1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
◈ | Johannes Brahms: Clarinet Quintet in B minor, op.115 |
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Frederick Thurston (Cl.)
Griller String Quartet
Griller String Quartet
{Sidney Griller (1st Vn.), Jack O'Brien (2nd Vn.),
Philip Burton (Vla.), Colin Hampton (Vc.)}
Philip Burton (Vla.), Colin Hampton (Vc.)}
(Rec. 15 May 1941, Decca Studios, London)
◈ | Arthur Bliss: Clarinet Quintet |
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Frederick Thurston (Cl.)
Griller String Quartet
Griller String Quartet
{Sidney Griller (1st Vn.), Jack O'Brien (2nd Vn.),
Philip Burton (Vla), Colin Hampton (Vc.)}
Philip Burton (Vla), Colin Hampton (Vc.)}
(Rec. 29 & 30 August 1935 Decca Studios, London)
◈ | Johannes Brahms: Clarinet Sonata No.2 in E-flat major, op.120-2 |
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Frederick Thurston (Cl.)
Myers Foggin (Pf.)
Myers Foggin (Pf.)
(Rec. 20 April 1937, Decca Studios, London)
フレデリック・サーストン(Frederick Thurston, 1901-1953)は、イギリスのリッチフィールド出身のクラリネット奏者です。チャールズ・ドレイパーの門下で、トマス・ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団に参加したり、コヴェントガーデン王立歌劇場のオーケストラの首席奏者を務めたりしていました。また、BBC交響楽団の旗揚げ時にも首席奏者として参加し、チャールズ・スタンフォードやジェラルド・フィンジといったイギリスの作曲家のクラリネット協奏曲を初演しています。また、アーノルド・バックス、ジョン・アイアランド、ハーバート・ハウエルズといったイギリス人作曲家からこぞってクラリネット曲を献呈されるなど、サーストンの名はイギリス音楽界でもよく知られていました。1930年からロンドン王立音楽大学でクラリネットを教え、最晩年には弟子のシア・キングと結婚しましたが、ロンドンで肺癌のために亡くなっています。
本CDは、そんなサーストンの録音の中から、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)とアーサー・ブリス(Arthur Bliss, 1891-1975)のクラリネット五重奏曲を収めています。どちらもクラリネットと弦楽四重奏のための作品なので、グリラー弦楽四重奏団(Griller String Quartet)が共演しています。グリラー弦楽四重奏団はシドニー・グリラー(Sidney Griller, 1911-1993)、ジャック・オブライエン(Jack O'Brien, 1909-?)、フィリップ・バートン(Philip Burton, 1907-1961)とコリン・ハンプトン(Colin Hampton, 1911-1996)の4人で1928年に結成した弦楽四重奏団です。4人はロンドン王立音楽院の学生だった頃にヴィオラ奏者のライオネル・ターティスの室内楽講座を受講し、そのターティスの勧めで弦楽四重奏団を結成しました。精神的に不安定だったヴィオラ奏者のバートンがバークリーで自殺してしまったため、後任のヴィオラ奏者を置かずに解散してしまいましたが、グリラーは1964年から母校の王立音楽院の室内楽科の教授として後進を指導し、フィッツウィリアム弦楽四重奏団やリンジーズ等を育てました。
ブラームスのクラリネット五重奏曲は、リヒャルト・ミュールフェルトというクラリネット奏者のために作ったクラリネットと弦楽四重奏のための作品。ミュールフェルトは、マイニンゲン宮廷管弦楽団の首席奏者として、1881年頃からブラームスと面識を持つようになりましたが、ブラームスがミュールフェルトに注目し始めたのは、1891年になってからのことです。1891年春にミュールフェルトがルイ・シュポアやカール・マリア・フォン・ウェーバーのクラリネット曲を演奏するのを聴いたブラームスは、作曲から手を引くという決心を翻し、避暑地のバート・イシュルでクラリネット三重奏曲と一緒にこのクラリネット五重奏曲を作りました。バート・イシュルで制作された2曲は、1891年11月24日にマイニンゲン公の邸宅で揃ってミュールフェルトのクラリネットで試演され、その年の12月12日にベルリンのジングアカデミーで改めて公開初演されて成功を収めました。ブラームスはミュールフェルトのために4作の室内楽曲を手掛けました。その一つとして、1891年に避暑地のバート・イシュルで完成した作品が、クラリネット三重奏曲と、このクラリネット五重奏曲でした。2作揃って完成した年の11月24日にはマイニンゲン公の邸宅でミュールフェルトと、ヨーゼフ・ヨアヒムとマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽師たちによって試演されて好評を博し、クラリネット五重奏曲は12月10日にベルリンのジングアカデミーで一般公開されて成功を収めました。 作品は四楽章構成で、急-緩-急の「緩」の後に間奏曲を挟む構成。終楽章は変奏曲。弦楽四重奏の織り成す叙情的世界に一本のクラリネットがスッと立ち、寂寥感を漂わせているような作品で、ブラームスの作品の中でもとりわけ愛好されている作品です。
ブリスのクラリネット五重奏曲は1931年の作品で、ブラームスのそれと同じ四楽章構成。この作品はオランダ人作曲家のベルナルト・ファン・デーレンに献呈され、1932年12月19日にロンドンの自宅でサーストンのクラリネットとクッチャー弦楽四重奏団により試演が行われました。公開初演は1933年2月17日にヴィグモア・ホールで行われました。
ブリスはロンドンのバーンズ区で生まれた作曲家で、母親はイギリス人でしたが父親がアメリカ人だったとのこと。王立音楽大学でチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの薫陶を受けましたが、第一次世界大戦で召集され、作曲活動を始めたのは復員後のことです。最初はクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキーに触発された作品を書き、共感覚を模索した《色彩交響曲》(1922年作)などを作っていますが、次第にイギリスの風土に根差した作品を書くようになりました。1953年からイギリス女王の音楽師範に任命され、1975年にロンドンで亡くなりました。
閑話休題、ブリスのクラリネット五重奏曲は、ブラームスの同作品と同じ四楽章構成ながら、構成のコンセプトはブラームスのそれとは異なります。大きく異なるのは、「緩」の部分が第三楽章に置かれ、終楽章の力強さとコントラストを形作っている点。また、第一楽章冒頭はクラリネットの独白に始まり、そこにヴィオラが絡みつきます。調和を前提としたブラームスの作品よりも各奏者のトリッキーな動きが多く、カール・マリア・フォン・ウェーバーのクラリネット五重奏曲を想起させる華やぎもあります。ただ、ウェーバーよりも和声的には捻りが加わり、ウェーバーのようにクラリネットが映えることを意識している風でもありません。クラリネットと弦楽器の4人がが喧々囂々と意見を交わしながら、調和を目指しているところに、ブラームス作品へのまなざしをこじつけることが出来るでしょう。
演奏について、ブラームス作品では、ドイツ系の音楽家たちの演奏に比べて、やや重厚さに欠ける向きはありますが、しっとりとした弦楽四重奏を足場にして飄々ととしたサーストンのクラリネットの音が響き渡ります。第一楽章など、もう少しクラリネットと弦楽四重奏の拮抗する様を聴きたい向きもありましょうが、冷静で物分かりの良い演奏だと、こちらも感情移入することなく客観的に音楽を眺めることが出来ようというものです。情感よりも構造重視の音楽で飽きさせないのは、5人が精緻なアンサンブルを実現しているからでしょう。
ブリスの作品も、サーストンは余り大げさな身振りをせず、淡々と演奏している風でありながら、作曲者の書いたトリッキーな音形を吹くうちに、段々とエキサイトしています。グリラー弦楽四重奏団の面々も、ブリスの調和を目指した試行錯誤に段々夢中になり、熱のこもった演奏に仕上がっています。興に乗ったアンサンブルを楽しむならば、ブリス作品の演奏が面白いですね。
余白には、サーストンとマイヤーズ・フォギン(Myers Foggin, 1908-1986)によるブラームスのクラリネット・ソナタ第2番が収録されています。ブラームスのこの作品も1894年にミュールフェルトのために作ったもの。ブラームスは弦楽器の音も愛していたため、ヴィオラでも演奏可能なように編曲したものを作りました。
フォギンがニューカッスル・アポン・タイン出身のイギリスのピアノ奏者で、オペラの指揮者でもあります。ロンドン王立音楽院の卒業生で、1936年から母校でピアノを教えていました。サーストンとは、同じ音楽院の同僚ということで、こうした録音が生まれたのでしょう。1948年からオペラの講座を受け持ち、1965年まで在職しました。
フォギンのピアノが録音の都合なのか、少々軽い気もするのですが、ヴィブラートの少ないサーストンのクラリネットと合わさることで、能天気でゴキゲンな音楽になっています。
サーストンは、1941年に第1番のソナタも録音していたようですが、そちらも復刻してほしいですね。
本CDは、そんなサーストンの録音の中から、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)とアーサー・ブリス(Arthur Bliss, 1891-1975)のクラリネット五重奏曲を収めています。どちらもクラリネットと弦楽四重奏のための作品なので、グリラー弦楽四重奏団(Griller String Quartet)が共演しています。グリラー弦楽四重奏団はシドニー・グリラー(Sidney Griller, 1911-1993)、ジャック・オブライエン(Jack O'Brien, 1909-?)、フィリップ・バートン(Philip Burton, 1907-1961)とコリン・ハンプトン(Colin Hampton, 1911-1996)の4人で1928年に結成した弦楽四重奏団です。4人はロンドン王立音楽院の学生だった頃にヴィオラ奏者のライオネル・ターティスの室内楽講座を受講し、そのターティスの勧めで弦楽四重奏団を結成しました。精神的に不安定だったヴィオラ奏者のバートンがバークリーで自殺してしまったため、後任のヴィオラ奏者を置かずに解散してしまいましたが、グリラーは1964年から母校の王立音楽院の室内楽科の教授として後進を指導し、フィッツウィリアム弦楽四重奏団やリンジーズ等を育てました。
ブラームスのクラリネット五重奏曲は、リヒャルト・ミュールフェルトというクラリネット奏者のために作ったクラリネットと弦楽四重奏のための作品。ミュールフェルトは、マイニンゲン宮廷管弦楽団の首席奏者として、1881年頃からブラームスと面識を持つようになりましたが、ブラームスがミュールフェルトに注目し始めたのは、1891年になってからのことです。1891年春にミュールフェルトがルイ・シュポアやカール・マリア・フォン・ウェーバーのクラリネット曲を演奏するのを聴いたブラームスは、作曲から手を引くという決心を翻し、避暑地のバート・イシュルでクラリネット三重奏曲と一緒にこのクラリネット五重奏曲を作りました。バート・イシュルで制作された2曲は、1891年11月24日にマイニンゲン公の邸宅で揃ってミュールフェルトのクラリネットで試演され、その年の12月12日にベルリンのジングアカデミーで改めて公開初演されて成功を収めました。ブラームスはミュールフェルトのために4作の室内楽曲を手掛けました。その一つとして、1891年に避暑地のバート・イシュルで完成した作品が、クラリネット三重奏曲と、このクラリネット五重奏曲でした。2作揃って完成した年の11月24日にはマイニンゲン公の邸宅でミュールフェルトと、ヨーゼフ・ヨアヒムとマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽師たちによって試演されて好評を博し、クラリネット五重奏曲は12月10日にベルリンのジングアカデミーで一般公開されて成功を収めました。 作品は四楽章構成で、急-緩-急の「緩」の後に間奏曲を挟む構成。終楽章は変奏曲。弦楽四重奏の織り成す叙情的世界に一本のクラリネットがスッと立ち、寂寥感を漂わせているような作品で、ブラームスの作品の中でもとりわけ愛好されている作品です。
ブリスのクラリネット五重奏曲は1931年の作品で、ブラームスのそれと同じ四楽章構成。この作品はオランダ人作曲家のベルナルト・ファン・デーレンに献呈され、1932年12月19日にロンドンの自宅でサーストンのクラリネットとクッチャー弦楽四重奏団により試演が行われました。公開初演は1933年2月17日にヴィグモア・ホールで行われました。
ブリスはロンドンのバーンズ区で生まれた作曲家で、母親はイギリス人でしたが父親がアメリカ人だったとのこと。王立音楽大学でチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの薫陶を受けましたが、第一次世界大戦で召集され、作曲活動を始めたのは復員後のことです。最初はクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキーに触発された作品を書き、共感覚を模索した《色彩交響曲》(1922年作)などを作っていますが、次第にイギリスの風土に根差した作品を書くようになりました。1953年からイギリス女王の音楽師範に任命され、1975年にロンドンで亡くなりました。
閑話休題、ブリスのクラリネット五重奏曲は、ブラームスの同作品と同じ四楽章構成ながら、構成のコンセプトはブラームスのそれとは異なります。大きく異なるのは、「緩」の部分が第三楽章に置かれ、終楽章の力強さとコントラストを形作っている点。また、第一楽章冒頭はクラリネットの独白に始まり、そこにヴィオラが絡みつきます。調和を前提としたブラームスの作品よりも各奏者のトリッキーな動きが多く、カール・マリア・フォン・ウェーバーのクラリネット五重奏曲を想起させる華やぎもあります。ただ、ウェーバーよりも和声的には捻りが加わり、ウェーバーのようにクラリネットが映えることを意識している風でもありません。クラリネットと弦楽器の4人がが喧々囂々と意見を交わしながら、調和を目指しているところに、ブラームス作品へのまなざしをこじつけることが出来るでしょう。
演奏について、ブラームス作品では、ドイツ系の音楽家たちの演奏に比べて、やや重厚さに欠ける向きはありますが、しっとりとした弦楽四重奏を足場にして飄々ととしたサーストンのクラリネットの音が響き渡ります。第一楽章など、もう少しクラリネットと弦楽四重奏の拮抗する様を聴きたい向きもありましょうが、冷静で物分かりの良い演奏だと、こちらも感情移入することなく客観的に音楽を眺めることが出来ようというものです。情感よりも構造重視の音楽で飽きさせないのは、5人が精緻なアンサンブルを実現しているからでしょう。
ブリスの作品も、サーストンは余り大げさな身振りをせず、淡々と演奏している風でありながら、作曲者の書いたトリッキーな音形を吹くうちに、段々とエキサイトしています。グリラー弦楽四重奏団の面々も、ブリスの調和を目指した試行錯誤に段々夢中になり、熱のこもった演奏に仕上がっています。興に乗ったアンサンブルを楽しむならば、ブリス作品の演奏が面白いですね。
余白には、サーストンとマイヤーズ・フォギン(Myers Foggin, 1908-1986)によるブラームスのクラリネット・ソナタ第2番が収録されています。ブラームスのこの作品も1894年にミュールフェルトのために作ったもの。ブラームスは弦楽器の音も愛していたため、ヴィオラでも演奏可能なように編曲したものを作りました。
フォギンがニューカッスル・アポン・タイン出身のイギリスのピアノ奏者で、オペラの指揮者でもあります。ロンドン王立音楽院の卒業生で、1936年から母校でピアノを教えていました。サーストンとは、同じ音楽院の同僚ということで、こうした録音が生まれたのでしょう。1948年からオペラの講座を受け持ち、1965年まで在職しました。
フォギンのピアノが録音の都合なのか、少々軽い気もするのですが、ヴィブラートの少ないサーストンのクラリネットと合わさることで、能天気でゴキゲンな音楽になっています。
サーストンは、1941年に第1番のソナタも録音していたようですが、そちらも復刻してほしいですね。
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