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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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CD1:
◈Sergei Rachmaninoff: Symphony No.1 in D minor, op.13
Orchestre de la Suisse Romande / Walter Weller
(Rec. August 1972, Victoria Hall, Geneve)
◈Sergei Rachmaninoff: Symphony No.3 in A minor, op.44 (beginning)
London Philharmonic Orchestra / Walter Weller
(Rec. March 1974, Kingsway Hall, London)

CD2:
◈Sergei Rachmaninoff: Symphony No.3 in A minor, op.44 (conclusion)
London Philharmonic Orchestra / Walter Weller
(Rec. March 1974, Kingsway Hall, London)
◈Sergei Rachmaninoff: Symphony No.3 in E minor, op.27
London Philharmonic Orchestra / Walter Weller
(Rec. May 1973, Kingsway Hall, London)




ロシア出身の作曲家、セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff, 1873-1943)の交響曲は、通し番号のついたものに限れば、第3番まであります。本CDは、その3曲を一堂に会させたアルバムです。指揮をするのはワルター・ウェラー(Walter Weller, 1939-)で、第1番の交響曲のみスイス・ロマンド管弦楽団が担当し、他の曲はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。
このCDでは、指揮者の名前は「ヴァルター・ヴェラー」になっていますが、ウェラーはウィーン生まれのウィーン育ちで、フランツ・サモヒルに学び、17歳でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に入団した経歴の持ち主です。ドイツでは「W」の発音は英語の「V」に近い子音ですが、オーストラリアの特にウィーンでは、英語の「W」に近い発音を独自の訛りとして保持しています。1961年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサート・マスターにまでなったウェラーは、ヨーゼフ・クリップスに師事して指揮法を会得し、1969年には指揮者に転向し、1977年からはイギリスを本拠に活躍しています。活動の本拠を鑑みて英語読みすれば「ウォルター・ウェラー」になりますが、彼の出生地や活動の本拠を勘案しても、決して「ヴァルター・ヴェラー」という読みにはなりません。
また、ラフマニノフの交響曲第3番の録音データが1975年になっていますが、実際は1974年の録音です。

交響曲第1番は、1895年の作品。ラフマニノフは1892年にモスクワ音楽院を卒業し、ピアニストとして華々しい活動を展開していました。これまでもピアノ曲やピアノ協奏曲は書いていたものの、4楽章の交響曲の完成が作曲家として本格的に活動する必要条件だと考えたラフマニノフは、苦心惨澹の末にこの曲を完成させました。作品は、恩師のセルゲイ・タネーエフを通じて1897年の3月15日にアレクサンドル・グラズノフの指揮で初演されました。この時に同時初演されたのがグラズノフの交響曲第6番ですが、グラズノフが自作のほうに練習のウェイトを置いたことで、ラフマニノフの作品の演奏は割を食い、グラズノフの理解不足とオーケストラの練習不足のおかげで悲惨な大失敗に終わってしまいました。結果、ラフマニノフは自分の作曲能力に自信が持てなくなり、ニコライ・ダールに治療を受けるまで殆ど作曲できなくなってしまいました。

ダールの治療を受けて創作意欲を回復し、1901年のピアノ協奏曲第2番の発表で作曲家としての名誉も回復したラフマニノフは、次なる大曲として交響曲第2番を計画しました。しかし、私生活では結婚と出産、1904年からはボリショイ劇場の指揮者を任されたことで多忙を極め、1903年に構想こそ練ったもののしばらく放置せざるを得なくなりました。このため、1906年から一時的にドレスデンに移住して集中的に作品に取り掛かり、翌年には作品を完成させました。しかし、交響曲第1番の苦い経験が頭をよぎったのか、初演前にさらに改訂を加え、1908年1月26日のマイリンスキー劇場での初演では自らがタクトをとりました。初演は成功に終わり、前に作ったピアノ協奏曲第2番同様にグリンカ賞に選ばれ、作品は恩師のタネーエフに献呈されています。ラフマニノフは晩年になって、40分程度で演奏できる簡略版を作り、この簡略版での演奏も行われましたが、簡略版がラフマニノフの本意ではなかったということで、近年では出来る限り簡略化しない方向での原典版の演奏が主流になっています。本CDに収録された演奏も、第1楽章のリピートを省略しただけの一般的な原典版によるものです。

第2番の交響曲を書き上げた頃から、母国ロシアは政情が不安定になり、ラフマニノフは1917年にパリ経由でアメリカに亡命しています。アメリカに亡命してからは母国との文化の違いから創作意欲が低下し、ピアニストとしての名声のおかげで作曲時間が充分に取れなくなっていました。1934年に作曲した《パガニーニの主題による狂詩曲》などで作曲への意欲を幾分戻したラフマニノフは、1935年から翌年にかけて、演奏家としてのシーズン・オフ時にスイスに行って作曲に没頭して交響曲第3番を完成させました。1936年11月6日にフィラデルフィアでフィラデルフィア管弦楽団によって初演されましたが、タクトはレオポルト・ストコフスキーが執っています。
この曲は、これまでの交響曲が4楽章構成だったのに対し、この曲では真ん中の2つの楽章に相当する部分を圧縮して3楽章構成に仕立てています。これまでのラフマニノフの作品からすると、濃厚にメロディを歌い上げるのではなく、リズミックなモチーフを散りばめて音楽を形成しようとする作風への転換が図られています。作風の転換としては、まだ第2番の交響曲を引きずっているところもありますが、調性を捨てずに如何に無調音楽と渡り合うかというクリエイターとしてのラフマニノフの苦心を感じさせます。

ヴェラーの演奏の中で、彼のアプローチが一番しっくりくるのが、この第3番の演奏です。メロディ・ラインの甘美さを抑えようとするラフマニノフの芸風と、あっさりすっきりオーケストラを纏めようとするヴェラーがうまく噛み合い、小気味良いフットワークで面白味のある演奏を展開しています。第3楽章など、音楽の相貌の目まぐるしい変化を楽しんでいるかのようです。
第2番の交響曲は勢いで一気に押し切る演奏で、第2楽章や第4楽章ではメリハリのついた見事な出来栄えです。ただ、第1楽章が行き当たりばったりで印象が薄く、この曲の中でもとりわけよく知られた第3楽章は、コッテリとした味わいを求める向きにはよそよそしい演奏です。
スイス・ロマンド管弦楽団を従えた第1番の演奏は、初演の失敗を彷彿とさせる生煮えの演奏です。金管が突出傾向で木管セクションが引っ込み気味で、弦楽セクションもピアノ曲みたいな音の動きに右往左往しており、苦戦を強いられています。第2番や第3番のように、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏すれば、作品の内実により深く踏み込んだ表現が出来たかもしれません。

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