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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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CD1:
◈Anton Bruckner: Symphony No.0 in D minor
USSR Ministry of Culture Symphony Orchestra / Gennadi Rozhestvensky
(Rec. 1983)

CD2:
◈Anton Bruckner: Symphony No.1 in D minor
RIAS Orchestra / Georg Ludwig Jochum
(Rec. 3-4 February 1956)

CD3:
◈Anton Bruckner: Symphony No.2 in C minor
Linz Bruckner Orchestra / Georg Ludwig Jochum
(Rec. 5-7 September 1944)

CD4:
◈Anton Bruckner: Symphony No.3 in D minor
Bavarian State Orchestra / Hans Knappertsbusch
(Rec. 11 October 1954)

CD5:
◈Anton Bruckner: Symphony No.4 in E flat major
Saechsische Staatskapelle / Karl Böhm
(Rec. 9 June 1936)

CD6:
◈Anton Bruckner: Symphony No.5 in B flat major
Leipzig Radio Symphony Orchestra / Hermann Abendroth
(Rec. 27 May 1949)

CD7:
◈Anton Bruckner: Symphony No.6 in A major
Vienna Festival Orchestra / Hans Swarowsky
(Rec. 1950s)

CD8:
◈Anton Bruckner: Symphony No.7 in E major
Berlin Philharmonic Orchestra / Carl Schuricht
(Rec. 26, 28 February, & 1, 3, 10 May 1938)

CD9:
◈Anton Bruckner: Symphony No.8 in C minor
Berlin Philharmonic Orchestra / Wilhelm Furtwängler
(Rec. 14 March 1949)

CD10:
◈Anton Bruckner: Symphony No.9 in D minor
Berlin Municipal Orchestra / Carl Schuricht
(Rec. 13-14 July 1943)



オーストリアの作曲家、アントン・ブルックナー(Anton Bruckner, 1824-1896)の交響曲の歴史的録音集。
ほぼ、ドイツ&オーストリア圏の指揮者の録音をざっくばらんに集めたという感じで、名前やオーケストラ名のクレジットがおかしいものも散見されます。例えば、第1番の録音は、ドイツ人指揮者のハロルド・バーンズの名前がクレジットされていたり、交響曲第3番のオーケストラがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団になっていたりします。また、詳しい録音時期の記載がありませんが、そのほとんどがモノラル録音です。

例外的なのが、第0番の交響曲の録音。旧ソ連出身のゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(Gennadi Rozhestvensky, 1939-)の指揮するソヴィエト国立文化省交響楽団による1983年頃の録音で、これのみがステレオ録音となります。ロジェストヴェンスキーは、父親のニコライ・アノーソフから指揮法を学んだ人で、20歳でボリショイ劇場でデビューを飾っています。22歳でアレクサンドル・ガウクの後任としてモスクワ放送交響楽団の首席指揮者に抜擢されるほどに若い頃から抜きん出た才能を持っており、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団やBBC交響楽団、ウィーン交響楽団等、ソ連国外のオーケストラの首席指揮者や音楽監督の座を次々と射止めて、国際的な活躍をしました。
ソヴィエト国立文化省交響楽団は、そんなロジェストヴェンスキーが国外亡命しないように、政治当局が用意したオーケストラです。このオーケストラは、1957年にサミュエル・サモスードが設立した全ソヴィエト放送オペラ交響楽団を母体とし、ロジェストヴェンスキーが首席指揮者に就任する時に文化省によって再編されたのだとか。ソ連が解体した今日では、ヴァレリー・ポリャンスキーの下でロシア国立シンフォニック・カペレ(時々「ロシア国立交響楽団」名義を使いますが、エフゲニー・スヴェトラーノフの関わったオーケストラではありません)として合唱団を併設して頑張っています。
本CDで演奏するこの交響曲第0番は、レオポルト・ノヴァーク(Leopold Nowak, 1904-1991)の校訂版で、ノヴァークは1863年から1865年頃に着想され、1869年に完成された習作と位置付けています。最近は1869年に交響曲第1番の続編として作曲され、出来栄えに疑問を持った作曲者が発表を取りやめたものと考えられるようになっています。なにはともあれ、作品の初演は、1924年の10月12日にクロスターノイブルクでフランツ・モイスルの指揮で行われました。
ロジェストヴェンスキーの演奏は、ブルックナーの弟子だったグスタフ・マーラーの作品に近いアプローチで、金管セクションが突出して目立つ傾向。俗っぽさはあるものの、雄弁でドラマティックであり、特に第1楽章はトランペットの強奏が華麗で面白い演奏です。第2楽章は、弦楽セクションが磨きあげられているものの、木管合奏が今一つ溶け合わず、作品の美しさを表現しきれていません。第3楽章は、第1楽章と同傾向のサウンドながら、ノリの良さで響きのブレンドの生硬さをカバーしています。第4楽章は、功を焦ったか、ノリの良さを通り越して暴走気味。全体的に、ブルックナーの作品の朴訥な印象をカラフルに塗り替えようとした野心的な演奏といえるでしょう。

交響曲第1番は1868年に一応完成された作品で、その後1877年、1884年、1890年から翌年にかけての3回に分けてブルックナー自身の手で改訂しています。本CDに収録しているのは、1877年までの改訂を基にしたロベルト・ハース(Robert Haas, 1886-1960)による校訂版(通称「リンツ稿」)による演奏です。
演奏はゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフム(Georg Ludwig Jochum 1909-1970)の指揮するRIAS交響楽団(現:ベルリン・ドイツ交響楽団)による演奏。RIASは、西ドイツのアメリカ軍占領地区放送局(Rundfunk im amerikanischen Sektor)のこと。第二次世界大戦後の1946年にフェレンツ・フリッチャイを首席指揮者にして創設されたRIAS交響楽団は、1956年からベルリン放送交響楽団として活動し、母体の放送局の統廃合で1993年に今日の名称に変更しています。
指揮をするヨッフムは、オイゲン・ヨッフムの弟として知られたドイツの指揮者。ミュンヘン音楽院でヨゼフ・ペンバウアー、ジークムント・フォン・ハウゼッガーとジョセフ・ハースの薫陶を受け、23歳でミュンスター市の音楽監督を務めています。第二次世界大戦後はデュイスブルク交響楽団の首席指揮者を務めながらRIAS交響楽団やバンベルク交響楽団等を支え、北欧諸国にも客演しています。
ハウゼッガー門下ということで、兄と肩を並べるブルックナーの作品解釈の大家だったヨッフムですが、悠然たる兄の芸風とは違い、テキパキとした実務タイプの演奏を繰り広げています。ベルリン放送交響楽団に名称変更する前のRIAS交響楽団も比較的あっさりしていて、第3楽章まではそつのない演奏です。ヨッフムは第4楽章を作品の重点と見做しているのか、この楽章は比較的オーケストラを煽りたて、ダイナミックな仕上がりにしています。

第2番の交響曲は1872年に完成された作品。1877年に改訂した後、1892年までに再改訂して出版していますが、この1892年の出版譜は弟子たちの勝手な見解が混じっているとのことで、ハースが校訂しています。ハースは最初に完成された時のブルックナーの見解と1877年の改訂時のブルックナーの見解を織り交ぜて独自の校訂版を作り上げ、ノヴァークによる再校訂が為されるまで、これが決定版とされていました。本録音もハース版で録音しています。
本CDは第1番に引き続きヨッフムの指揮で録音されています。ただし、オーケストラはリンツ・ブルックナー管弦楽団です。このオーケストラは、今日の同名のオーケストラとは出自の違うオーケストラでした。ナチスの文化政策の一環として、リンツ歌劇場のオーケストラからドイツ人奏者を引き抜き、ドイツ人演奏家を補充し、アーリア人による世界最高のオーケストラを目指すという名目で、本CDで指揮をするヨッフムを首席指揮者に立てて1943年に発足したオーケストラです。ナチス政権の崩壊と共に、団員が散り散りになって崩壊してしまいました。
そんなわけで、この録音は、ナチス時代の国策オーケストラの貴重な録音の一つということになります。このリンツ・ブルックナー管弦楽団は、ブルックナーゆかりのザンクト・フローリアン修道院を活動の本拠に定めていたので、録音の残響の多さは聖堂での演奏で生じた残響ではないかと推測します。第1楽章や第4楽章の冒頭こそ録音の加減ゆえか頼りない響きですが、音楽が進むにつれてぐんぐん求心力を増していく点に興味深さを覚える演奏です。第3楽章の一心不乱な演奏は凄絶で、技術的論難を寄せ付けない気迫がこもっています。第2楽章などは祈るというよりも縋るような没頭ぶりを示しており、RIAS交響楽団との交響曲第1番以上に実の詰まった演奏です。

第3番の交響曲は1873年に一応完成した作品。リヒャルト・ヴァーグナーへの傾倒を深めていたブルックナーは、前作の第2番とこの作品をヴァーグナーに見せ、好きな方を献呈するように申し入れたそうです。ブルックナーに応対したヴァーグナー夫人のコージマはブルックナーを物乞いと勘違いし、ヴァーグナーがブルックナーの置いていった交響曲の譜面を見て「君こそベートーヴェンの後継者だ!」と激賞し、この作品の献呈を受け入れました。この時、ヴァーグナーとブルックナーは二人で飲み明かし、酔ったブルックナーが献呈する交響曲を失念し、「献呈を受け入れてくださったのは、トランペットで主題を提示するほうの曲でしょうか?」と便箋に書きとめてヴァーグナーに問い合わせたそうです。ヴァーグナーはすぐに「その通り!その通り!」と書いてブルックナーに返し、しばらくはそのエピソードでヴァーグナーに覚えられることとなりました。
この曲は、1875年にヨハン・ヘルベックの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が初演する段取りが勧められましたが、オーケストラが曲を気に入らず、ブルックナーに演奏不可能として楽譜を送り返してしまいました。ブルックナーは作品への自信をなくし、1876年から翌年まで作品の改訂を施し、さらに1878年に作品の出版が決まると、万全を期すべくまた改訂を重ねています。また、1888年から翌年にかけて更なる改訂を施し、1890年になって漸くハンス・リヒターの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による初演が断行されました。この1889年に完成された改訂版はヨーゼフ(Joseph Schalk, 1856-1900)とフランツ(Franz Schalk, 1863-1931)のシャルク兄弟が改訂作業に加わっており、本録音では、このシャルク兄弟の参加した改訂版が用いられています。この録音で指揮をするのは、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888-1965)で、オーケストラはバイエルン国立管弦楽団です。クナッパーツブッシュはフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学んだエルバーフェルト生まれのドイツの指揮者です。ハンス・リヒターのアシスタントを経てドイツ各地の歌劇場で鍛錬を積み、1922年からバイエルン国立歌劇場の音楽に就任しています。ただ、ナチス政権とは微妙な距離をとり、第二次世界大戦中はウィーン国立歌劇場を本拠に演奏活動を展開していました。バイロイト音楽祭の常連指揮者でもあり、戦後もドイツ各地のオーケストラへの客演を通してドイツ音楽界の重鎮として影響力を持っていました。
本録音は、クナッパーツブッシュの面目躍如といった感じの演奏で、自由にテンポを揺らしながらも、音楽を破綻させない当意即妙の至芸。録音のまずさを含めても、底知れぬ壮大さを感じさせます。

第4番の交響曲は「ロマンティック」という標題がつけられています。1874年に完成されたこの作品は、特に何度も改訂を施しています。最初の改訂は1877年から翌年にかけての改訂。さらに1880年に第4楽章に手を加えています。1886年にもアントン・ザイドルがニューヨークでの演奏会で取り上げる際にわずかに手を加えていますが、最後の1887年から翌年にかけての改訂では弟子たちの手で改訂されており、作曲者もその改訂に同意したかどうか定かではない点で問題視されています。本CDに収録されている録音では、ハースが校訂した1877年から翌年にかけての改訂と1880年に手を加えられた第4楽章の版です。
演奏はカール・ベーム(Karl Böhm, 1894-1981)の指揮するザクセン・シュターツカペレ(現:ドレスデン・シュターツカペレ)によるもの。ベームはグラーツ大学で法学を学ぶ傍らでオイゼビウス・マンディチェフスキの薫陶を受け、1917年にグラーツ市立歌劇場で指揮者デビューを果たしています。程なくしてブルーノ・ヴァルターの知己を得てバイエルン国立歌劇場の指揮者陣に加わり、1927年にはダルムシュタット市立歌劇場の音楽監督に転出したあと1931年にバイエルン国立歌劇場に音楽監督として返り咲いています。1934年にザクセン国立歌劇場(現:ドレスデン国立歌劇場)の総監督に就任し、第二次世界大戦中はウィーン国立歌劇場の総監督として活躍しました。
ベームの演奏は、芝居っ気なしの武骨なもの。第1楽章は素直なアプローチで、あまり音楽を膨らませようという気は感じられません。第2楽章から第3楽章も淡々としています。第4楽章になって急に色気を出してくるのが不思議な感じで、ポルタメントのかけ方がやや古風に聴こえます。

第5番の交響曲は1875年から1878年にかけて作曲された作品。弟子のF.シャルクによる改訂版で1894年に初演されていますが、ハースの手で弟子による改訂が施される前の版が掘り起こされ、今日ではハース版(ノヴァーク版も大差なし)で演奏されています。この録音もハース版に準拠しています。
本録音はヘルマン・アーベントロート(Hermann Abendroth, 1883-1956)の指揮するライプツィヒ放送交響楽団(現:MDR交響楽団)によるもの。アーベントロートはミュンヘン音楽院でルートヴィヒ・トゥイレに作曲を、アンナ・ヒルツェル=ランゲンハンにピアノを、フェリックス・モットルに指揮法を学んだドイツの指揮者です。1902年頃からミュンヘンで指揮活動をはじめ、1905年にリューベックの楽友協会のオーケストラの指揮者に抜擢されました。その後はエッセン市やケルン市の音楽監督、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の指揮者、ベルリン国立歌劇場への客演などを経て1934年から第二次大戦終了時までライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者として活躍しています。戦後は本CDで演奏しているライプツィヒ放送交響楽団やベルリン放送交響楽団の首席指揮者を歴任しました。アーベントロートは、指揮法の教師としても知られており、1915年からケルン音楽院の院長を務め、1925年にはヴァルター・ブラウンフェルスと協力してケルン音楽大学に改組しています。1933年にはナチスの介入で公職を追放されたブラウンフェルスの後を継いで学長になりましたが、アーベントロート自身が反ナチス的と見做されたことで辞任させられ、ライプツィヒ音楽院の教授に転出。戦後はヴァイマールのフランツ・リスト音楽大学の学長の職にあり、イェーナで客死した時には国葬が行われました。
本録音は何故か半音近く低いピッチで収録されています。他レーベルからの復刻でも同じようなピッチなので、これがアーベントロートの解釈なのか、はたまた原盤の再生速度を間違えたものが他社で使い回されているのか、今後の調査が待たれるところです。元々の変ロ長調のピッチに慣れた耳には、音がたるんでるように感じられることでしょう。響きは牧歌的ながら、どの楽章も巧みなギア・チェンジと豪放磊落なオーケストラの鳴りっぷりで、一気に聴かせてしまう面白さがあります。第2楽章は祈りよりも訴えに近い心情の演奏で、人間臭さがあります。

交響曲第6番は、1879年から1881年までかけて作曲された交響曲で、ブルックナー特有である突然の全休止を用いずに書かれています。この曲に関しては、ブルックナーは自信を持っており、作曲者自身は全くといっていいほど改訂の手を加えていません。
ここで演奏するのは、ハンス・スヴァロフスキー(Hans Swarowsky, 1899-1975)の指揮するウィーン祝祭管弦楽団です。ウィーン祝祭管弦楽団は、レコード会社が契約上オーケストラの名義を伏せる時に使った変名のひとつ。この録音は、他にも南ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団とか、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団とか、色々な名義で販売されていました。指揮者名も場合によってはコーン・ヴァイスとかチェーザレ・カンティエリとかという変名が使われていたことがあります。
指揮を執っているとされるスヴァロフスキーは、オーストリア=ハンガリー帝国領のブダペストに生まれた指揮者で、日本では「スワロフスキー」という表記で知られています。ウィーン国立音楽院の指揮法の先生としてマリス・ヤンソンスやクラウディオ・アバド、ズビン・メータなどを育てたことで高名ですが、20世紀前半のウィーンの音楽文化の生き字引のような存在でもありました。例えば、1910年には少年合唱団員としてグスタフ・マーラーの交響曲第8番の初演に参加しています。スヴァロフスキーにピアノを教えたのは、エミール・フォン・ザウアー、モーリッツ・ローゼンタール、フェルッチョ・ブゾーニの各氏で、指揮法はフェリックス・ワインガルトナーとフランツ・シャルクの薫陶を受けています。一応ウィーン大学を卒業していますが、その後もアルノルト・シェーンベルクやアントン・ウェーベルンから音楽理論を教わっています。20代でバレエ・リュスに参加したり、ウィーン・フォルクスオーパーやシュトゥットガルトの歌劇場でコレペティトゥーアを務めたり、エーリヒ・クライバーの助手になったりして実績を重ね、第二次世界大戦後にはウィーン交響楽団やウィーン国立歌劇場の指揮者として活躍しました。録音契約にはあまり頓着しない人だったため、残された録音がそれなりに多い割に、その名義の出自のハッキリしないものがかなり含まれます。
この録音も、先に述べたように、色々な別名義で売られていたものの一つで、演奏も録音もやっつけ仕事のような雑然とした仕上がりです。モコモコした音質、第4楽章の冒頭部分が切れた編集など、色々なところで杜撰さが感じられるでしょう。曲としては崩壊しているわけではないもののモラールの低く、指揮法の大家の録音としては名誉になりません。

交響曲第7番は1881年から1883年にかけて作曲されたもの。この曲にブルックナーが着手している時に敬愛するヴァーグナーが亡くなり、第2楽章の後半にヴァーグナーの葬送音楽の意味を込めています。
演奏は、カール・シューリヒト(Carl Schuricht, 1880-1967)の指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。録音当時、ハースがまだ校訂譜を出版していなかったので、1885年の初刊行版に準拠した演奏になっています。復刻に当たっては、丁寧にノイズ除去が施され、弦楽セクションの音が金属的になっています。
シューリヒトの演奏は、起伏より滑らかさにこだわった、あっさり目の演奏。第3楽章でも一切タメを作らず、ひたすらサクサクと曲を進めていきます。前出のスヴァロフスキーの演奏もあっさりしていましたが、スヴァロフスキーのものがやっつけ仕事みたいだったのに対し、シューリヒトの演奏は機械的にならない範囲で解釈の恣意性を削ぎ落していった確信犯的な意識を感じさせます。オーケストラの対応もスヴァロフスキーの演奏とは比較にならないくらいにテキパキしています。

第8番の交響曲は、1884年から1887年にかけて作られた、ブルックナーの生前完成した最後の交響曲です。出来上がった交響曲を指揮者のヘルマン・レヴィに送付したところ、演奏不可能のレッテルを貼られたのだとか。レヴィの評価に動揺したブルックナーは、この曲だけでなく、第3番と第4番の交響曲にも手を入れています。1890年までに改訂は終了したものの、1892年の出版の際に、弟子のヨーゼフ・シャルクが独自に手を加えています。しばらくはシャルク版で演奏されていましたが、1939年にハースがシャルクの改竄を除いたとする版を出版してからはハース版が使われるようになりました。ただ、ハース版は1887年時点の版と1890年の版を折衷的に取り入れた版だったため、第二次世界大戦後にノヴァークがそれぞれの版を校訂して出版しています。
本録音は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886-1954)の指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、ハース版とシャルク版を折衷したフルトヴェングラーの独自裁量に依っています。フルトヴェングラーは、この録音の翌日にライヴ録音を行っており、このスタジオ録音が切り貼りされて販売されたものもあるのだとか。この録音も正確な日時が明記されておらず、ところどころ咳が聴こえるところもあるので混ぜ物かもしれません。
フルトヴェングラーはドイツの指揮者。ヨーゼフ・ラインベルガー、マックス・フォン・シリングスやコンラード・アンソルゲらに個人的に師事して音楽の素養を身につけました。1906年からベルリンで音楽活動を開始し、1910年にはカイム管弦楽団(現:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)の指揮者として頭角を現すようになり、アーベントロートの後任としてリューベック市の音楽監督も務めています。1915年にはアルトゥル・ボダンツキーに指名されてマンハイム国立歌劇場の音楽監督となり、1922年にはアルトゥル・ニキシュの後任としてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任しました。その後、ウィーン交響楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者も掛け持ちし、ドイツ語圏随一の指揮者として高い名声を誇りました。ドイツの音楽学者であるハインリヒ・シェンカーとも交流を持ち、音楽学者としての論文や著作もものにしています。
フルトヴェングラーのブルックナーは、スタジオ録音におけるシューリヒトの芸風とは異なり、積極的に緩急をつけてドラマティックな音楽としての再現を試みています。第2楽章のスケルツォは爆撃のような迫力があり、第3楽章に至っても、情念が渦巻くようなねっとりとした表情が付いています。情熱の空回りスレスレのところで噛み合っているような危うさで最後まで押しきるのが魅力ですが、少々クドく感じることもあります。

1887年から作曲が勧められていた交響曲第9番は、第4楽章を作曲中にブルックナーが死去したため、未完成の交響曲となりました。作品の初演はフェルディナント・レーヴェの手で1903年に行われましたが、この時演奏されたのはレーヴェ自身が手を加えた改変版。第4楽章については、学者たちの間で様々な補作が行われていますが、どれも決定的な説得力をもつものとはなっていないようです。ここでは、アルフレッド・オーレルによる原典版に準拠し、シューリヒトとベルリン市立管弦楽団が録音しています。
ここで演奏されるベルリン市立(Städtisches)管弦楽団は、ベルリン国立歌劇場管弦楽団とは別の団体で、かつてフリッツ・ツァウンが首席指揮者を務めていた団体とのこと。第二次世界大戦後になると、全く言及されなくなるので、おそらくは消滅してしまったものと思われます。
演奏スタイルとしては、フルトヴェングラーのような緩急は付けず、淡々と音楽を進めていくスタイルは、先の第7番の交響曲と共通のスタイル。流石にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に比べると、弦楽セクションの音が細く、座りの悪いサウンド・バランスになっていますが、管楽セクションの好演のおかげで、第1楽章はなかなか味わいの深い演奏に仕上がっています。第2楽章は力感よりも朴訥とした語り口にウェイトを置いた演奏。弦楽セクションの反応が鈍く、えっちらおっちらなんとか坂を上ってきた風。第3楽章は無欲恬淡なシューリヒトの棒が曲想と合致し、しみじみと感動する音楽として刻印されています。

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