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1928年の日本ハナゲ學会第3分科會において瓢箪屋蓑吉氏が発表した「傳説の白ハナゲと黑ハナゲの脱色化の判別に關する文化論的一考察 ―ルウブル美術館をくまなく回ろうとして挫折したフレデリツク勅使河原氏の手記を中心に―」を再読したり、検証したりするBLOGではないことは確かなことです。ええ!確かなことですとも!
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Robert Schumann: Symphony No.1 in B flat major, op.38 "Spring"
Robert Schumann: Symphony No.3 in E flat major, op.97 "Rhenish"
Silesian Philharmonic Orchestra / Karol Stryja
(Rec. 11-16 December 1988)







ドイツの作曲家、ロベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810-1856)は、生涯に4曲の交響曲を出版していますが、それぞれの交響曲の成立過程に目を向けると、19世紀の作曲家の苦労を偲ぶことができます。
シューマンが生まれた頃はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが生きていて、ベートーヴェンの交響曲第9番が初演されたのはシューマンが14歳の時でした。ベートーヴェンの没後、ドイツ・オーストリアではポスト・ベートーヴェンとして、彼に匹敵、あわよくば凌駕する作品が期待され、シューマンもポスト・ベートーヴェンの野望を持っていました。最初に交響曲に挑戦したのは1832年の時でしたが、最後まで曲を作れずに挫折しています。その後、1840年にクララ・ヴィークと結婚したのを機に、イ短調の交響曲の作曲計画を立てましたが、これまた創作の勢いがつかずに頓挫しています。

交響曲第1番は、1841年の1月から2月にかけて、一気に書かれた作品です。
上記のように交響曲の作曲に苦労していたシューマンでしたが、歌曲を集中的に生み出していた時に、アドルフ・ベトガーの詩から霊感を受けて一気に書き上げてしまいました。出来た曲をシューマン自身が「春の交響曲」と呼んでいたことから、「春」というニックネームがついています。
出来上がった曲は、その年の3月31日に親友のフェリックス・メンデルスゾーンの指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演されました。
この初演のリハーサルの時に、当時の楽器の機能では演奏できない個所についてメンデルスゾーンの助言を得ながら改変を施しています。
初演は成功し、楽譜も出版されましたが、その後も演奏効果を考えて手を加え、1853年に決定稿を出版し直しています。この改訂までに、ベトガーに影響されて書きこんでいた各楽章の標題「春の始まり」、「夕辺」、「楽しい遊び」、「春たけなわ」は削除されました。

交響曲の作曲に自信を持ったシューマンは、早速次の交響曲を妻へのプレゼントと称して書きはじめ、交響曲第2番として出版する段取りまで整えましたが、書き上げた曲は、以下に示す事情で出版を撤回の上、当分の間封印されることになりました。
交響曲第1番を初演したその年の12月6日にライプツィヒで行われた初演では、妻だけでなくフランツ・リストまで賛助出演していました。また、指揮をするはずだったメンデルスゾーンが病気のためにフェルディナント・ダヴィットが代役を務めています。聴衆は、高名なピアニストだった妻とリストの競演のほうに熱狂し、名ヴァイオリニストのダヴィットが指揮をするというイベント性のほうに興味を持ったため、肝心のシューマンの交響曲が殆ど話題になりませんでした。このショックでシューマンは出版を差し止め、曲を仕舞いこんでしまったのでした。
このショックはシューマンの精神にダメージを与え、1845年から翌年にかけて手掛けた交響曲第2番(本来第3番になるはずだったもの)には、そうしたダメージから立ち直ろうとするシューマンの姿が投影されています。一時封印された交響曲のほうは、1851年に改訂され、交響曲第4番として出版されています。

交響曲第3番(本来の第4番)は、1850年から翌年にかけて作られた曲です。上記の交響曲の出版取り止め以降、次第に精神的に不安定になっていったシューマンは、1847年に長男を亡くしたり、親友のメンデルスゾーンの訃報に接したりして、ますます落ち着かなくなっていきました。こうした事態を打開すべく、デュッセルドルフ市の音楽監督の任を引き受け、療養しながら音楽活動を続けることにしました。
デュッセルドルフ市から熱烈な歓迎を受けたり、さらにその土地のライン川周辺の風光明媚さに触れたり、ライン沿いのケルン大聖堂の壮麗なステンドグラスを見たりして、シューマンは次第に交響曲の創作意欲を持つようになりました。
出来上がった曲は、1851年2月6日にデュッセルドルフでシューマン自身が指揮して初演しています。
曲は、当時としては破格の5楽章構成をとり、第3楽章と第4楽章が緩徐楽章の役目を担っています。
特に第4楽章は、ケルン大聖堂の印象と、ケルン大司教へのヨハネス・フォン・ガイゼルが就任したことにインスパイアされており、峻厳な音楽に仕上がっています。
全体的にはライン川周辺の景色を見て感動するシューマンの気分の高揚が曲想に反映しているので、誰からともなく「ライン」という通称で親しまれています。ただ、ほとんどを高揚した気分で埋め尽くす本作品の作風事自体からは、精神的な不安定さを嗅ぎ取ることも不可能ではありません。

本CDでは、この交響曲第1番と第3番が選ばれて収録されていますが、演奏は、カロル・スティリャ(Karol Stryja, 1915-1998)の指揮するシレジア・フィルハーモニー管弦楽団(Silesian Philharmonic Orchestra)が担当しています。
スティリャはチェシンに生まれ、カトヴィツェに没したポーランドの指揮者で、グジェゴジ・フィテルベルクの弟子です。
シレジア・フィルハーモニー管弦楽団は1945年にヤン・ニヴィンスキを初代首席指揮者に据えて発足した、ポーランドはカトヴィツェのオーケストラです。1947年からヴィトルド・クルゼミンスキ、1949年からスタニスワフ・スクロヴァチェフスキを経て1953年からスティリャが四代目の首席指揮者となり、1990年までの長期にわたって、このオーケストラを育成してきました。

その演奏内容は、第1番の交響曲では弦楽器の響きに潤いが少ないものの、小回りが利いています。金管セクションのバランスが突出傾向にありますが、木管セクションの豊かな表情付けが音楽の表情をしっかりしたものにしています。シューマンのオーケストレーションは、指揮者裁量で良く響くように改変され、響きが野暮ったいと批判されることもありますが、この演奏では、お互いに音を塗りつぶし合うようなゴテゴテした感覚がない分、シューマンの音色のブレンドの面白さを味わうことができます。
第3番のほうは、弦楽セクションが非力さを補うべく奮闘していますが、それが却って力みとなっています。第1楽章や第2楽章の脈動するメロディ・ラインのダイナミズムの再現が中途半端になってしまっているので、表情が硬くなり、一本調子に聴こえてしまいます。終楽章は、あまり歓喜の表情を前面に出さず、速めのテンポでメリハリをつけていますが、音色のブレンドが第1番の交響曲程に成功していません。

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