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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Antonín Dvořák: Cello Concerto in B minor, op.104
Gregor Piatigorsky (Vc)
Boston Symphony Orchestra
(Rec. 22 February 1960, Symphony Hall, Boston)
◈Igor Stravinsky (arr. Igor Stravinsky & Gregor Piatigorsky): Suite Italienne
Gregor Piatigorsky (Vc)
Lukas Foss (Pf)
(Rec. 1958)



アントニーン・ドヴォルジャーク(Antonín Dvořák, 1841-1904)のロ短調のチェロ協奏曲とイーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)のイタリア組曲のカップリング。チェロ独奏はどちらもグレゴール・ピアティゴルスキー(Gregor Piatigorsky, 1903-1976)です。ドヴォルジャークのチェロ協奏曲のほうは、シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891-1968)の指揮するボストン交響楽団が伴奏を務め、イタリア組曲はルーカス・フォス(Lukas Foss, 1922-2009)がピアノを弾いています。

ドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、チェコ人チェリストのハヌシュ・ヴィハンの依頼を受けて1895年にアメリカ滞在中に書き進められた作品。この作品を仕上げている時に、ドヴォルジャーク夫人の姉でカウニッツ伯爵家に嫁いだ初恋の人、ヨゼフィーナの重病の報を受け、祖国チェコに強引に帰国しています。第2楽章には歌曲〈一人にして〉(op.84-1)をあしらっていますが、これはヨゼフィーナが一番気に入っていたドヴォルジャークの作品だったとのこと。第3楽章のコーダも短く終わらせる仕様でしたが、ヨゼフィーナの訃報を受けてコーダを長いものに作り替え、先の歌曲を再び投入しています。
作品が仕上がった後、ドヴォルジャークはヴィハンと初演の打ち合わせをしましたが、ヴィハンは独奏パートの簡易化とカデンツァの挿入を希望しました。ヴィハンが作品に手を加えようとするのにドヴォルジャークは激怒し、1896年の3月19日にロンドンで行われた初演ではヴィハンではなくレオ・スターンが独奏者に選ばれました。その後、ヴィハンがチェコ国内での初演で独奏を務めることになった際には、ドヴォルジャークはヴィハンに手紙を送り「一音たりとも手を加えるベからず」と念を押しています。
今日でも、メロディの豊かさゆえに、チェロ協奏曲の人気曲としてよく演奏されます。しかし初演予定者だったヴィハンが怖気づいたように、チェリストにとってもひと汗かくどころではない難曲として恐れられてもいます。

ストラヴィンスキーのイタリア組曲は、バレエ音楽《プルチネルラ》(1919-1920年作)の音楽をセレクトして室内楽用に編纂し直した作品。ヴァイオリン版はサミュエル・ドゥシュキンと作曲者の共同編曲ですが、チェロ版はピアティゴルスキーとの共同編曲になります。ピアティゴルスキーの自伝によると、ストラヴィンスキーは「フィフティ・フィフティにしよう」と編曲の話を持ちかけてきて、ピアティゴルスキーは楽譜の印税を山分けにしてくれると思い、編曲作業を引き受けたそうです。しかし、ふたを開けてみると、楽譜の印税の編曲者の本来の取り分を半分に分けるという話になっており、ピアティゴルスキーにはスズメの涙ほどの収入にならなかったのだとか。

本CDで演奏するピアティゴルスキーはウクライナ出身のチェリスト。モスクワ音楽院でアナトリー・ブランドゥコーフとアルフレッド・フォン・グレーンにチェロを学び、15歳でボリショイ劇場の首席チェロ奏者を務めるほどの人でした。18歳の時、国外留学が認められなかったために亡命し、ベルリンでフーゴー・ベッカー、ライプツィヒでユリウス・クレンゲルの薫陶を受けました。1924年にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーの知己を得て、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者を務めています。1929年にはアメリカに演奏旅行に出かけてそのまま移住し、1942年には市民権を取得しました。エマニュエル・フォイアマンの後を受け、ヤッシャ・ハイフェッツとアルトゥール・ルービンシュタインとの「百万ドル・トリオ」で名声を博しましたが、ソリストとしても数多くの演奏会や録音をこなしていた人です。
ドヴォルジャークの協奏曲でタクトを振るミュンシュは、ドイツ領シュトラスブルク(現:フランス領ストラスブール)の音楽一家に生まれた人で、地元の音楽院でヴァイオリンを学び、1926年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサート・マスターとしてキャリアを始めました。1929年にパリで指揮者に転向し、1937年にパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に就任して名声を確立しました。ボストン交響楽団へは1949年から首席指揮者を務めていた間柄であり、このオーケストラの黄金時代を作り上げました。
ストラヴィンスキーの作品でピアノを弾いているフォスは、作曲家としても活躍したアメリカのマルチ音楽家です。ピアノの腕前は、パリ音楽院でラザール・レヴィに仕込まれたもので、プロフェッショナルなピアニストとしてリサイタルやコンサートでも引っ張りだこでした。

ドヴォルジャークの協奏曲の演奏は、テクニック的な面で言えば、後輩格のムスティスラフ・ロストロポーヴィチの芸風を基準にすると技のキレがなく、第3楽章は頼りなさげに聴こえることでしょう。しかし、特に第2楽章をはじめとしたしみじみとした歌心は、ロストロポーヴィチよりも肌理が細かく、近年の若手チェリストには感じられない老練の味わいがあります。明らかに音をさらえていない所でも、噺家の話術のような巧みさで乗り切っており、その演奏に不満を感じることはないでしょう。覇気の代わりに人情を感じさせる演奏です。ミュンシュは、特に総奏では火を吹くようなテンペラメントを示しますが、チェロの下支えになると急に他人行儀になるという態度の変わり様が面白いものです。結果として、ピアティゴルスキーの練達のチェロと情熱的なオーケストラの住み分けができており、両者の芸風を並置的に楽しめますが、一方が他方を煽ったり、他方が一方とがっぷり組むということがなく、もしもソリストが凡百だったらと考えると、手放しで名演奏だと思える所作ではありません。
ストラヴィンスキーの作品では、ピアティゴルスキーのチェロが、ピアノのフォスとぴったり呼吸を合わせ、折り目の正しさと溌剌さを併せ持った見事な演奏です。無論主導権はチェロが握っていますが、疑似バロック的な立ち居振る舞いに、バスター・キートンの喜劇のような可笑し味が加わっています。フォスのピアノも、作品の性質をよく踏まえ、控え目ながら効果的な合いの手でピアティゴルスキーの演奏を上手く引き立てています。

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