発露を見るか、エルマン衰えたりと断ずるか迷うところですが、グダグダの崩落ギリギリを攻めてくる演奏は中々ありません。じっくりと歌いこむ第2楽章がエルマンの本領でしょうが、第3楽章もスリリングです。

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