1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈ | Camille Saint-Saëns: Symphony No.3 in C minor, op.78 "Organ" |
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Michael Murray (Org.)
Royal Philharmonic Orchestra / Christian Badea
Royal Philharmonic Orchestra / Christian Badea
(Rec. [Orchestra] 4-5 July 1990, Walthamstow Town Hall, London.
[Organ] 13 May 1991, The Philharmonic Center for the Arts, Naples, Florida)
[Organ] 13 May 1991, The Philharmonic Center for the Arts, Naples, Florida)
◈ | Camille Saint-Saëns: Phaéton, op.39 |
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Royal Philharmonic Orchestra / Christian Badea
(Rec. 4-5 July 1990, Walthamstow Town Hall, London)
本CDは、シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835-1921)の交響曲第3番と交響詩《ファエトン》をカップリングしています。
サン=サーンスは、フランスはパリ出身の作曲家です。生前は詩を作ったり、戯曲を書いたり、フランス天文学会の創立メンバーとして火星の研究をしたり、動植物の細胞を調べてチャールズ・ダーウィンの進化論を擁護したり、考古学者として古代ギリシャの壺や壁画を調査したり、哲学書を執筆したり、アフリカ等を旅行するたびに異文化に関するアイテムを収集したり、絵を描いたり…とあらゆる方面で業績を残す教養人でした。生前は各方面から敬せられ、アルジェで亡くなった時には、フランス政府の配慮で国葬で葬儀が行われました。
作曲家としては晩成型ではなく、3歳のころからピアノ小品の作曲をするほどの夙成型です。若手作曲家の登竜門と言われたローマ大賞に1851年と1863年の2回に渡って挑戦し、いずれも落選するという不首尾もありましたが、1852年にパリ音楽協会主催のボルドーの聖セシル教会のための音楽コンクールで《聖セシル頌歌》を出品して優勝を果たしたり、1900年にパリ万国博覧会の応募作としてオラトリオ《天上の火》を書いて100人の応募者の中から選ばれたりと、その作曲技術の熟達は折り紙つきでした。
サン=サーンスの作曲姿勢は時間をかけて大作を仕上げるタイプではなく、湧いて出るアイデアを手際よく纏めるのを得意とするもの。それゆえに大小合わせて160を超える作品を生前に出版しています。彼の尊敬する作曲家はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとフランツ・リストで、特に前者は18世紀ドイツ圏の均整の取れた音楽の象徴として模範でありつづけました。後者は音楽家としての自分を引き立ててくれた大恩人であり、サン=サーンスが伝統的な作法と異なる着想で作曲する際には、リストのことを意識していました。クロード・ドビュッシーなど後続世代が台頭してくると、その語法を研究するという強かさも持っていましたが、原則的に美的判断基準を調性音楽の均整美に定めており、それは終生変わりませんでした。
親しみやすいメロディが愛された割に、その人柄は粗野だったとよく言われています。子供の頃からお世辞に警戒するように母親から躾けられていたこともあって、人から賞賛されてもその言葉を信用せず、また自らもお世辞を言ったり人をほめたりするのを嫌いました。こうした特性に加えて、何をやっても優れた水準で物事をこなせるという特徴があったため、他者に対して自ずと辛辣になりました。音楽評論家としては、その毒舌ぶりが武器になりましたが、それで恨みを買うことも多かったのだとか。
本CDに収録の交響曲第3番は、1885年から翌年にかけて作られた作品。サン=サーンスは1871年に国民音楽協会を創建して自国の作曲家の作品発表の場を作るのに貢献しましたが、この作品を作った頃には、その協会との関係は冷め切っており、完成した年には協会と絶交しています。絶交した直接の要因は、外国人作曲家の作品の上演の是非を巡ってセザール・フランク及びその一派と争い、外国人作曲家の作品の上演に寛容なフランクに協会の総裁の座が移ったことにあります。しかし、潜在的な問題としてサン=サーンス自身も他人の作品を持ち前の毒舌でこき下ろしていたことが挙げられます。この舌禍故に、次第に自分自身が発表した作品が協会員たちから「フランスらしくない」とケチをつけられて反撃されるようになり、協会内で求心力が低下していきました。これが、間接的な原因の一つでしょう。この交響曲が国民音楽協会のための作品ではなく、ロンドンのフィルハーモニー協会の委嘱作として手がけられた点にも、国民音楽協会との恒常的な関係の悪化が絡んでいると想像できます。
作品はフランツ・リストに捧げることにし、サン=サーンスの言に従えば「注ぎ込める力を全て注いだ」作品に仕上げました。この作品は、主に次の二点で伝統的な交響曲の姿と異なっています。第一点は、オーケストラの編成にオルガンを持ち込んだことです。オルガン協奏曲という形でのオーケストラとオルガンの共演はなかったわけではなく、オーケストラ側の予算上の都合で管楽器のパートをオルガンで代用するということも行われていましたが、最初からオルガンを編成に組み込んで交響曲を作るというケースは、このサン=サーンスの作品が嚆矢だといえます。もう一点は、楽曲構成です。交響曲は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらの活躍した時代に、三楽章から四楽章での構成を原則とする多楽章形式の管弦楽曲として普及しました。サン=サーンスも既に四楽章構成の交響曲を2曲出版していました。しかし、この作品では「楽章」という言葉を使わず、「部」(partie)という言葉を使い、作品全体を第一部と第二部に分けて演奏するようにしています。楽曲分析上は、各部がそれぞれオルガンの登場しない前半とオルガンを登場させる後半に分かれており、それぞれの前後半を楽章と見做せば、四楽章構成をとっているとも言えます。ただ、従来の四楽章構成とは違う新たな様式をサン=サーンスなりに模索していたことは窺えます。また、それぞれの部分の主題は、第一部前半に提示された主題を変奏曲のようにして派生させたものを使用しており、こうした派生主題の使用はリストの好んだ方法でもありました。
作品の初演は完成した年の5月19日にロンドンのセント・ジェームズ・ホールで行われ、客受けはよかったものの批評家筋からは「優雅じゃない」とこき下ろされています。また、この曲が初演されたころには、イギリスに滞在中だったリストはバイロイトに向けて出発しており、作品が出版される前にバイロイトで肺炎を起こして急死してしまったので、献辞は「フランツ・リストの思い出に」と書き改められています。作品はイギリスでは大成功とまではいかなかったものの、フランスに持ち帰って演奏した際には熱狂的な反響を呼び、以後フランスの重要な交響曲の一つとしてよく演奏されるようになりました。
交響詩《ファエトン》は、1873年に作られたサン=サーンスの第二作目の交響詩。ギリシャ神話に出てくるパエトンを題材としています。パエトンは太陽神ヘリオス(あるいはアポロン)がエチオピア王妃クリュメネとの間に産んだ子供です。
パエトンはある日、友達に父親が神であることを自慢しましたが、友達からその証拠を見せろと迫られました。そこで母クリュメネに相談のうえ、ヘリオスの宮殿に行きました。ヘリオスは息子を喜んで迎え、パエトンの願いを訊きました。パエトンは父に太陽の馬車を一日貸してほしいと申し入れ、ヘリオスはその願いを叶えてパエトンを馬車に乗せました。パエトンを乗せた馬車は、はじめのうちこそちゃんと走っていましたが、御者がヘリオスでないことに気付いた馬はさっそく暴走し、サハラ砂漠を作るほどの甚大な被害をもたらしました。大地からの苦情を受けたゼウスは馬車に雷を落として馬車を止めましたが、パエトンは地上に墜落して亡くなり、遺骸はエリダノス川に落ちました。クリュメネはパエトンの遺骸を探し求め、パエトンの妹たちは嘆きのあまり気に姿を変えてしまいました。この交響詩では、パエトンがヘリオスから馬車に乗せられてから、ゼウスに撃ち落されて遺骸が川に落下するまでを描いています。
本CDは、クリスティアン・バデア(Christian Badea, 1947-)の指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(Royal Philharmonic Orchestra)による演奏が収録されています。バデアはルーマニアのブカレスト出身の指揮者です。ブカレスト音楽院ではシュテファン・ゲオルギューのクラスでヴァイオリンを専攻しましたが、ベルギーのブリュッセル音楽院で指揮法を習得した後に渡米し、ジュリアード音楽院に留学してレナード・バーンスタインの下で研鑽を積んでいました。オペラの指揮に定評のある指揮者ですが、世界各国のオーケストラに客演してコンサートの指揮も活発に行なっています。
オルガン付きの交響曲では、マイケル・マレイ(Michael Murray, 1943-)が共演しています。マレイはアメリカのインディアナ州ココモに生まれたオルガン奏者で、マルセル・デュプレの薫陶を受けました。1983年からオハイオ州コロンバスの聖マルコ聖公会のオルガン奏者の職にあり、21世紀に入る頃には録音活動から撤退しています。なお、マレイは本CDと同じテラーク・レーベルに、晩年のユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団と行ったこの曲の1980年の録音があります。オーマンディとの録音ではフィラデルフィアの聖フランシス教会でオーケストラと一緒に録音していましたが、このバデア盤は1990年にイギリスのウォルサムストウ・タウン・ホールでオーケストラのパートだけを録音し、1991年にフロリダ州ネイプルズのフィルハーモニック・センター・フォー・ジ・アーツのカサヴァント・フレール社製オルガンで当該のパートを録音し、両方の音源をミキシングしています。使用したオルガンは、マレイがこの曲にふさわしい音のオルガンを探し歩いた末に使用を決めたオルガンです。
バデアの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団は、元気いっぱいでメリハリの効いた演奏です。弾力のあるリズム感で第一部前半からノリの良い演奏を展開し、エンタテイメント性を前面に出しているようです。第二部でも、この調子を崩さず、解釈に一貫性がありますが、第一部後半ではもう少し静謐さが欲しいところ。オルガンの音を後で加えるという編集手法をとっていることもあって、両者が歩み寄って響きを溶け合わせる一体感が不足しています。
第二部のフィナーレは、オーケストラのはっちゃけた響きに合わせて、マレイが豪華絢爛にオルガンを鳴らしています。おそらく、オーケストラの音に合わせて派手目の音のオルガンを選んだのでしょう。聴いている最中は音量的な張り合いに爽快さがありますが、オーマンディとの録音に勝る手応えはありません。交響曲の演奏は、全体的に大味です。
《ファエトン》の演奏は。この曲の模範的な演奏です。歯切れのよい序奏から天馬空を行くような弦楽合奏の溌剌とした弦楽の刻み、さらにその弾みを引き継いだ管楽セクションの息のあったアンサンブルなど、バデアの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団は聴かせどころのツボをしっかり押さえています。パエトンを乗せた太陽の馬車の航路が見えるようなオーケストラの統率の取れた美しい演奏は、この一曲だけでこのオーケストラが世界有数のオーケストラであることの証明になることでしょう。無論、こうした感動を喚起するのに、テラークならではの鮮明な録音も一役買っているのですが。
サン=サーンスは、フランスはパリ出身の作曲家です。生前は詩を作ったり、戯曲を書いたり、フランス天文学会の創立メンバーとして火星の研究をしたり、動植物の細胞を調べてチャールズ・ダーウィンの進化論を擁護したり、考古学者として古代ギリシャの壺や壁画を調査したり、哲学書を執筆したり、アフリカ等を旅行するたびに異文化に関するアイテムを収集したり、絵を描いたり…とあらゆる方面で業績を残す教養人でした。生前は各方面から敬せられ、アルジェで亡くなった時には、フランス政府の配慮で国葬で葬儀が行われました。
作曲家としては晩成型ではなく、3歳のころからピアノ小品の作曲をするほどの夙成型です。若手作曲家の登竜門と言われたローマ大賞に1851年と1863年の2回に渡って挑戦し、いずれも落選するという不首尾もありましたが、1852年にパリ音楽協会主催のボルドーの聖セシル教会のための音楽コンクールで《聖セシル頌歌》を出品して優勝を果たしたり、1900年にパリ万国博覧会の応募作としてオラトリオ《天上の火》を書いて100人の応募者の中から選ばれたりと、その作曲技術の熟達は折り紙つきでした。
サン=サーンスの作曲姿勢は時間をかけて大作を仕上げるタイプではなく、湧いて出るアイデアを手際よく纏めるのを得意とするもの。それゆえに大小合わせて160を超える作品を生前に出版しています。彼の尊敬する作曲家はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとフランツ・リストで、特に前者は18世紀ドイツ圏の均整の取れた音楽の象徴として模範でありつづけました。後者は音楽家としての自分を引き立ててくれた大恩人であり、サン=サーンスが伝統的な作法と異なる着想で作曲する際には、リストのことを意識していました。クロード・ドビュッシーなど後続世代が台頭してくると、その語法を研究するという強かさも持っていましたが、原則的に美的判断基準を調性音楽の均整美に定めており、それは終生変わりませんでした。
親しみやすいメロディが愛された割に、その人柄は粗野だったとよく言われています。子供の頃からお世辞に警戒するように母親から躾けられていたこともあって、人から賞賛されてもその言葉を信用せず、また自らもお世辞を言ったり人をほめたりするのを嫌いました。こうした特性に加えて、何をやっても優れた水準で物事をこなせるという特徴があったため、他者に対して自ずと辛辣になりました。音楽評論家としては、その毒舌ぶりが武器になりましたが、それで恨みを買うことも多かったのだとか。
本CDに収録の交響曲第3番は、1885年から翌年にかけて作られた作品。サン=サーンスは1871年に国民音楽協会を創建して自国の作曲家の作品発表の場を作るのに貢献しましたが、この作品を作った頃には、その協会との関係は冷め切っており、完成した年には協会と絶交しています。絶交した直接の要因は、外国人作曲家の作品の上演の是非を巡ってセザール・フランク及びその一派と争い、外国人作曲家の作品の上演に寛容なフランクに協会の総裁の座が移ったことにあります。しかし、潜在的な問題としてサン=サーンス自身も他人の作品を持ち前の毒舌でこき下ろしていたことが挙げられます。この舌禍故に、次第に自分自身が発表した作品が協会員たちから「フランスらしくない」とケチをつけられて反撃されるようになり、協会内で求心力が低下していきました。これが、間接的な原因の一つでしょう。この交響曲が国民音楽協会のための作品ではなく、ロンドンのフィルハーモニー協会の委嘱作として手がけられた点にも、国民音楽協会との恒常的な関係の悪化が絡んでいると想像できます。
作品はフランツ・リストに捧げることにし、サン=サーンスの言に従えば「注ぎ込める力を全て注いだ」作品に仕上げました。この作品は、主に次の二点で伝統的な交響曲の姿と異なっています。第一点は、オーケストラの編成にオルガンを持ち込んだことです。オルガン協奏曲という形でのオーケストラとオルガンの共演はなかったわけではなく、オーケストラ側の予算上の都合で管楽器のパートをオルガンで代用するということも行われていましたが、最初からオルガンを編成に組み込んで交響曲を作るというケースは、このサン=サーンスの作品が嚆矢だといえます。もう一点は、楽曲構成です。交響曲は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらの活躍した時代に、三楽章から四楽章での構成を原則とする多楽章形式の管弦楽曲として普及しました。サン=サーンスも既に四楽章構成の交響曲を2曲出版していました。しかし、この作品では「楽章」という言葉を使わず、「部」(partie)という言葉を使い、作品全体を第一部と第二部に分けて演奏するようにしています。楽曲分析上は、各部がそれぞれオルガンの登場しない前半とオルガンを登場させる後半に分かれており、それぞれの前後半を楽章と見做せば、四楽章構成をとっているとも言えます。ただ、従来の四楽章構成とは違う新たな様式をサン=サーンスなりに模索していたことは窺えます。また、それぞれの部分の主題は、第一部前半に提示された主題を変奏曲のようにして派生させたものを使用しており、こうした派生主題の使用はリストの好んだ方法でもありました。
作品の初演は完成した年の5月19日にロンドンのセント・ジェームズ・ホールで行われ、客受けはよかったものの批評家筋からは「優雅じゃない」とこき下ろされています。また、この曲が初演されたころには、イギリスに滞在中だったリストはバイロイトに向けて出発しており、作品が出版される前にバイロイトで肺炎を起こして急死してしまったので、献辞は「フランツ・リストの思い出に」と書き改められています。作品はイギリスでは大成功とまではいかなかったものの、フランスに持ち帰って演奏した際には熱狂的な反響を呼び、以後フランスの重要な交響曲の一つとしてよく演奏されるようになりました。
交響詩《ファエトン》は、1873年に作られたサン=サーンスの第二作目の交響詩。ギリシャ神話に出てくるパエトンを題材としています。パエトンは太陽神ヘリオス(あるいはアポロン)がエチオピア王妃クリュメネとの間に産んだ子供です。
パエトンはある日、友達に父親が神であることを自慢しましたが、友達からその証拠を見せろと迫られました。そこで母クリュメネに相談のうえ、ヘリオスの宮殿に行きました。ヘリオスは息子を喜んで迎え、パエトンの願いを訊きました。パエトンは父に太陽の馬車を一日貸してほしいと申し入れ、ヘリオスはその願いを叶えてパエトンを馬車に乗せました。パエトンを乗せた馬車は、はじめのうちこそちゃんと走っていましたが、御者がヘリオスでないことに気付いた馬はさっそく暴走し、サハラ砂漠を作るほどの甚大な被害をもたらしました。大地からの苦情を受けたゼウスは馬車に雷を落として馬車を止めましたが、パエトンは地上に墜落して亡くなり、遺骸はエリダノス川に落ちました。クリュメネはパエトンの遺骸を探し求め、パエトンの妹たちは嘆きのあまり気に姿を変えてしまいました。この交響詩では、パエトンがヘリオスから馬車に乗せられてから、ゼウスに撃ち落されて遺骸が川に落下するまでを描いています。
本CDは、クリスティアン・バデア(Christian Badea, 1947-)の指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(Royal Philharmonic Orchestra)による演奏が収録されています。バデアはルーマニアのブカレスト出身の指揮者です。ブカレスト音楽院ではシュテファン・ゲオルギューのクラスでヴァイオリンを専攻しましたが、ベルギーのブリュッセル音楽院で指揮法を習得した後に渡米し、ジュリアード音楽院に留学してレナード・バーンスタインの下で研鑽を積んでいました。オペラの指揮に定評のある指揮者ですが、世界各国のオーケストラに客演してコンサートの指揮も活発に行なっています。
オルガン付きの交響曲では、マイケル・マレイ(Michael Murray, 1943-)が共演しています。マレイはアメリカのインディアナ州ココモに生まれたオルガン奏者で、マルセル・デュプレの薫陶を受けました。1983年からオハイオ州コロンバスの聖マルコ聖公会のオルガン奏者の職にあり、21世紀に入る頃には録音活動から撤退しています。なお、マレイは本CDと同じテラーク・レーベルに、晩年のユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団と行ったこの曲の1980年の録音があります。オーマンディとの録音ではフィラデルフィアの聖フランシス教会でオーケストラと一緒に録音していましたが、このバデア盤は1990年にイギリスのウォルサムストウ・タウン・ホールでオーケストラのパートだけを録音し、1991年にフロリダ州ネイプルズのフィルハーモニック・センター・フォー・ジ・アーツのカサヴァント・フレール社製オルガンで当該のパートを録音し、両方の音源をミキシングしています。使用したオルガンは、マレイがこの曲にふさわしい音のオルガンを探し歩いた末に使用を決めたオルガンです。
バデアの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団は、元気いっぱいでメリハリの効いた演奏です。弾力のあるリズム感で第一部前半からノリの良い演奏を展開し、エンタテイメント性を前面に出しているようです。第二部でも、この調子を崩さず、解釈に一貫性がありますが、第一部後半ではもう少し静謐さが欲しいところ。オルガンの音を後で加えるという編集手法をとっていることもあって、両者が歩み寄って響きを溶け合わせる一体感が不足しています。
第二部のフィナーレは、オーケストラのはっちゃけた響きに合わせて、マレイが豪華絢爛にオルガンを鳴らしています。おそらく、オーケストラの音に合わせて派手目の音のオルガンを選んだのでしょう。聴いている最中は音量的な張り合いに爽快さがありますが、オーマンディとの録音に勝る手応えはありません。交響曲の演奏は、全体的に大味です。
《ファエトン》の演奏は。この曲の模範的な演奏です。歯切れのよい序奏から天馬空を行くような弦楽合奏の溌剌とした弦楽の刻み、さらにその弾みを引き継いだ管楽セクションの息のあったアンサンブルなど、バデアの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団は聴かせどころのツボをしっかり押さえています。パエトンを乗せた太陽の馬車の航路が見えるようなオーケストラの統率の取れた美しい演奏は、この一曲だけでこのオーケストラが世界有数のオーケストラであることの証明になることでしょう。無論、こうした感動を喚起するのに、テラークならではの鮮明な録音も一役買っているのですが。
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